Interlude05 朝、日常と未来
「う……くぅっ……フッ」
堪えるような押し殺した声が、頭上から断続的に降ってくる。狭い浴室に反響するその声を聞きながら、わたしは漫然と、目の前の『白』に指を這わせ、唇を押し当てていた。
サラだ。今、ユニットバスの淵に腰を下ろしたサラは、生まれたままの姿を晒しながら、その柔肌を赤く染めていた。時間を忘れるくらい
「カナ……カナぁ……!」
嬌声を響かせるのが恥ずかしいのか、指を噛んで声を抑えていたその口が、悩ましげにわたしの名前を呼んだ。それが嬉しくて、わたしはお腹に幾輪もの赤い花を咲かせていた唇を離して顔を上げる。
「どぉしたの、サラ?」
耳元に口を寄せて囁き、その勢いで耳たぶを甘噛みする。途端に感電したようにサラの背筋が跳ねた。開いていた両脚が反射的に閉じようとするが、間に挟んだわたしの身体と手がそれを許さない。
目をぎゅっと閉じ、波打つ快感に呑まれるまま身体を震わせるサラだったが、それでも必死で訴えかけてくる。
「も、ダメ……時間、仕事……っ」
切れ切れの単語は文章としての体裁などまるで成していない。それでも、サラの言い分は理解できた。わたしはサラの顔を正面から見つめると、にっこりと笑って頷く。
そして。
「いいよ、そんなの、どうでも」
「ぇ……っ!?」
言うと、わたしはカナの首筋に吸いついた。強く強く吸い上げて痕を残す。同時に、両手でサラの柔らかい場所、大事な場所を蹂躙する。たちまちサラの身体が火が着いたように熱くなり、言葉にならない声が迸った。
陰々と響く、我慢の器から零れた快楽が直接音になったような声。その中に時折わたしの名が混じる。呼ばれるたびにわたしの内側で熱が弾け、流れ出ていく。
「カナ、だめっ……カナっ」
「駄目じゃないよ」
なおも制止を呼びかけるサラの口を、わたしは自分の口で塞いだ。濡れそぼった指を背筋に滑らせると、重ね合わせた唇の隙間から悲鳴が漏れる。痙攣するサラの身体を、わたしは自分の身体を押しつけて押さえ込んだ。
存分に舌を絡めて、サラの声を奪ったあと、わたしは再びサラの全身にむしゃぶりついた。もう抵抗する気力が尽きたのか、わたしが刺激を与えるたびに甘い息を漏らしながら、弱々しく震える両手で縋りついてくるようになった。
「それでいいんだよ、サラ」
小声で囁きかけると、相槌の代わりに短い嬌声が返ってきた。
そう、これでいい。本当のところ、サラさえいてくれればそれだけでいい。サラと、互いの全てを曝け出し合って過ごす時間以外、何もいらない。
仕事なんて知らない。知り合いだって要らない。明日ですらどうでもいい。ただ、今ある全てを使い果たすまで、サラと一つになっていたい。
だって――サラの頑張りを思い出して少し胸を痛めつつ、それでもわたしは思う。
だって。幾ら働いたって、幾ら普通の生活を取り繕ったって、幾ら同じような人たちと肩を並べたって、既に袋小路に入り込んだわたしたちに、行く先なんて在りはしない。
わたしたちに、未来なんて――
「――ナ……カナってば。そろそろ起きて」
「……ふぁ?」
頭上からサラの声が降ってくる。酩酊感とは程遠い、呆れの込められた声音に、頭にかかっていた靄が一気に吹き払われた。
わたしがいるのは風呂場ではなくリビングの布団の中。シャツとロングパンツに着替えたサラが、わたしを真っ直ぐに見下ろしている。何度か瞬きをしてサラの顔を見つめ返しながら、わたしはついさっきまで見ていたのが夢だったのだと理解した。
脱力感のあまり泣きたくなってくる。
「……うぅ、おはようぅ」
呻くように声を絞り出して身体を起こした。途端、妙にひやりと肌が冷たく感じる。気づくとパジャマがはだけて、というかほとんど脱げていた。見下ろした自分の肌に幾つも残るキスマークを目にして、昨晩の記憶が蘇る。
「ちょ、カナ。着替えて……っていうかちゃんと服着て。あとその前にシャワー浴びてきなさい」
顔を逸らしながら頭を手で押さえ、心底呆れた調子でサラが言う。ほんのり赤くなった耳が、彼女の羞恥を物語っていた。恋人のそんな反応が、訳もなく嬉しい。それとともに思ってしまう。
