5-3 漆原蔵人

 からんからんっ

 軽やかな音とともにドアが開く。現れたのは一人の若い男性だった。

 中肉中背、髪はぼさぼさで、どこか陰鬱な影を落とした表情をしている。つかつかとカウンター席に近づいてくる姿は苛立っているようにも見え、一層彼の立ち姿にマイナスのイメージを与えていた。

「で、急にどういうつもりだ宮部。一体いつ店を再開するのかと思ってたら、今さら味見に来いってのは」

 態度に違わぬ、不機嫌で高圧的な態度だ。ただ口ぶりから察するに、薫さんとは知り合いらしい。それも、かなり遠慮の要らない間柄のようだ。威嚇されたはずの薫さんがクスクスと笑いながら、グラスに水を注いで置く。

「どうも何も、その通りよォ。味見をお願いしてるダ・ケ。忌憚ない感想を聞かせてくれればそれでいいから」

「マズい」

「食べてから同じ口叩けると思わないことネ」

 仏頂面で吐き捨てる男性に憮然と言い返してから、薫さんは手を振りつつ店の奥に引っ込んだ。

 一人席に残された男性の元に、店の奥からは調理の音が微かに漏れ聞こえてくる。そしてしばらくの後、再び姿を現した薫さんは、皿と食器を手にしていた。

 皿に盛られているのはスパゲッティナポリタン。男性は嫌そうな顔で、目の前に置かれたその皿を見下ろしていた。それでも嘆息ひとつ落としてから、彼はノロノロとした手つきでフォークを手に取った。麺を巻きつける。口に運ぶ。その動作一つ一つが、如実に億劫そうだった。

 だが一口食べた彼は、途端に雷に打たれたかのように震え、瞼が裂ける一歩手前まで目を見開いた。愕然として薫とパスタを交互に見る姿を目の当たりにし、薫さんは悦に入るような笑みを浮かべたまま彼を睥睨した。

「馬鹿な、これがこの店のメシだと……!」

「そのとーり」

 男性の声は、血反吐を吐くかの如き重苦しさだ。対して薫さんは、ただ得意げというにはあまりに鋭い、いたぶるような笑み。僅かにしか見えなかったが、それでも横顔には如実に「思い知ったか」と書いてある。

 レシピ通りの味でこれだけのショックを与えられるほど不味い料理を今まで作ってきた当人の反応としてはどうなんだろうか、それは。

「余程信じられないようだけど……理由はカンタンよ」

 その言葉とともに、薫さんが手招きをしたのが見えた。ようやくだ。私は溜息を零すと、何故か用意されていた覗き見用の小窓から顔を離して、店舗スペースへと足を運んだ。一緒に見ていたカナも、微妙な苦笑を浮かべつつ私に続く。

 突如姿を見せた私たちの方に、男性はなおも驚愕しっぱなしの目を向けてきた。少し気後れしつつも、私は小さく頭を下げ、

「新しくここで働くことになりました、上杉紗良です」

「小鳥遊香奈江です」

 並んでおじぎするカナ。顔を上げたとき、男性は呆けた眼差しで私たちを見ていた。心なしか焦点が合っていないような気さえする。もしくは、私たち以外の何かに意識を向けているのか。

 やがて彼は、力のない声で呟くように言った。

「こいつらが作ったのか……?」

「ちょォッとクロッ! 初対面のコにどういう口の利き方してるのよッ!!」

 途端、力強い怒声が轟く。腹の底から響かせた重みのある声に、怒られたわけでもない私とカナが揃って首を竦ませた。

 バツの悪い表情で口を噤んだ男性より先に、薫さんは一瞬で表情を和らげて私たちへと向き直る。そして両手を合わせながら、

「ごめんなさいねェ。カレ、漆原うるしばら蔵人くろうどっていって、アタシの古い知り合いなんだケド、礼儀ってものをロクに知らないもんだからぁ」

「……悪かった」

 横目に睨みつける薫さんの眼光は凄みがあったが、片や男性――漆原さんの方も、隣からの催促を受けるまでもなく目を伏せていた。声質は低かったが、謝ることが不本意だったわけではなさそうな雰囲気を感じる。

