五章 『特区』の人々

5-1 味見

「……さァて、ではお手並み拝見といこうかしら」

 薫さんが呟く。口調ばかりは変わらぬオネェ系のものだが、緊張感の滲むその声は、初めて耳にする低く重たい声質だ。カウンターに肘をついて手を組んだポーズも雰囲気たっぷりである。

 彼が今座っているのはお客さん用の席だ。隣にはカナが着席し、カウンターを挟んでその反対側には私が立っている。二人の前にはそれぞれ皿に盛りつけたスパゲッティとフォーク。私が調理したものだ。

「どうぞ」

 バジルの香気漂う皿を前に押し黙る二人に、私はそう告げた。

 ただ、私の胸中は緊張とはほど遠い、ある種の沈鬱な予感に満ちていた。苦々しい私の視線を一身に浴びつつ、薫さんがフォークを手に取る。隣では私の気持ちを読み取ったカナが、とても薄い苦笑を浮かべていた。

 フォークに麺を巻きつけ、口に運ぶ。そうして咀嚼し、嚥下してから、薫さんは気の抜けたような声で一言、

「美味しい……」

「でしょうね……」

 対する私は、額を手で押さえながらぼやいた。

 普通に考えれば、雇い主を前にして取るべき態度でないことは重々承知している。けれど、それでも胸に重たく降り積もる痛ましさを前に、そう言わずにはいられなかった。体調が悪いわけでもないのに無性に頭が痛む。

 そんな私の煩悶を映した仕草に気づいた風もなく、薫さんはスパゲッティを二口三口と食べながら、しきりに頷いている。

「うん、うん。アタシなんかと比べなくたって、これは十分すぎるくらい美味しいわァ。ヤダ~、こりゃ営業再開と同時に一気に人気店の仲間入りね。お客さん入りきらなくなっちゃったらどうしようかしらァ」

「いえ、そこまで言って頂けるほどかは分かりませんけど」

 何やら少し手綱を離した隙にどこまでも飛躍していきそうな発言に一旦釘を刺し、私はなるべく直接的に言葉を選んで、勘違いのしようがないよう告げる。

「見せてもらったレシピ通りに作っただけです。あれ、やっぱりちゃんとしたレシピでしたよ」

「ははは、そりゃそうよ」

「そりゃそうよって」

 あろうことか、笑って流された。呆気に取られて彼の言葉を繰り返す私に、彼は食事の手を止めないまま、明るい口調でなおも語る。

「人からもらったレシピだものォ。嫌がらせでもない限り、真っ当なものに決まってるわヨ」

 何が疑問なのか、とでも言わんばかりに、薫さんは笑っていた。その顔はとても、つい昨日「レシピ通りに作った」と称するやたらと不味いスパゲッティを拵えた人物とは思えない。

 呆れよりもなお強い徒労感に、私の肩がもげ落ちそうなほどに下がる。同情の目を向けてくれるカナに、薫さんはこちらの反応を見事に無視して問いかける。

「ちなみにカナちゃん的にはどぉ? 普段の紗良ちゃんの料理と比べて、何か違いとか感じるかしら?」

「んー、いつものサラと比べてちょっと味付け濃いめかなぁ」

 問われたカナは、確認するような視線を私に投げつつ答えた。カナに続いて薫さんの目もこちらを向く。私は頷き、カナの言葉を継いだ。

「私が普段薄味で作るからね……とはいえ、味の濃さはあんまり変えない方がいいですか?」

「そうねェ。濃いめの方が好きって人もいるし、色んな好みの人が食べやすいように、って基準でレシピ作ってあるだろうから。そこはあまり大きく変えないでくれると嬉しいわ」

「むむぅ……」

 私の言葉に薫さんが難しそうな顔で頷く。カナはどこか不機嫌そうに唸った。私としては、多少日頃と味付けを変えるくらいなんてことはないのだが、私の作る食事全般がそれに影響されて味が変わることを懸念しているのか、それか単に私のいつも通りの料理が評価されなかったかのように感じてしまっているのかもしれない。

(私のお店ってわけじゃないんだから……)

