第1章 歯車 その4

 次の日の朝、陽が昇る頃には、エルティスは既に家の中にはいなかった。

 犬神の統治する森の奥、気の遠くなるほど高い木々が生い茂る場所で、そのうちの一本の木の枝の上に座っていたのだった。ルシータの入り口である門から麓へ伸びる山道を見下ろせる場所である。


 本来ならば、そんな高い場所では風が吹いて枝を揺らすところであるが、エルティスが腰を下ろすその木だけは微動だにしない。風霊――風を司るもの――が、気紛れのようにそこだけ風を避けていくのだ。

 周囲には多くの風霊が舞い、枝の上にいるエルティスを守るように包み込んでいる。

 風に守られたその場所で、エルティスは静かに目を閉じ、時を待っていたのだった。

 閉じた瞼の向こうに見える、鮮明な光景。


 跪いているだろうデュエールの額に、ミルフィネル姫がそっと手を当て、神官たちと共に祝福の言葉を与えているらしい。それが終われば、デュエールは旅立つ。

 デュエールの視界が高くなる。立ち上がったのだろう。視界の端に、彼が旅のときいつも連れ歩く馬の姿が見える。

『では、行って参ります』

『道中、気をつけてくださいね』

 わずかな言葉が交わされて、デュエールは馬の手綱を引き、大きな木製の扉を押し開けた。


 来る。

 エルティスはぱっと目を開き、焦点をデュエールの視界から本来の自分の視界へと移した。伸び上がり、麓へ続く下り道を見下ろす。

 門の影から、馬と共に道を下ってゆく茶髪の青年の姿が見えた。緩やかな下り坂は、延々と続き、丸一日歩き通してようやく麓の村へとたどり着くという。

 少しずつ小さくなるデュエールの姿を、エルティスはずっと追う。木々の陰に隠れ、見えなくなるまで。

「いってらっしゃい……」

 あの門の前では決して言えなくなってしまった言葉を、エルティスは紡いだ。


 木々の緑に、デュエールの姿が埋没する寸前。

 一瞬だけ、デュエールが振り向いたような気がした。真っ直ぐ、エルティスがいる方向を向いていたような。

 彼は、たぶん知っている。エルティスがそこから静かに見送っていることを。だから、エルティスの見送らないという言葉も笑顔で聞いているのだ、たぶん。

 どうか、気付いていて。

 エルティスの視界から、デュエールの姿が消えた。

 また、しばらく逢えない。

 けれど、必ずここへ帰ってくるという約束が二つある。

 二ヶ月間一人でも、デュエールの父の世話をして、犬神と一緒に過ごして、泣き言を言わないで、待っているから。

「――だから、早く帰ってきてね……」

 お土産も、何も要らない。ただ、帰ってきて、自分に声をかけてくれる、その声を聞けたら。その姿を見れたら。――傍にいられるなら。

 ただ、それだけでいい。他に、何も望まない。




 神殿の中にある、巫女姫の居住空間である一角の一室には、最高級の紅茶の匂いが漂っていた。

 給仕の女官が入れてくれた紅茶が、その部屋にいる二人の女性の前に置かれている。

 床まで流れ落ちそうな長い艶やかな黒髪をまとう女性――娘を持つ母でありながら、その容姿は生気に溢れ若々しい――と、光に煌めく白銀の腰までの髪を緩くひとつに束ねる老齢の女性と。

 その部屋の主であり、このルシータの首長である巫女姫カルファクスと、彼女に長い間仕え、あらゆることを指南してきた、老神官である。

「あの二人――エルティスとデュエールはもう十七歳になりましたか」

 カルファクスはそう一言言い、カップに流し込まれた紅茶に口をつけた。ほんのり甘い味が、温かさと共に体中に広がっていく。

「もう半年ほど経ちましたかな」

 傍らにいて、巫女姫のお茶の相手をしていた老神官は、そう答えた後、遠い場所へ思いを馳せるように呟いた。

「あのときの彼女と同じ、十七歳になりましたな……」


 その言葉と共に、カルファクスの脳裏に、十数年前の出来事にもかかわらず、未だに鮮烈で忘れられない映像が蘇る。今はもうどこにもいない少女が、射るように輝く銀の瞳で彼女を見据えた姿を。


「やはり、実行されるのですか?」

「ええ、ルシータの未来のためです。憂いは取り除かれねばなりません。例えあの子たちが、この都市を生かす"神の子"と預言されていても」

 恐る恐る老神官が尋ねると、カルファクスは揺ぎ無い光を瞳に湛えてきっぱりと言い切った。揺らぐことのない決意をそこに読み取り、老年の女性はため息をつくように言葉を紡ぐ。

「そうですか……。あなた様に反対される方はおられまい。私には、それでも可愛い子らにしか見えませんのに……」


 老神官にとっては、神の子であろうとなかろうと、二人はルシータに生まれる数少ない愛ぐし子だった。幼い二人の寄り添う仲睦まじい姿を、我が子のように見守ってきた、ルシータの住民としては稀有な存在である。

 だが、巫女姫カルファクスにとっては違っていた。そして、大部分の神官たちは、巫女姫と同じような考えを持っているのだ。


「あのとき彼女は確かに言いました。『私を滅ぼしても、この地が続く限り終わらない』と」

 確実な永遠の繁栄が訪れない限り、カルファクスはきっとその言葉を忘れないに違いなかった。

 十数年前のあの日、銀の瞳の少女は、最期に神官たちを見据えて予言とも思える言葉を遺している。その当時ある程度の年齢に達していた者たちは、ほぼ全員がそのことを知っていた。


『あなた達は罪人よ、いつか世界に裁かれるでしょう。私を滅ぼしても、この地が続く限り、あなた達が栄える限り、決して終わらないわ!』


 ルシータが繁栄のために犯しているある事実を、少女は糾弾した。だが、その少女はもう、この世界のどこにもいない。

 すっかり飲み干し、空になったティーカップを、カルファクスはテーブルへと置いた。勢いあまったのだろうか、硬質な音がしてカップがわずかに震える。


「エルティスがリアーナ・ファンの姪であり、デュエールがジュノン・ザラートの息子である以上、時期は来たのです。エルティスが巨大な魔力を操り、デュエールが魔力を持たないことが証拠です。<アレクルーサ>はこの二人によって蘇るのです」




 彼女が普段思わないようなことを思ったのも、普段絶対口にしないことを口走ったのも、――あるいは予感だったのかもしれない。

 歯車は、確実に動いていた。

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