6-5 デートのあとで

「はぁ~、楽しかった」

 その日は火曜、時間は夕方。

 バスを降り、『すいせん』へと向かう道すがら、カナは大きく伸びをしながらそんな声を漏らした。隣には当然私もいる。手に提げた買い物袋には、香辛料と輸入品のチョコレート。意外にも『特区』外と同じような価格で売られていて驚いた。

 カナの満足そうな横顔を見ながら、しかし私はそれに後ろめたさを感じていた。

「その……カナはよかったの? 服とか、熱心に見てたのに買わなくて」

 デートの最中のことを思い出し、私はおずおずと尋ねた。

 普段は節約に努めているつもりだし、その必要性はカナとも共有しているつもりだ。一方で、デートに出かけてまで不必要に財布の紐を絞めるつもりもなかった。現に私も、欲しくはあったが必要とは言い難い買い物をしてきている。

 ただ、逆に私が率先して買い物をした分、カナには躊躇させてしまったのだろうか。そう考えていた私に、カナは微笑で振り向いた。

「いいよ。見てるだけで楽しいっていうのもあるし」

 曇りのない笑顔には、遠慮や嘘はまるで浮かんでいない。驚くほど透き通った表情に、逆に私が驚かされてしまう。そんな中、彼女はさらに笑みを深くして、

「それに、サラも何着か試着に付き合ってくれたでしょ。あれが見られただけでわたしは満足だよ」

「……うん、そう言ってくれるなら、よかった」

 カナの言葉に安堵の息が零れた。

 私はそれから、ふと思い直したように彼女の目を再度覗き込んで告げる。

「でも、次に行くときは、折角だから欲しいもの探しましょうよ。何度も着たくなるような服を探すのも、きっと楽しいから」

「いいねぇ。でもそれよりわたし、サラの服選びたいなぁ」

「いいわよ。あんまり変なの選ばなければ。私にもカナの服選ばせてね」

「ふふふ、言質はとったよ……」

「何をする気なのよちょっと……」

 慄きながらも、楽しい未来を想像しながら私はクスクスと笑う。カナも私と同じ歩調で歩きながら、時折肩をぶつけてくる。

 何度か目でその意味に気づき、私は今更ながら買い物袋を左手に移し、空いた右手でカナの左手を取った。

「おそーい」

 小声で囁きながら、カナの指が深く絡みついてくる。揉むように何度か力を込めては緩めを繰り返すカナの手を、私も同じように握り返す。

 カナが短く笑い声を漏らした。そして私の手を一層しっかりと握ると、こっちに向けていた顔を正面に向ける。

 風が吹いた。ひやっとする。カナの髪がさらさらと、私に惹かれるように踊った。

 カナに誘われるように、私もその目を正面へ向けた。帰るべき家のある方。一階端の部屋。そのすぐ隣に駐車したバン。その前に、大河内さんが立っていた。

 私の手を握ったまま、カナが足を止めた。

「やぁ。お帰り」

 私たちに気づいた大河内さんが声をかけてくる。いつも通りの気さくな声、人懐っこい笑み。何度も頼りにした、お世話になった人が、変わらずそこにいる。

 カナは微笑で佇んでいる。だけど、足を止めた彼女からは同時に、秋風に勝る冷たさが感じられた。

 視線を交わすまでもなく分かる。カナは何かを感じ取っている。私よりも『特区』を解っているカナが、私には分からない『何か』を感じ取っている。その事実に、私は固唾を飲んで再び前方を注視した。

 カナと違って、私は顔に出ていたらしい。彼は一度眉を上げたあと、やや苦笑気味に肩を竦めた。

「……知らない仲じゃないんだから、そんなに警戒することはないんじゃないかな。僕もちょっと傷つくよ」

 そう言いながら、彼はわざとらしいくらいに身体を縮ませ溜息を落とす。あまりに芝居がかった仕草でそんなことを言われても、むしろ警戒心しか湧いてこない。彼もそれは分かっているだろう。

――つまり、警戒されようと構わない、ということか

 いよいよ意識が臨戦態勢に切り替わり、自然と眼光が剣呑に研がれていく。『特区』へ来る道中や、到着した直後を思い出す、氷水のような冷たさが胸に溜まっていく。

 カナの手にも、武者震いのような振動が走った。ほとんど反射的に、繋いだ手に力が籠る。

「……女の子が帰ってくるところを待ち構えてるなんて、悪趣味ですね」

「そうまで言われるのは心外だなぁ。これでも気を遣ったつもりなんだけど。夜遅くにドアをノックするよりずっといいだろう?」

 限りなく直接的に批難の言葉をぶつけたが、大河内さんは涼しい顔だ。苛立ちや困惑の色さえまるで見えない。内心臍ほぞを噛む私に、一瞬だけ心配そうなカナの視線が向けられた。

「それは気づきませんでした、済みません。それで、何かご用ですか?」

 挫けず険しい眼差しを維持したまま、やむなく私は次に問いを投げる。彼の思惑通りと分かってはいたが、いずれは尋ねなければならないことだ。

 大河内さんは、なおも表情を動かさなかった。笑みを深めることもなく、傷ついたふりをするでもなく、まるで何かを吟味するように佇んでいた。いつもの穏やかな微笑のままで。

 はっきりいって不気味だ。必死で表情には出さないよう堪える。しかし、彼の無反応はそんな恐怖を誘うためのものでさえないように見えた。

 私と同じく彼と対峙するカナも、貼りつけた笑顔を小揺るぎもさせぬまま立ち尽くす。じっと耐える時間がひたすらに続いた。

 均衡が崩れたのは突然だ。彼は唐突に目元を歪め、口の端から身近く吐息を漏らす。やはり顔は動かさないまま、カナの指がぴくりと反応するのを感じた。一方で私は、微かに動揺していた。

 彼が覗かせたそんな仕草が、苦笑のように見えたのは、私の気のせいだろうか。

「ふむ……」

 風に乗って、小声で短く呟いているのが聞こえた。

 どういう意味かは分からない。けれど、私がそれを問い質そうとするより早く、彼はいつもの笑顔を作りながら顔を上げ、機先を制するように言葉を投げかけてきた。

「うん。じゃあ率直に話すよ」

 薄く開いた瞳に、光が灯る。私たちに向けられたその眼光は、酷く毒々しく、また妖しい。

 なのに、私はそこに、悪意だけは感じることができなかった。

「月末だからね。来月の家賃の話をしようと思って」

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