そんな、卑俗で短絡的な欲求を抱いたとして、それに溺れてしまうことはいけないことだろうか。
益体のない思考を吹き消して、代わりにわたしは両手を上に差し出す。
「てつだって~」
「甘えすぎ」
苦い声とともに額を軽く小突かれた。「あてっ」と声を漏らしたわたしに、サラは布団の脇に脱ぎ散らかしてあった下着をわたしに差し出してきた。
「ほら、しゃんとしなさい」
「はぁ~い……」
強い口調で言われ、わたしはそれ以上ゴネるのをやめた。言われた通り、シャワーを浴びたあと下着をつけ服を着てからリビングに戻り、畳んだ布団を部屋の隅に押しやって、折り畳み机を出す。すぐにサラが朝ごはんを持ってきた。トーストとサラダ、茹で卵。わたしも冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注いだ。
『いただきます』
声を揃えて、わたしたちは朝ごはんを食べ始めた。寝ぼけていた脳が次第に活性化され、思考がきちんと回り始める。それにつれて、さっき見た夢の非現実性をまざまざと思い知った。
記憶に焼きついたサラの裸体。全身を赤い痕に彩られた姿。肌の柔らかさも汗の香りも、実際に感じて知っている。だからこそのリアリティがあった。
だけど、きっとサラはあんな反応を返してはくれない。わたしのために、わたしたちのために、一時の悦びに流されてなんかくれないだろう。
「どうしたのよカナ、なんか顔色良くないわよ?」
気づけば箸が止まっていた。サラが心配そうに顔を覗き込んでくる。どう応えるべきか、半瞬だけ迷ったわたしは、敢えて顔色を取り繕わずに首を振る。
「夢見が悪かっただけ。大丈夫だよ」
「そう?」
なおも心配そうではあったものの、サラはそれ以上問い詰めてはこなかった。予想通りの反応だ。わたしはすかさず話題を変えるように、
「ところで、結局今日はどこに行こっか?」
「うーん、東区のモール、一度見てみたいかなぁ」
今日は火曜日。『Kaoru』の定休日だ。特に最近は、初めは予想もしていなかったほど忙しい日が続いていて、どこにデートに行くかを事前に相談する余裕もなかったほどだ。その分、久々に羽を伸ばせる解放感がある。
「小雪が言ってた食材店、やっぱり気になるのよね。あと、近所に本屋もあるっていうじゃない。レシピ本も小説も全部外に置いてきちゃったし、雑誌類は入ってるのかとかも確認してみたいなって」
「本屋さんかぁ」
指折り数えるサラだったが、わたしは苦笑。怪訝そうに言葉を止めたサラの目を覗き込んで、わたしはからかうような声で言った。
「大丈夫かなぁ。サラ、本屋さんから一歩も動けなくなったりしない?」
「き、気をつけるわよ……」
「本当? 興味の幅が広いのも凝り性なのも知ってるし、それがサラのいいことだとも思ってるけど、また店中の棚を見尽くすまで満足できない、なんてことになったら嫌だよ?」
ぎくり、とサラの肩が震えた。外にいた頃の経験上心当たりは山ほどあるが、サラ自身もそれを忘れてはいないらしい。サラは幾分後ろめたそうに表情を陰らせながらも、わたしからは目を逸らさなかった。
「流石に自重する。折角の……その、デート、なんだから」
サラが、恥ずかしそうに語尾を萎ませながらもそう言った。思わずきょとんと瞬きして、サラの目をまじまじと見る。
「……そうだね。楽しみだねぇ」
わたしはそう言葉を返した。自然と笑みが零れる。じわりと胸が温かくなる。
デート。恋人としての時間。その響きはとても甘美で、ただ肉欲に溺れるだけの時間よりもずっと輝いて見えた。
微笑み返してくれたサラの顔を眺めながら、それでもわたしは思う。恋人としての、普通の恋人同士のような日常に眩さを認めながらも、わたしは思う。ほんの少しだけ申し訳なく感じながら、それでも願う。
それでも――それでもサラが、わたし以外の全部を捨ててくれたらいいのに。
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