6-7 『暴力屋』

 ざりっ


 何気ない足音が、妙に耳についた。

 三人のうち、誰が立てたものでもない。一拍遅れてそれに気づき、私は弾かれたように視線を巡らせた。

 驚いているのは、大河内さんも同じだった。彼はよりはっきりと音のした方向を感じられたのか、すぐに自分の車の方へ体ごと向き直った。私とカナの目も、同じ方に吸い寄せられる。

「……え?」

 そして認めた人影に、私は呆けた声を漏らしてしまった。

 一体いつ現れたのだろうか。その人物は、あからさまに怪しい風体だった。ロングコートとその下に覗くシャツ、ロングパンツにブーツ、手袋、さらには頭を覆うフルフェイスのヘルメットに至るまで、全てが真っ黒。性別すら判別不能の出で立ちだが、女性だとしたら背は高い方だろう。

 スッと背筋の伸びた立ち姿は、武術を修めるか何かしていそうな雰囲気だ。そんな黒一色の人物は、流れるような足取りで大河内さんに近づき――

「君は――」

 ゴッ!

「ふぐぅ!?」

 大河内さんが何か言いかけた瞬間、その人物が大河内さんに拳を叩きつけた。額のど真ん中に、吸い込まれるような一撃。悲鳴を上げて大河内さんが倒れ込む。

 急すぎる展開に何の反応もできない私たちの前で、黒い人物は振り抜いた拳をゆっくりと戻す。後ろ向きに倒れた大河内さんが額を押さえながら身体を起こしていたが、それに追い打ちをかけようとする様子はない。ただ一回殴っただけで、あとは彼をじっと見つめている。

 かと思えば、舌打ちのような音が聞こえてきた。続けて、

『ったく、手間ァ掛けさせんなよ大河内。手前テメエのおかげでどんだけ時間を無駄にしたと思ってやがんだ』

 明らかに機械で加工された声で、その人物が吐き捨てた。言われた大河内さんの方は小さく首を振り、呆れかえったトーンで言葉を返す。

「流石にそりゃ理不尽だ。君がいるなんて聞いてないよ」

『たりめーだ。悟られるようじゃ仕事にならねぇ』

 粗暴極まる正体不明の人物を相手に、しかもたった今自分に暴力を振るった相手に、大河内さんはどういうわけか危機感の欠片もない。まるで友人と軽口を叩き合うような呑気さだ。

 不意に、真っ黒なヘルメットが私たちの方を向いた。途端、恐怖からくる痺れが全身に走る。

目を背けたくなる衝動に必死で抗いながら、私はカナの手を引いて後ろに下がった。

 黒い人物は追って来ない。言葉もなく立ち尽くした影の傍らで、大河内さんがふらつきながらも立ち上がった。そして私たちの方へ苦笑を向ける。

「心配しなくていいよ、と言っても難しいだろうけど」

 自分の言葉を即座に否定した彼は、少し言葉を選ぶ素振りを見せたあと、

「この人は依頼に基づく条件、依頼された相手にしか暴力を振るわない。『暴力屋』なんて訳の分からない仕事をしてるんだよ、こいつは」

「ぼ、『暴力屋』……?」

 何だか、突如として頭の悪い単語を耳にしたような気がする。おうむ返しに応えながらカナを見るが、彼女も訝る様子で私をちらりと見た。

 大河内さんは黒い人物の顔色――もとい反応を確認しながら、

「そう、依頼を受けて、誰かに暴力を振るう。まぁ仕事というのもどうかと思うね。法的には当然アウトだ。流石の『特区』も、それをシロというほどイカれちゃいない」

 ざっくばらんな上、相手を持ち上げようともしない紹介だ。それでもヘルメット姿の人物は、特に抗議の声や反応を示そうともしない。むしろ続きを促すように、軽く頭を彼の方へ傾けた。

