第1章 歯車 その1

「最近、なんだかファレーナ王国内が荒れてるでしょ?」

 自分の身長並みの高さの樽に腰掛けて、エルティスは毛先がわずかに波打つ腰までの亜麻色の髪をかきあげて言った。綺麗に切りそろえられた額髪の下で、快活な光を宿した水色の瞳が、ぐるりと回って足元を見下ろす。

「ああ、暴動やら流行病やらでずいぶんな。道に怪我人や病人が溢れてる。王宮のほうも手を出しかねてるみたいだし」

 床に片膝をついていたデュエールは、手に持った書類に目を落としたまま答えてから、その緑色の目で不思議そうにエルティスを見上げた。

「それにしても、よくわかったな。この街から、一歩も外に出てないだろう? ルシータは周囲の事件に疎いと思ったけど」

「あたしの『目』を何だと思ってるの? デュエールが見たものなら、見ようと思えばあたしにも『見える』のよ」

「そうだったな」

 自慢げに言うエルティスに、デュエールは涼やかな笑顔で応じる。


 それはエルティスの他は誰も持ちえない力であった。例えどれほど離れていても、エルティスはいつでも望んだときにデュエールの視界を借りて物を見ることができる。ただし彼以外の者の視点を借りることはできないのだ。

 二人が“神の子”であり、絆を持つことを示す確かな証。ルシータに住む者なら誰であってもそのことを知っていた。


 ふと、エルティスは首を傾げる。一歩もルシータを出たことがなく、世界のことを知らない彼女でも、ここにいるからこそ持っている知識があったのだ。

「……でも、治療院は? 仮にも、ルシータが作って一応治癒ができる神官がいるんじゃなかったの?」


 神殿都市ルシータは他のどの街よりも魔法の使い手を擁する魔法都市でもある。王都からの依頼を受け、中規模の街から大都市にかけて設置された治療院には、癒しの魔法を修める神官が派遣され医学や薬学の知識を持つ者とともに働いているはずだった。


「駄目だよ、治療院は。一般市民には役に立たない」

「なんで?」

 果実酒が収められている樽に座っているエルティスは、床で食料庫の中身を調べているデュエールに問いかけた。

 瞳は、彼の癖のないさらっとした茶色の髪を見つめながら。旅立つ前は短く刈っていたはずなのに、外回りの間に伸びたようだ。それでもひとまとめにするにはまだずいぶんと短かったのだけれど。

「ここにある一ヵ月分の食料を見ればわかるだろうけど、ずいぶん贅沢してるよな。そして、ルシータは食糧を一切自給できない。――それを買うための金は、どこから出る?」

 立ち上がったデュエールと目が合う。緑の瞳が、水色の瞳を見つめた――近くに誰かがいたら、射るような輝きの瞳を持つ娘と穏やかに煌めく瞳を持つ青年とが見つめ合う一枚絵のような光景を見ることができただろう。


 四人家族が楽に暮らせるエルティスの家よりも大きい倉庫には、とにかく食料品しかない。樽と木箱と布袋で埋められていて、積み上げられた一番上の品は彼と彼女の身長を足した分に匹敵するほど高い位置にある。それぞれの山の間は荷物を載せた車がやっと通る程度の隙間しかないのだ。

 ルシータの人口は約五百人。山脈の中腹に存在するという環境を考えれば決して少ないとは言えない。むしろ多い方だろう――もちろん大都市には及びもしないが。

 その人数でこの量。この中身を把握していないエルティスでも、多いと断言できる。しかも、この量を一ヶ月で消費するというのだ。


 エルティスは食料庫の中を一度見渡し、目をわずかにつり上げた。――何かに思い至ったのだ。

「治療した人たちから、取ってるのね。それも――金持ちにしか払えないような金額を」

「そういうこと。本当に助けてほしい人たちには、役に立たない」

「何のための治療院なのよ?」

「さあな、金蔓だとでも思ってるんじゃないのか、神官達は」

 そう答えるデュエールの声は冷たい。彼自身は、ルシータの神官――神の声を聞く巫女姫を抱く以上、神事に関わることはすべてルシータが行ったため他の街や国の出身の神官はまずいないが――の選民思想――ルシータの民は神に選ばれたのだという考えが、昔から嫌いだった。エルティスはそれを昔からよく聞いている。

