第1章 歯車 その2

 共同墓地の一角に寄り道をした後、エルティスはルシータの民はもうほとんど誰も近寄らない祀りの森へと分け入った。


 祀りの森――その名の通り、かつては神々のうちの誰かが祀られていた神聖な森であったのだが、世界が魔法を失い神からの恩恵を必要としなくなりつつある時代、その名も忘れられつつあり、現にエルティスはこの森に祀られる神の名を知らなかった。

 捧げものをもって訪れる人も既になく、かつての参拝のための道は自然の繁殖力により失われ、今は獣道が残るのみとなっている。


 その中を、茂みを掻き分けながらエルティスは慣れた様子で進んで行く。すぐ目の前に下りてきている枝に髪を絡ませることも、頬を引っかけることもない。

 森の精霊たちの加護もあるのかもしれないが、この祀りの森の中、犬神がいつもいる場所までの道は、彼女にとっては幼い頃から歩いた道である。

 もう間もなく犬神のいる木々の開けた場所に出る、というところで、エルティスは唐突に立ち止まり、小さく声を上げた。


「あ」

 エルティスが見つめる森の木々の緑に重なるようにして、見えたものがある。そして、ここにはいない人の声が聞こえた。

『デュエール!』

 名を呼ばれて振り返ったのだろう、きっちり字の書き込まれた書類が消え、ぐるりと光景が旋回して、目の前に少女の姿を映し出す。

「……ミルフィネル姫」

 思わず、エルティスはその少女の名を呟いていた。


 腰と膝とのちょうど中間でまっすぐ切りそろえられた癖ひとつない黒髪は、倉庫の中でも艶やかに光を放っている。額髪は長く伸ばされ横髪と共に左右に分けられており、あらわになった額を、細い鎖で作られた飾環が薄紅色の宝石を吊るして飾っていた。

 瞳は星のない夜の闇。倉庫の天井に幾つも輝く明りを反射し、きらきらと輝いて見える。

 顔立ちはほっそりと繊細で、思わず守ってあげたくなるようなか弱い少女を絵に描いたような面立ちの娘。

 黒目がちのその目に穏やかな微笑を浮かべて、この視界の持ち主である彼を見つめているのが、神殿都市ルシータの首長でもある現巫女姫カルファクスの一人娘、ミルフィネルである。

 十二歳、大人の印を見たときより、母たる巫女姫の後継者として修行を始めている彼女は、今年の冬で十六になる。今年既に十七になったエルティスとデュエールとはひとつ違いだ。

 いずれは彼女が次代の巫女姫として、母の地位とルシータの統治権を継ぐことになる。ルシータはファレーナ王国に属する都市でありながら、古からの神託や魔力を擁する者達のために半ば独立状態にあった。その首長は大きな力を持つのだ。


「あーあ、これじゃあ、デュエールが来るのは、きっと遅い……」

 エルティスはあさっての方向を見ながら、そう呟いた。

 また彼女は延々と何かおしゃべりを始めるに違いない。それをデュエールは律儀に最後まで聞くのだろう――彼は話を途中で止めたりはしないのだ、決して。

 ミルフィネルの唇が開かれたのを見た瞬間に、エルティスはデュエールの視界を手繰り寄せることをやめて、繋がった糸を素早く手放した。一瞬のうちに少女の姿は霧散し、声も遠くなって、森の生む静かで優しい音と一面の緑だけが残る。


 エルティスはため息をついて大きく首を横に振った。

 これで、二人が何を話しているのかわからなくなった。いつ姫の話が終わり、デュエールが仕事を再開して終わるのか、手がかりはなくなった。

 それでも、どうしようもない不安を抱えて待っているだけの方が、遠く離れたところで一人、彼と彼女の会話を聴いているよりずっと良かったのだ。彼女に向けられたデュエールの言葉を、聴きたくなかった。

