6-6 告白
「……上げる、って意味ですよねぇ?」
それだけで彼の意図を、さらには先の展開までをも予期したのだろう。カナの声のトーンが一段下がる。
こと『特区』の事情には私より一回り敏感なカナだ。私ですらうっすらと予感した程度のことは、よりはっきりと見通していることだろう。私も奥歯を噛み締めて、大河内さんを真正面から睨み返す。
カナの詰問に、大河内さんは大仰に肩を竦め、
「前に話しただろう。うちの近所にコンビニができたのは最近のことでね。実はすぐそこのバス停にしても、できてからまだ半年も経ってないんだ。その辺りの事情がようやく周知されてきたみたいでね。簡単に言えば、この辺りの人気が今まさに急上昇中なんだよ」
つらつらと説明してのける間、彼はわずかに私たちから目を逸らしていた。今さら後ろめたくなったわけでもあるまい。後を追うように私が眼差しを尖らせる中、彼の視線が切り返すように私のそれに重なる。
ぎょっとした瞬間、彼が続けて言った。
「事情は理解してくれるだろう? そういうわけだから、来月からは月十五万でお願いしたくてね」
「じゅ……十五っ!?」
不覚にも上ずった声を上げてしまった。私の反応に、今度こそ大河内さんが愉快そうにほくそ笑む。
私とカナの部屋は、どうにか二人で暮らしているものの、実態は広めの1Kでしかない。本来なら独り暮らしのサイズだ。今の契約は月あたり六万円。首都や大都市圏よりはそれでも安いものの、周辺の状況と『特区』外の基準を照らし合わせれば、それでもやや高いくらいだ。
『特区』という場所の特殊性を鑑みればそれでも暴利とは思わなかったが、これが二倍以上となれば話は違う。『特区』の物価と給与水準を考えると、一人暮らしは不可能なレベルだ。相場など地平の向こうである。予想を大幅に超えた額に意表を突かれてしまった。
「サラっ……!」
慌てた様子で注意を促すように、カナが小声で鋭く呼びかけながら私の手を引いた。それでも、激しく動揺した心は容易には落ち着きを取り戻せなかった。
「とはいえ、勿論そう簡単に「はい分かった」といく額じゃないことは、僕だって理解してる」
それを見透かした上で、大河内さんはさらに畳みかけてきた。とうとうカナがその顔に焦りと怒りを浮かべ、私を庇うように一歩前へ出た。
カナの姿とともに、疑問がするりと目の前に進み出てくる。どうしてカナは、私と一緒に下がるのでも、身体を寄せ合うのでもなく、私の前に立ったのだろう。私の困惑する様が頼りなかったから、だけだろうか。
ゆっくりと引き延ばされたように感じる時間の中、必死に思考を巡らせた私は不意に気づいた。カナと対峙する大河内さんの、その目。彼の双眸は、敵意露わなカナではなく、私にその焦点を結んでいるように見える。
何故、という疑問が結論を出すより早く、カナを無視して大河内さんが再度口を開いた。
「だから、一つお願いを聞いてくれれば、家賃は今月通りにしようと思うんだ。今後、ずっとだよ」
「聞きませんッ!!」
これまで聞いたことのないほど強い声でカナが叫ぶ。意外な事態に、私は目を丸くしてカナの後ろ姿を見ていた。だが、それでも大河内さんは笑みを崩さない。むしろ、あからさまに余裕を失い出したカナを前に、悠然とした態度をより確かにしながら、半歩前へと踏み出してきた。
「どうかな、上杉さん」
威嚇するカナに構わず、彼の眼差しは真っ直ぐ私に。丸い両の目は、今なお邪気のない輝きを宿していた。それがかえって不気味だった。
そして、その眼差しに萎縮する私へと、彼は気負いのない声音で、
「僕の彼女になってくれないかな」
あっさりと嘯いた。
カナが絶句。私も唖然として凍りついた。そんな中、大河内さんだけは変わらずニコニコと、異様なほど笑顔で。