 事実、彼は顔を上げると私たちに視線を重ね、努めて穏やかな口調で告げてきた。

「うま……美味しいよ。この店でこんな美味しい食べ物にありついたのは初めてだ。ありがとう」

「それはその、そう言って頂けて光栄です」

 本人の漂わせる雰囲気には微妙にそぐわない丁寧な言葉遣いに、思わず戸惑ってしまう。漆原さん自身も言いにくそうだ。カナと薫さんが、同時にクスリと漏らした。カナが笑ったのは、私の態度を見てのことかもしれないが。

 ただ、私に礼を述べた後、スッと冷たさを増した双眸を薫さんに向けて、漆原さんはさらに言葉を発した。

「ここで雇う気か?」

 明らかに批難するようなニュアンスだ。それも、漆原さんの機嫌を損ねたから文句を言っているわけではない、例えるなら、子供を諭す大人としての責務を放棄した相手を責めるかの如き口ぶりだった。

 しかし、薫さんは彼の追及などどこ吹く風という体で肩を竦め、

「アタシの店だもの。誰を雇おうが、どんな店を目指そうが、アタシの勝手でしょ」

「しかし――」

「アンタにとってはどうか知らないケド、うちはそういう店よ。この二人のようなコたちが働くのに相応しい店。このコたちに相応しい仕事がある店。それがその証拠よ」

 なお言い募ろうとする漆原さんを遮って、薫さんはナポリタンの皿を指さした。口ごもる彼に、薫さんはここぞとばかりに言葉を重ねた。

「美味しいんでしょ?」

「……ああ」

「じゃ、これ以上つまんない言いがかりをつける前に、さっさと食べちゃいなさいな。ついでに、アンタのお友達にも紹介しておいて。うちのご飯がいかに美味しく生まれ変わったか、ってね」

 そう言われ、なおもしばらく押し黙っていた漆原さんだったが、結局は根負けしたようにフォークで麺を手繰り始めた。

 そんな中、私とカナは無言のまま視線を交わしていた。カナの瞳は私の問いに、同じ疑問を返してくる。それを互いに確認すると、自然、私たちの視線は薫さんに向かう。

 彼もまた私たちの無言の問いかけに気づいた。ただそれでも彼は、照れくさそうに片手を振って、

「気にしないで。昔馴染みならではの内輪揉めだ・か・ら」

「お二人は長いんですかぁ?」

 追及が無意味と悟ったカナは、あっさり話題を変えた。あまりの変わり身の早さに感心したのか、薫さんの目が僅かに丸みを増した。

「……九年ってとこだな」

 ぼそりと答えたのは漆原さんの方だ。

 九年、と簡単に言ったが、見た目通りなら漆原さんはその頃まだ十代だったはず。それも恐らくは十代前半だ。薫さんの歳はどうにも判然としないが、二人のやり取りを見ていると似たような年齢なのかもしれない。

 それだけでも内心舌を巻いていたのだが、薫さんは嘆息しつつさらに告げた。

「そうねェ。アタシも顔は広い方だと自負してるケド、それでもクロは『特区』に来てからできた知り合いの中じゃあ一番古いわねぇ」

「『特区』に来る前からのお知り合いじゃないんですか?」

 二人の年齢と知り合ってからの期間から、てっきりそうだと思い込んでいた私は、面食らって問いかける。薫さんは肩を揺すって、自嘲気味に苦笑した。

「アタシ、『特区ココ』に来る前は仲の良い知り合いなんていなかったのよォ。だからここへ来たときも独りきり。クロと出会ったのはそのすぐあとよ」

 意外、という感想はあったが、口にはせずに飲み込む。気にはなっても、無遠慮に詮索する話題でないことは流石に弁えていた。カナにしても、神妙な顔つきで黙りこくっている。

 しかし、黙々とスパゲッティを食べ進める漆原さんを余所に、薫さんは何食わぬ顔で、

「ちなみに意外に思うかもしれないけど、カレの方が『特区』は長いわ。それこそ『特区』一期生ぐらいじゃないかしら?」

「……べらべらと勝手に喋るな」

 フォークを動かす手を止めて、嫌そうな声で漆原さんが唸った。自分から聞いたわけではないとはいえ、咎められた気分になり、私たちは背筋を震わせる。が、張本人である薫さんはあっけらかんとした様子で頭を傾けた。