「……いつ、終わるんだろう」

 エルティスは一言そう呟く。いつもならばここで散々愚痴をこぼしながら犬神の元へ向かうところなのだが、彼女はそれきり黙ったまま、先へと進んだ。


 いくらも歩かないうちに、エルティスの視界を遮る木々は急速に少なくなり、森の中、開けた場所に出る。

 そこには巨大な岩が陽光を浴びており、その岩にも負けないほどに大きな体躯の山犬が上に寝そべっていた。エルティスが今日会う予定だった、犬神だ。

 エルティスの気配に気付いたのか、立てた物音を聞いたのか、彼女が声をかける間もなく、犬神はその首をゆっくりと上げ、エルティスの立っている場所へとめぐらせた。

『おや、ずいぶん静かだと思ったら、今日は一人なのかね、愛ぐし子よ』

「ううん、デュエールも来るはずだったんだけど……。今、ミルフィネル姫が来てるから、きっと来るの遅くなると思う。……ごめんね、ちゃんと約束してたのに」

 エルティスが申し訳なさそうに言うと、犬神は頭を振る。

『かまわぬよ。未来とは不確定なものであるしな』


 犬神は、ルシータの領地内の森に住む種族を治める山犬である。

 世界が魔法を失っている時代、知恵を持つ種族もその影響を免れなかった。かつて彼らの先祖は人の言葉を解し、魔力を以て人の言葉を話したが、今の彼らもまた、そのほとんどの力を失っている。

 今、人の言葉を解し話せるのは、もう犬神だけだ。その次の世代に、その力はない。


「前はそうでもなかったんだけど、この間デュエールが帰ってきてからはもう毎日入りびたりでね。まあ、巫女の務めを疎かにしてるわけではないから、問題はないんだけど」

『……ああ、カルファクス殿のご令嬢か。デュエールはすっかり気に入られているようだな』

 犬神の笑いを含んだ言葉に、エルティスの表情が一瞬曇る。

「まあ、ね。……ずっと昔からで、今に始まったことじゃないから」

 もう慣れた、とエルティスはため息と共に吐き出した。


 エルティスとデュエールは幼馴染みだ。

 ルシータに繁栄と滅びをもたらす“神の子”として人々にも子供たちにも敬遠されていた二人は、自然と一緒に遊ぶようになっていた。同じ立場に立っている者として。犬神と出会ったのもその頃。

 けれど、いつからだろう。二人の間に時折ミルフィネル姫が入って一緒に遊ぶようになってきて。時が経つにつれてデュエールと姫だけで何かをすることも増えてきて、――そして、デュエールはエルティスを愛称で呼ばなくなった。


 エルティスは焦点をふと犬神から逸らす。手放して見ないつもりでいた、遠くにある視界をもう一度覗いてみる。

 デュエールの視界でものを見ているときのエルティスは、どこか遠い目をしてぼんやりしているように見えるのだ。犬神はそれを知っていたから、自分の方向を向いたまま遠くを見つめるエルティスを黙って見ていた。

 声は聞き取らない。そう意識して、デュエールが聞く音を拾わないようにしながら、デュエールが見ているものを見る。

 エルティスの『目』には、視界の大部分を占めるミルフィネルの姿が映っていた。……そんなに傍に、いる。


「……全然、仕事は進んでないみたい。もしかしたら、来れないかもしれないね」

 デュエールの視線が手元の書類に動く気配はない。しばらくそのまま待ってみてそれでも変化がないと、エルティスは焦点を犬神へと戻した。

『さて、それは困ったものだね』

「あたしがいて何か役に立つかって言われたら返す言葉なんてないけど、あの姫がいても、食料庫のチェックは全然はかどらないんだよね。デュエールは優しいからさ、邪険にしたりできないの」