 催促を受けた大河内さんも、皮肉げに笑みを歪めながら、その人物――『暴力屋』の方へ目をやった。続けて口を開く。

「だけど実際のところ、その『暴力屋』の存在がある種の抑止力となることも、まぁあるにはあってね。言ってしまえば必要悪なんだよ、『暴力屋』は」

『ハッ、たった今俺に殴られた手前が「必要悪」とはねぇ。笑える冗談じゃねえか』

「僕だって、自分がしたのが褒められたことじゃないことくらい自覚してるさ。まさか、君が出張ってくるほどとは思ってなかったけどね」

 愉快そうに声を上げる『暴力屋』だったが、皮肉を返された大河内さんはそれでも顔色を変えなかった。

 あまりに朗らかなやり取りを前に、ただ立ち尽くす私たち。ヘルメットが再びこちらを向き、やはり私の方も恐怖を抑えきることはできない。ただ、さっきよりは少し慣れた。

 踏み止まって睨み返す私に対し、『暴力屋』はそれでもしばし黙ったままだ。それでも、小さく首を傾げるような素振りを見せているあたり、何か言いたそうではある。こちらから水を向ける気にはならず、かといって逃げだせば面倒なことになりそうな予感もあった。やむなく、居心地の悪い沈黙に耐えることにする。

 幸いと言うべきか、『暴力屋』はほどなくして動いた。片手を何気ない調子で私たちの方へと向けながら、

『上杉紗良、小鳥遊香奈江。今から依頼人のとこまでお前たちを連れていく』

 一方的に告げられ、思わず対抗心が顔に出た。が、眉を揺らしたその瞬間、釘を刺すように、

『逃げれば追う。逆らえば殴る。どっちもしなきゃ穏便に運んでやる。あと大河内、手前の車、貸せ』

「えぇ……?」

『暴力屋』が私たちへの警告とともに、視線は外さぬままもう片方の手を大河内さんの方へ突き出した。渋るように呻く大河内さんだったが、黒い手袋が拳を握って裏拳を仄めかす動きをすると、やむを得ない様子でポケットから車のキーを出した。

『乗れ。上杉紗良は後部席、小鳥遊早苗は助手席だ』

 隙を窺おうにも、そんなものは見つからない。念を押されようとも逃げ出す気でいたものの、結局その機を見出すことができないまま、そう告げられてしまった。

「カナっ……」

 焦燥が膨れ上がる。目の前の二人には聞こえないよう、鋭く絞った声で私は呼びかけた。

 カナは私のような焦りを浮かべてはいなかった。鉛を飲み込んだような重苦しい表情で、それでも逃げ出そうという意志は見られないまま、静かな声で私に応えてくる。

「行くしかないよ。逃げ切れるなんて思えないし」

「けど……」

「……大丈夫だと思う」

 なおも黒い人物に従うことに抵抗のある私に向かって、カナは顔を向けながらそんなことを言った。

「私たちに害意があるなら、こんな回りくどいことしないよ」

『そういうことだ。分かったら早くしろ』

 さっきまでより大きな声でカナが言うと、それを聞いた黒い人物も呼応する。

 完全に疑いがなくなったわけじゃない。それでも、カナの言い分はもっともだ。

 それでも。

「……分かりました。ただ、その前にちょっとだけいいですか?」

『……チッ』

 聞えよがしな舌打ち。同時に『暴力屋』の膝が僅かに撓む。何かあればすぐにも飛び出すつもりなのだろう。素人目にもその力強さが感じ取れた。

 そんな目の前の影から、私の視線はその隣、大河内さんに向かう。意外だったのか、彼は私と視線が重なった瞬間、ぱちくりとその目を瞬かせた。

 彼の反応には取り合わない。聞きたいことは一つだけだ。

「大河内さん、どうして告白したの、カナじゃなくて私だったんですか?」

「へっ?」

 目を向けた瞬間よりも遥かにはっきり、大河内さんは困惑した様子だった。それでも、私の追及の眼差しを受けるうち、彼はゆっくりと口元に笑みを浮かべ直す。

「……ただ単に、小鳥遊さんより見た目が好みだったからだよ」

 肩を上下に揺らしながら、冗談めかして彼は言う。

 誤魔化しているのだろうか。感じた瞬間、反射的に私は彼の表情を一層注視した。だが、まったく同時に、大河内さんの眼光が色を変えた。

 剃刀の笑み。怜悧な眼差し。ぎょっとしたそのときには、彼は既に無害な笑みに戻っていた。ただ、その口ぶりにはまだ直前の毒気を残しつつ、

「僕はそれだけさ。君を気に入った他の人たちがどうかは、知らないけどね」

 言い捨てて、彼は今度こそ身を翻した。

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