 かくいうエルティスも、デュエールに嫌われる神官達に同情する気持ちなど一切なかったのだが。彼女の場合は選民思想というより、もっと感情的な理由で彼らが嫌いだったのだけれど。

 二人の怒りはおそらく共通していた。だが、もっと腹立たしくて不甲斐ないことがある――それは自分たちもまた、この食料の山から恩恵を受けなければ生きていけないという事実だった。


「……ところで、もう少しかかりそう? 食料庫の整理」

「そうだな。……順調にいけば、あと三十分くらいあれば、終わると思う。先に行ってた方がいいんじゃないか?」

 気を取り直してエルティスが声をかけると、数枚の紙を見ながらデュエールは髪をかきあげた。

 デュエールの仕事はルシータの外へ出て、他の街との連絡をすること。ルシータにいない時間の方が長いから、こうして一緒にいられる時間が、エルティスにとっては一番幸せ。

「ん……、そうだね。ここに居ても、何もできることないし。……じゃあ、先に犬神のところに行ってるね」

「ああ、急いで終わらせるから」

「うん、早くしてね」

 穏やかな笑みを浮かべたデュエールにひとつ頷くと、エルティスは樽から腰を浮かせ、遥か下にある床へ向かって飛び降りた。


 普通の者なら床へと叩きつけられる彼女を想像し、「危ない!」と叫ぶか思わず目を逸らしてしまうかだ。けれど、デュエールはその場から動かず、慣れた様子で彼女を見守っている。

 エルティスの体は、舞い降りるという表現がぴったりの速さでゆっくりと落ちていった。

 その亜麻色の髪はふわりと舞い上がり、服の裾も風にあおられているようにわずかに躍り上がっている。

 音もなく床に降り立ったエルティスは宙へ向かって礼を言った。

「ご苦労さま、風霊」

 ――どこかに居るはずの風霊に向かって言っているのだ。


 自然のものに宿る精霊に生まれながらに愛されていたエルティスは、幼い頃から精霊と心を交わし、その力を借り受ける術を心得ていた。

 精霊たちはエルティスの行動を支援する。だからエルティスは他の誰にも扱えない魔法を使うことができたのだ。その中でも、風、水、炎、大地、そして光に宿る五精霊はエルティスの守護。精霊の中でも特にエルティスを護り、彼女の願いを叶えてくれる。


「いつ見ても、たいしたもんだよな」

 幼い頃からこの光景を見ているデュエールでも、やはりこの光景は感嘆に値するらしく、感心したような口調で言った。

「そんなにたいしたことじゃないよ。精霊が力を貸してくれるだけだし」

「でも、俺は魔法そのものが使えないし」


 デュエールはデュエールで、また特殊な生まれだ。魔力を一箇所に留め置く巨大な七本の<柱の結界>に囲まれたルシータに生まれながら、彼は魔力をひとかけらも抱えることができないのだった。

 周囲に満ちる魔力の源から魔法の元になる力を取り出すことができない。よって、魔法を使えない。

 彼自身は、魔法を使えなかったことによって困ったことはなかったらしいのだが。


「でもね、デュエールは精霊に気に入られてるよ。いつも、すぐ傍にまで寄ってくるもの」

 エルティスには感じることができる。精霊たちがデュエールのすぐ傍にまで近付き、とても好意的な視線を向けたりしていることを。

 今も、デュエールがまったく気付かないことに地団駄を踏んだ風霊が、二人の間を通り抜けて行った。

 デュエールが気付けないでいるだけだ――その力を持たない彼を責めることはできないが――。精霊たちはいつも気を配り、彼が生活しやすいように護りを与えているのだった。

「そうだといいけど」

 デュエールは笑う。エルティスもつられて笑った。

 二人でいるときは、いつも穏やかな時間が間に流れていて。エルティスはこの時間が大好きだった。

「早く来なきゃ、駄目だよ!」

 そう言い置いて、無邪気に笑いながら、エルティスは食料庫を出た。

 向かう先は決まっている。街のはずれの共同墓地――その先に広がる祀りの森。

 そこで犬神が“神の子”二人の訪れを待っているはずであった。

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