「別に困るようなことじゃないでしょぉ~?」

「損はしなくとも気分は良くない」

「はいはい。じゃあ食後のコーヒーもサービスするから」

「いつものことだろう……まあいいが」

 流れ作業のようなペースで交わされる言葉の応酬。私やカナが口を挟む隙などないまま、あっという間に漆原さんは怒りの鉾を収めていた。未だ眉間には皺が刻まれているものの、さっきまでと何ら変わらず食事を進める姿は、彼の機嫌が元の水準に戻っていることを窺わせた。

 唖然としてカナを見やると、彼女は口元の微笑とともに私へ振り向いた。そっと顔を寄せると、周りには聞こえないような小声で、

「ちょっと違うけど、わたしたちみたいだねぇ」

「……ああ、なるほどね。確かに」

 少し遅れて、カナの言いたいことが分かった。

 二人の間にある、言葉にした以上の意図が通じ合っているような感覚は、確かに普段の私とカナに似ているかもしれない。少なくとも、大河内さんが私たちを指して言っていたのはそういうことだろう。

 そんな間にも薫さんはコーヒーの準備を始め、少し遅れて漆原さんがスパゲッティを平らげた。フォークを置いた彼は、私たちの方へその細い目を向ける。威圧する気はないのかもしれないが、そもそも鋭い目つきで見られると、つい緊張してしまう。

 漆原さんは私たちに意識を向けながら、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「まぁ、なんだ」

「…………?」

 視線を泳がせたまま黙ってしまった漆原さんを前に、私は首を捻った。カナも不思議そうに眉を顰める一方、手持ち無沙汰なのか、私の真後ろにやって来たかと思うと肩に顎を載せてきた。二人分の顔を真横に並べて、私たちは疑問符を浮かべてみせる。

 そんな私たちに鼻から息を漏らして、彼は皮肉げな微笑とともに囁いた。

「この店に限ったことじゃない。辛い、ヤバいと思ったら、すぐに逃げるのも賢さだ」

 そう言ってから、彼はさらにその目を細める。今度は何か毒気を宿した眼光を薄く光らせ、

「そう思ったときに、相手が逃がしてくれるとは限らないがな。そういう意味では、『特区』に入ってきている時点で、俺も君らも救えないんだろうが」

 その忠告じみた言葉が、ちくりと刺さった。自嘲ともとれる言葉とは裏腹に、その口ぶりが厭味のように聞こえたのが、自分でも不思議なくらい気に障った。

「……その理屈で言うなら、私たちにとっては逃げてきた先が『特区』です」

「そうだな。そうだろう」

 反発する態度を示した私に、真横にあったカナの顔が驚いたように私を見た。片や漆原さんの方は、やはり謎めいた微苦笑のまま肩を竦める。

 糠に釘の手応えに苛立ちを覚えないわけではなかったが、それ以上私は何も言い返さなかった。言ったところで無意味だろう、と思う以上に、自分が見落としている何かが彼の忠言の根底にあるような予感があったからだ。

 結局、私と漆原さんの会話が終わるころには、薫さんのコーヒーの準備も終わっていた。彼は漆原さんの分だけでなく、私やカナ、自分の分も用意し、渡してくれた。

 そして、話し終えた私たちの方に何かを言おうとして――

 ジリリリリリッ

 が、突然けたたましい音を立てて電話が鳴った。慌ててカップを置き、薫さんが受話器に飛びつく。

「ハァイ、『Cafe&Bar Kaoru』でェす……ええ……ええそうよォ……」

 電話口でもこの調子なのか、と、通話する薫さんの背中を見て思う。無論私の感慨など関係なく、薫さんと電話の向こうの相手は、そのまましばらく会話していた。

 しばらくやり取りを続けた薫さんは、やがて受話器を置き、大きく息を吐いた。何事だろうかと訝る最中、彼は急にくるりと振り返った。

 大仰に両腕を広げ、

「やったわ皆!」

「どうしたんですかぁ? いきなり大声出して」

 感極まった風の大声に圧されて私が息を詰まらせる傍ら、カナもおっかなびっくりという調子で問いかける。漆原さんは如何にも不審がる目つきだ。だが私たちの反応など意にも介さず、薫さんは勿体ぶるように含み笑いをしたあと、満面の笑みで言った。

「新しいコが来てくれそうだわ! それも二人!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る