 エルティスの表情が寂しげになる。

「あたしのわがままにもつき合ってくれるし、ね」

 そう言いながら、エルティスは犬神の寝そべる岩に寄りかかり座り込んだ。

 犬神の深い色の瞳が自分の子供を見るように彼女を見つめる。そして、彼女には聞き取れないように小さく呟かれた言葉。

『わしはそれだけではないような気がするがね』

「何か言った?」

 一瞬犬神へと視線を向けて、エルティスは天を仰いだ。緑の木々に切り取られた空が青い。太陽から降り注ぐ穏やかな陽気が、二人のいる空間に満ちていた。

「なんだか、昔のままじゃいられないような気がするんだ。あたしに対する包囲網は、昔のまま何も変わらないけど、デュエールに対しては変わってる。デュエールは、ルシータの民として認められる日が、きっと来る。みんなが気が進まなくても、次代の巫女姫であるミルフィネル姫がそうさせる。だから……」

 その瞬間に、自分は全てを失ってしまうのではないのか。最後に残された、ささやかな幸福も、自分の居場所も、何もかも。

 今まで気にしないできたその恐れが忽然と湧いてきて、エルティスは愚痴をこぼすことができなかったのだった。


 幼い頃、エルティスは両親を亡くしている。

 ファレーナ王国中を震撼させた流行病にかかったのだった。

 治療薬はあったが、一般市民の手が出るような容易に手に入る値段の薬ではなく、魔法で治療も可能だったが、治療院にかかる治療費は彼らが払える額ではなかった。

 感染率は高く、死亡率も高かったと、王国の記録には残っている。

 それでも、魔法を使う人材の多くいるルシータでは、不治の病というほどの病気ではなかったのだ。死亡率は王国随一低い記録だ。

 死者は、赤ん坊が数人、老人が数人、他に三名。――エルティスの両親と、デュエールの母親だった。

 三人は、神官たちがもっと重症の者の治療を優先した結果、魔法でも治療不可能な状態にまで進行し、手遅れで亡くなっているのだ。

 見捨てられたと、幼い子供が思うのも当然だろう。神官たちに対し憎しみにも似た感情を抱き、それは今も大部分の神官に対する毛嫌いと不信感としてエルティスの中に残っていた。

 エルティスが今思うのは、あの時自分が治せていたら、ということだ。

 精霊たちからの加護とそれによる強大な魔法。あのときにそれを自由に使うことができていたら、自分たちが両親を亡くすことも、デュエールが母親を失うこともなかったと思えるから。


 最後の肉親とも離れることになった。

 ドラーク・ノベランナーとの婚姻を反対された姉、神官でもあるリベル・ファンが選んだのは、両親が眠る故郷ルシータを捨てることだった。

 神官としてのすべての地位を捨てて、二人はルシータを出た。今は、このオルカリア山の麓に位置する村レンソル――かつてはルシータへ向かうための宿場町であった――に暮らしている。

 姉は、ただ一人になってしまう妹を連れて行こうとしてくれた。

 けれど、エルティスはそれを拒んだのだった。

 ――あたしはまだここにいたい。

「嫌になったら、いつでもおいでって、姉さんは言ってくれたけどね」

 エルティスのただ一言の返事で、彼女はそこにこめられた全てを理解したのだろう。

 心配そうに、けれど静かに頷いた姉リベルの姿を、エルティスは思い出した。

 姉がこの地を訪れることも、妹が麓へ赴くことも、リベルがルシータを出て行ってからは一度もない。それは、この街の首長である巫女姫カルファクスが、地位を捨てた神官との交流を禁じたからだ。手紙のやり取りすらも、許されていない。