理解が追いつかない。何故彼が、私を口説きにかかったのかも。何故こんな脅しを掛けるに至ってなお、悪びれたところが一片もない笑みを浮かべていられるのかも。
錆びついた動作でカナが振り返る。青ざめた顔で、私の答えを待っていた。そう、呼びかけられたのは私だ。
「い、嫌です……」
意識した瞬間、唇は滑らかに否定の言葉を紡いだ。
私の答えを聞いて、それでも大河内さんは不快な様子を見せなかった。むしろ、待っていたと言わんばかりにニタリと笑った――ように見えたのは気のせいだろうか。
「何も、小鳥遊さんと別れて欲しいなんて言わないよ? ただ、僕とも恋人同士だって認めてくれれば」
「な……!」
重ねての提案。カナが慄いたように呻くのが聞こえる。大河内さんに向き直ったカナの姿を見つめながら、私の脳裏をかつての会話が過る。
『特区』へやって来たあの夜。初めて大河内さんと出会ったあの日に、それに先駆けてカナから示された可能性。まさか、こんなタイミングでそんな事態に相まみえることになるとは。
「……嫌です」
それでも私の答えは変わらない。大河内さんの微笑にも変化はない。首を横に振る私に、大河内さんの視線が漫然と注がれる。
彼から受ける鈍色のプレッシャーは変わらない。それでも、私の方を振り向いたカナの表情が緩んだのを目にしたことで、私の胸の中にも幾分活力が戻ってきた。
重苦しさを感じながらも、足を一歩前へ。カナの隣に立って肩を並べる。一度は離れていた手を繋ぎ直す。手と手を重ねた瞬間感じた震えが、私とカナのどちらのものなのかは分からなかった。
「そっかー、残念だなぁ」
私たちの視線が刺さるのもお構いなしに、大河内さんは大げさに背中を曲げて溜息をついた。言葉とは裏腹に落胆を感じさせない、それどころか余裕を窺わせる態度だ。実際、彼はそのままの態度で続けた。
「けどいいのかい? そうなるとこの部屋、君たちにとってはちょっと高すぎるんじゃないかな?」
「そちらこそいいんですかぁ? 『特区』にだって法はあるんでしょう?」
怯まずにカナが言い返す。大河内さんが鼻で笑った。
「ああ、勿論。どこまでやったらマズいかは、君たちより弁えてるさ」
「…………」
涼しい顔で言ってのける彼に、閉口する私とカナ。私たちの反応をどう受け取ったか、彼は視線を私たちに固定したまま、立ち去ろうとするように身体を横へ向けた。
「まあ、今日のところは諦めておくよ。気が変わったらいつでも言っておくれ」
声と表情に滲む、余裕と確信。やがてそうなるという予想に、余程の自信を持っていることが窺える。
それを察した瞬間、一気に胸を覆っていた暗雲が晴れたような気分がした。
仮に『すいせん』を出るという決断をしたとして、次の部屋探しが難航することは想像に難くない。また、出ていくにせよ留まるにせよ、金銭面は必ずネックになる。
『特区』入り前に部屋を探したときのことを思えば、今と同等の家賃の部屋が見つかる可能性は低いだろうし、引っ越しの費用だってタダじゃない。だから、最終的に音を上げると確信しているのだろう。或いは、過去に同じ経験もあるのかもしれない。
彼は知るはずがない。ことこの状況において極めて有力な切り札が、私たちにはあることを。
――いやまぁ、あんまり胸を張って言えることでもないけども
湧いてくる自信と等分に生じた脱力感に、私はついカナに目をやった。当然、彼女も私と同じ結論に行き着いていた。私に視線を返すカナの表情は、よりはっきりと渋い。「頼りたくない」と、言葉にするよりも雄弁に、その顔に書かれていた。
「……じゃ、呼び止めて済まなかったね」
私たちの危機感が想像以上に薄いせいか、大河内さんは初めて困惑する様子を見せた。だがそれも僅かな時間だ。彼はすぐに笑顔を取り繕って、今度こそ踵を返そうとした。
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