6-3 世間話

 その後の『Kaoru』での仕事は、順調と言ってよかった。ランチのメニューは日替わりの一品かホットサンド、ランチセットもあったが、それもコーヒーがつくだけだ。厨房の負担は軽減され、私も日によっては接客の方に回ることがあった。

 どちらかと言えば調理担当の方が肌に合ってはいるのだが、接客が嫌というほどでもない。本人曰く「知り合いが多い」という薫さんの存在故か、お客さんのマナーが総じて良いのも、接客を厭わない理由の一つだった。営業再開四日目の男娼騒ぎは例外中の例外だったらしい。

 その日も、私は接客に出ていた。ランチメニューはジェノベーゼのショートパスタ。厨房は小雪とカナが回していた。一方、私が着ていた――というより着せられていたのは、和風のエプロンドレス。正直、こういうヒラヒラした服はあまり慣れていないのだが、薫さんとカナの二人が猛烈にプッシュしてきて断り切れなかったのだ。

「すいませーん、注文を」

「はい、只今!」

 声とともに手を掲げたお客さんがいた。私は返事をしつつ、そちらに向かう。

 テーブルまで足を運んだところで、気がついた。呼んでいたのは根岸さんだ。一方で彼は、呼ばれてやって来るのが私だと分かっていたようだ。垢抜けた笑みで私を迎えた。

 若干戸惑う私に向けて、根岸さんは軽い口調で、

「パスタランチセット。あと、出来れば世間話なんか一つ」

 意図がさっぱり分からない要望が降ってきた。戸惑うなという方が無理だろう。眉を顰めて身じろいだ私を、当の根岸さんは楽しそうに微笑みながら見上げている。

 ひとまず私は無難な質問をしてみた。

「……根岸さんはこの店、よく来るんですか?」

「随分前にいっぺん来ただけッスよ。今は上杉さんたちがここで働いてるって傑さんに聞きましたし、味も良くなったって噂になってるんで」

 根岸さんは顔色一つ変えずにそう答えた。どうにも、どちらがメインの理由なのかは判然としない。

「それでわざわざ様子見に来たんですか?」

「おかげでいいモン見れました。可愛いッスよ、その格好。眼福眼福」

「それはどうも」

 分かりやすいお世辞に、ここらが切り上げ時かと踵を返しかけた私に、まだ話し足りないのか、根岸さんが言い募る。

「楽しそうッスね、ここの仕事」

 咄嗟に無視しづらい一言だった。一歩目で踏みとどまった私は、少し辟易しながらも応えに窮しはしなかった。

「楽しいですよ。大変なこともありますけど、料理は好きですし」

 おかしなことを言ったつもりはない。だが、根岸さんは何故か真顔になって瞬きした。一体何が彼の気に留まったのか、私にはまるで分からない。

 怪訝に思って視線を投げかける私に、彼は可笑しそうに笑みを浮かべながら、

「お客さんを見てるのが、じゃなくてッスか? 勿体ない」

「……えっと、よく意味が分からないんですけど」

 目を細め、首を傾げる。単にからかっているのだろうかとも疑ったが、どうもそういう雰囲気ではない。根岸さんは小さく鼻を鳴らして、周りをゆっくりと見渡した。まるで、その視線を追えとでも言うように。確信はなく、それでも私は彼に続いて客席を見回した。

 父娘ほどに歳の離れた男女。微笑み合い、指を絡める二人の女性。難しい顔で腕を組み向かい合う男性たち。一人椅子に掛け、好色な視線で周囲を撫で回す青年。今まで意識する余裕もなかったが、改めて見てみると確かに千差万別の顔ぶれだ。

 私の視線の動きに気づいた根岸さんが、低い声で囁きかけてくる。

「知っとくに越したことはないっしょ、『特区』には実際、どういう手合いがいるのか。それに何より面白い。まぁ、見るだけじゃなくて実態を知ってたほうが、もっと面白くなりますがね」

 そう言ってニマリと笑うその表情に、背筋が冷たくなった。

 ついさっきまでの笑みと、明確に何かが違うわけではない。だけどその表情はあまりに酷薄だった。あらゆるものを等しく目で追いながら、その実何をも顧みない、冷ややかで退廃的な眼光。以前一度だけ見たことのある、私の嫌いな目だった。

「――引き留めてすんません。注文は以上ッス」

 だが、根岸さんは唐突に、けろっとした様子でそう告げた。いつの間にか表情から不気味さは失せ、軽薄だが無害そのものの笑みに戻っている。気圧されていた自分が馬鹿みたいだ。

「……しばらくお待ちください」

 憮然として、渋い表情と固い口調で私はそう言い捨てた。今度こそ背中を向けた私に、根岸さんの無気力な眼差しがいつまでも刺さっているのが、嫌というほど感じられた。


「……サラ~? どうしたの、ぼうっとして」

 カナの指摘に、私はハッとして気を引き締めた。焦点を結び直した私の目に、斜陽の差し込む店内の風景がはっきりと映り込む。

 小声だったため、お客さんがカナの声に気づいた様子はない。胸を撫で下ろして、私はさりげなく視界の真ん中にいた男女から目を逸らした。

 私の仕草を、カナは目敏く理解したようだった。流石と言うべきか、私のことをよく見てくれている。とはいえこの場で口に出して説明するわけにもいかず、私は目礼で「後で」と伝え」た。