 わずかな沈黙の後、犬神は口を開いた。

『何故だね?』

 エルティスが上を見上げると、その視線は自分を見下ろす犬神の瞳とぶつかった。その目がたたえる光はいつも優しい。エルティスはこの瞳が大好きだった。

『いつでも出ることはできたのだろう? 迎え入れてくれるところがあったのだから。文句を言いながら、それでも何故ここにいたのだね?』

「何故って? ……まだ、デュエールは来ないみたいだから、言っちゃおうかな」

 エルティスは、見えるはずのない森の外の方向に目を向けた。ちょうど彼女がこの森へと入ってきた入り口へと。


「両親のお墓があるからでもあるわ。犬神がいるからでもある」

 病で倒れた両親の墓は、姉と二人で作った。他の者と比べればお粗末なものであったけれど、そのときの自分たちにとっては最高の弔いのつもりで。

 共同墓地のはずれ、最も森に近い一角。そこに、エルティスの両親の墓がある。

 犬神に護ってもらえるように――そんな願いを込めて、幼い二人は二人をそこに祭ったのだった。

 今日も、来る前に寄り道をして花を供えてきた。母が大好きだったすずらんを。

 両親の墓を護って、犬神と一緒の時間を過ごして。そうすれば、例え一緒にいる家族がいなくても、日々は暮らせると思ったから。

 それは、ただ。


『……他にも、理由があるのだね。言いたくないのならば、それでもかまわぬよ』

「ううん、できれば、犬神に聞いてほしいの。他に言う相手なんていないし」

 寂しそうに笑って、エルティスは続けた。

「ルシータは大嫌いよ。でも、あたしはここにいることにした。――デュエールがいたからよ」

 彼女自身も、そしてデュエールも、ルシータの住人は好きではなかった。むしろ考え方は嫌いだった。

「あたしは、たとえここが両親の故郷でも嫌いだけれど、デュエールはここは生まれ育ったところだから、お母さんが眠るところだから、好きって言ったわ。仕事でどんなに遠くへ行っても、デュエールは必ずここへ帰ってくる」

 デュエールは必ずここへ帰ってくる。どんなに遠く離れても、ルシータにいる限りは、わずかの間でも、必ず会える。

 だからだ。

「ここにいれば、絶対会える。一緒に時間を過ごすこともできる。……そう思ったから、辛かったけど、あたしはルシータにいることにしたの」

 たとえ一人でも。

 昔四人で仲良く過ごした家に、今は一人。それでもいい。悲しいものも、楽しいものも、すべての思い出を抱える家に一人でいることを決めたのだ。

 まだ、ルシータには彼女の寂しさをわかってくれる優しい幼馴染がいるために。


 エルティスは犬神を見上げて笑った。

「馬鹿な理由って、思う、犬神? ……時々ね、そう思うこともあったの。……でも、捨てられなかった」

 姉や義兄と一緒に賑やかに過ごす毎日よりも、時々会えるだけの幼馴染を待つ日々を選んでしまった。

 犬神はそんな彼女を見つめたまま、何も言わない。

 その感情は理解できた。だが、人間でない彼は、言うべき言葉を見つけられない。

 風が、優しく二人をすり抜ける。風霊の仕業。『彼女』は主であるエルティスの心を慰めるために風を吹かせた。

 風は想いを伝えるものでもあるとされる。風が世界を渡るように、想いも伝わってしまえばいい。

 でも、答えが怖いから、……言えない。


「……もう、この話は終わりね、デュエールが森に入ってくるところだから。もうすぐ来るよ」

 エルティスはデュエールの目に映る森の緑を見ていた。

 木々は視界に入った途端に慌ただしく後方へと消えていく。きっと大急ぎで走っているに違いない。

 隣にミルフィネルがいるような様子はなく、エルティスは少し安堵した。

 そう。犬神と話す間は、この森にいる間は、誰にも邪魔されない。

 この森は、既に神も祀られない捨てられた森だから。そして、繁栄をもたらすと言われながらも滅びを抱える“神の子”がよく出入りする森だから。だから誰もここへは入り込んでこない。

 何であっても、二人でいられるのならば、それでいい。

『ふむ。何と言って困らせてやろうかね』

 いたずらめいた口調で犬神が言うと、エルティスは無邪気に笑った。

 その後を追うように、エルティスが聞きたくてたまらなかった青年の声が響く。

「ごめん、犬神! 遅くなった!」

 わずかだけれど、幸せな、楽しい時間の始まり。

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