 彼女の不満の理由が判然としない以上口にはしなかったが、心の内だけでぼやく。

 カナの漠然とした不満には少し困った顔をしつつも、言及はしないまま薫さんは私に柔らかい眼差しを向けて、

「けど、「ここはこうしたい」みたいな要望があったら言ってちょうだいナ。実際に作る人のセンスの方が当てになるし、何より作ってくれる本人が楽しい方が良いに決まってるもの」

 最後の一口をフォークに巻きつけながらそう言われて、私は思わず閉口してしまう。

 お店のためにベストを尽くす、という観点から、「自分のやりやすいようにしていい」と言われるのは分かる。だけど、「楽しい方が良い」なんて言われたのは予想外だった。

 私の動揺を見透かしたように、優しい微笑みを浮かべた薫さんが続けた。

「ここに来るまでの緊張とか、これからの生活への不安とか、色々あるのは痛いほど分かるわァ。だからこそ、仕事の最中にも一息つける時間がなきゃ潰れちゃう。今のパスタだって、お料理好きなコが作ったんだなぁって食べてて分かるもの。折角好きなことを仕事にするんだから、楽しみながら仕事するのが一番よ。アナタにとっても、アタシにとってもね」

「……はい、ありがとうございます」

 長い台詞の後で、薫さんはウィンクを一つ。それに、私は自然とお礼の言葉を返しながら、無意識のうちに肩の力が抜けている自分自身に気づいた。

 まるでこちらの不安や警戒心が手に取るように分かっているかのようだ。薫さんの言葉は、落ち着きと包容力に満ちた響きを伴って私の胸を打った。重ねた歳月――長さだけでなく、この『特区』で沢山の人たちを見つめてきた経験も含めて――に裏打ちされた余裕に、つい身を任せてしまいたくなる。

 とはいえ、自分だけでなくカナの生活も懸かっている中で、そこまで軽率なこともしないが。

「ごちそうさまー。美味しかったよ、サラ」

 こちらは恐らく敢えてマイペースを貫いていたカナが、絶妙なタイミングで声を上げた。口ぶりとは逆に、薫さんに気を取られた私に喝をくれるような間で放たれたカナの言葉に、私は肩を竦めて反応する。

「カナだってこれくらいなら作れるわよ。さっきも言ったけど、レシピのまんまだもの」

「うぇぇ~、でもわたし、サラほど慣れてないよぅ」

「知ってる。だから「これくらいなら」って言ったの」

 少しだけ意地悪く笑いながら私はそう告げた。とはいえ、カナも並程度には料理ができるし、私ほど慣れていないことにコンプレックスを感じている様子はない。どちらかというと、薫さんへの説明の方が主たる目的だった。

 実際、私の伝えたかったことは薫さんも分かってくれたらしい。フォークを置いた手で顎を撫で、私とカナの間で視線を往復させる。

「なァるほど。味はともかく、手際は紗良ちゃんの方がいいってトコかしら。逆に言えば、忙しくなければカナちゃんと紗良ちゃんを交代しても良さそうね」

 何かを検討するような言葉、しかしその意味するところを掴み損ね、私は目を瞬いた。首を傾げ、訝るままに疑問を口にする。

「交代、っていうのは?」

「もちろん、調理と接客よ。求人情報にもちゃぁんと書いたじゃない」

「書いてはありましたけど……」

 間違ってはいないのだが、納得しかねるところはある。カナも同様なのだろう。彼女は薫さんではなく、私の相槌に首肯してアピールしていた。逆に、そんな私たちの態度に薫さんは疑問ありげに首を捻る。

「私たち二人で厨房回すんじゃないんですか? 流石にお客さんが入ったら、私たち片方じゃ手が足りないと思うんですけど」

 戦力外の一人を言外に仄めかせつつ、私は疑問をぶつけてみる。が、薫さんの答えは簡潔だった。

「大丈夫よォ。さっきは調子乗ったけど、そんなに人来ないから。今までだってアタシ一人で回してたのよ? ま、知り合いくらいしか来ないから、待たせても問題なかった、っていうのもあるケド」

「別の意味で大丈夫なんですかそれ……」

 あっけらかんと言われ、カナがげんなりした声で零す。私も全く同じ心境だ。

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