 やがて、最後に残っていたお客さんが会計を終えて店を出た。ドアベルの余韻が消えるのを待って、カナが改めて私に尋ねてくる。

「で、さっきはどうしたの?」

 回りくどい問い方など必要ないことを分かっている言葉だ。内心ほっとしながら、私も隠す理由があるわけでもなく、正直に答える。

「この前接客に出てたときに、根岸さんが来てたのよ」

「根岸さんが? ここに?」

「うん。で、そのときにちょっと話をしたんだけど……気になること言ってて」

「……ふぅん。何て?」

 口ごもりつつ、私はそう続けた。カナは不穏な気配を感じ取ったのか、少し遅れて相槌を打った。心なしか、表情もいつもより険しい気がする。その理由が不安なのか、不満なのか、判然としないまま、それでも私はさらに告げた。

「お客さんを見てないと勿体ない、どういう人が『特区』にいるのか知っておいた方がいい、って」

 言われた言葉そのままではないが、要約として間違ってはいないだろう。自然と眉根が寄るのを自覚しつつ、僅かに目を逸らす私に、カナの視線が静かに追い縋る。

「そっか。それでさっきも、お客さんの方見て固まってたんだ」

 納得がいったようにカナが言う。ただ、言葉とは裏腹に、彼女はまだ追及の眼差しを向けたままだった。

 そして、私もまた、胸にわだかまりを残していた。見透かすようなカナの目。本当に敵わない。微かな苦笑を過らせて、私は軽く頷く。

「うん。言われて注意を向けるようになってから、気づいたのよ。本当に、『特区』には色んな人がいる。これまでも目にしてはいたはずなのに、私はそのことを全然分かってなかったな、って」

 後悔と自嘲の混じる声で、私はぼやいた。そんな私の顔を、カナはじっと見つめていた。

『特区』に来る前、私は漠然と、ここには同性愛者のカップルが沢山いるんだと思っていた。私たちがそうだったから、同性のカップルでも認められる場所として『特区』を目指してきたから、他の住人たちだってそうだろうと勝手に思っていた。

 中に入ってからは、覚悟していたとはいえ毎日がそれまでと違い過ぎて、周囲を気にする余裕を失っていた。あくまで自分たちの生活に直接関わる物事にしか関心を向けてこなかった。そして、今になってようやく、私の思い込みが間違っていたことを実感している。

 同性のカップルも勿論いる。けど、お客さんの姿を追っていると、以前薫さんが指摘していたように、異性同士のカップルも沢山いた。ひょっとすると、同性よりも多いかもしれない。

 驚いたのは性別のことだけではない、歳についてもだ。私たちより若く見える二人組すらいたのも意外だったが、極端な歳の差のカップルも珍しくない、というか、驚くほど多いのだ。

 確かに、親子ほどに歳の差がある恋人というのも、『特区』の外では冷ややかな目を向けられがちだろう。それを嫌って『特区』へやって来るというのも、今ならば理解できる。

 それと同時に、別の考えも浮かんでくる。そもそも私が見てきた『歳の差のある連れ合い』のどの程度が恋人同士なのだろう。そうではないというパターンさえあるのではないか。例えば、正真正銘の親子とか。

 或いはひょっとして、親子でありながら恋人でもあるという場合さえあるのだろうか。絶対にないとは言えない。それが『特区』という場所なのだと、今なら分かる。

「偏見を嫌って『特区ここ』へ来たのに、結局私自身、思い込みばっかりで周りのことを知ろうともしてなかったんだって気づいたのよ。それでちょっと、落ち着かないの」

 そう言って、私は肩を竦めた。カナの視線は動かない。私も彼女から目を離したまま、振り向こうとはしなかった。今はカナと目を合わせることが躊躇われた。

 じっとりとした無言の間。居心地がいいはずがないが、それでも私は不快感を噛み殺して耐える。そうすると、やがてカナが大きく息を吐くのが聞こえた。

 彼女は這うような声で、

「わたしのことほったらかして、そんなことで悩んでたんだ」

 拗ねた口ぶりだ。けれど声音は違う響きを伴っていた。私を心配するようであり、また私の悩みを無用と感じている風でもある。

 気遣ってくれるのは嬉しい。だけど、こればかりは決して「無用」だなんて言えない。

 時雨さんと小雪に初めて会った日のことは、今でも棘のように胸に刺さっている。苗字が同じことを疑問に思いつつも、「不思議だ」なんて呑気なことしか言えなかった私と違って、カナは誰に言われるまでもなく、「兄妹じゃないか」と提示してのけた。あのときのことを、私は他のどんな出来事より鮮明に覚えている。

 カナは私なんかよりずっと『特区』を分かっている。私が理解できないでいることを、カナは自然に理解している。例えば薫さんや、大河内さんや根岸さんのように、他の『特区』の人たちと同じように。

 あのときと同じように、また私だけが置いてけぼりになるのは嫌だ。

 だからそのために、カナと同じ視野で生きていける、それだけのために、私はもっと『特区』のことを理解しなければならない。

「……そう言わないでよ。自分たちのことは認めて欲しいのに、他の人のことは知らないなんて、流石に身勝手じゃない」

 口ではそう誤魔化し、私は苦笑とともにカナの方へ顔を向けた。細い眼差しで穴が開くほど私の顔を眺めまわした末に、カナはもう一度溜息をつく。

「真面目だなぁ、サラは」

「それだけが取り柄だからね」

 自虐気味に軽口を返す。咎めるように肩を叩かれた。

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