Interlude04 昼間のバーにて 

 時間は少しだけ遡る。


「しっかし、よくまぁ続けるなお前も」

 店の改装は済んだが、まだ正式にはオープンしていない『Kaoru』にはその日、以前からの馴染み客が足を運んでいた。彼は他に客のいない店の中、カウンターの隅に陣取って、店長である薫が用意したホットサンドに齧りついていた。

 ただし、その表情は限りなく渋い。暗澹たる雰囲気を頭上に纏った彼に、薫は苦笑気味に告げる。

「なぁにその辛気臭い顔? そーぉんな顔してたら、折角のイケメンが台無しじゃない。何がそんなに気に入らないのよォ?」

「クソまずい飯」

「あらー、腹立たしいこと」

 間髪入れぬ返答に、薫はこめかみを痙攣させながら顎に手を当てた。もっとも、答えた男の方は取り合う様子もない、それどころか、一層顔色を暗くしながら、

「だから「よく続けるな」と言ったんだ。この店の評価を知らんわけでもないだろうに」

 そうぼやく男に、薫は唇を尖らせて相対するものの、言葉に出して反発はしなかった。指摘通り、自身の料理の評判は心得ているのだ。

 彼の反応に男は嘆息一つ。呆れるような、しかし一方で言い聞かせるような真摯さで眼差しを尖らせながら、彼は続ける。

「酒とつまみだけ出してた方がまだしも楽だろう。余計な人間も寄りつかん。お前がそれを理解してないとも思わんが、何故カフェとしての体裁に拘る?」

 針のような眼光は剣呑であると同時に、この店の先行きを真剣に案じるようでもあった。それが知人の行く末を思ってのことか、或いは自分にとって居心地のいい場所を守りたいという意思からかは分からないが。

 はぐらかすことは許さぬとばかりに、圧力を高める男の視線が注がれる中、しかし薫はその勢いを受け流すようにフッと笑み、

「アタシにとっては、「余計な人間」なんていないの。昼のお客さんも、夜のお客さんもネ」

 細い細い笑み。それは決して、向き合うものに何かを強制するような圧を感じさせるものではないが、一方で切れ過ぎるナイフのような危うさ、致死毒のような恐ろしさを秘めた笑みだった。男の眉が、その不気味さに抗するように鋭さを増す。

 彼の変化を敏感に察し、それでも薫は微笑を緩めぬまま、さらに告げる。

「ま、アンタの心配だって分からないわけじゃないけど。でも結局、結論だけ言っちゃえば「放っておいて頂戴」ってことになるかしら」

「……もしものとき、一番に困るのはお前自身だ」

「そうかしら。アンタの方が困るとアタシは思うわよォ。だからって方針を変える気もないケド」

「しゃあしゃあと言いやがる」

 大きく溜息をついた男は、諦めた様子で頭を振った。

 椅子から腰を上げた彼は、それ以上何も言わず店を出ていった。代金を払わず立ち去る彼に、薫も何も言おうとはしない。そういう間柄なのだ。

 男が食べていたホットサンドの皿を手に、薫は厨房に引っ込む。流しで皿を洗い、ふと背後を振り返った。さっき使ったホットサンドメーカーが、主の視線を受けて静かに佇んでいる。

「むぅ……」

 低い声で、不機嫌そうに唸った。男を前にしていたときとは打って変わった表情だ。

「『Kaoru』の料理は安い代わりにマズい」。これはこの店を知る人間の間では、ほぼ一致した見解だ。ぶっちゃければ薫自身その自覚がある。

 改善意欲がないわけではない。むしろ事あるごとにレシピに従って料理の練習をしているくらいだ。不思議なのは、薫本人はレシピ通りに作っているつもりなのに、何故か一向にまともな料理が完成しない点である。全くもって謎だ。

 さっきの男にはそんな態度はおくびも出さなかったものの、実を言えば料理メニューの提供を完全にやめることも一度ならず検討したものだ。だがそう踏み切る前に、妙案が閃いた。

 別の誰かに作ってもらえばいいじゃない、と。

「とは言ったものの、誰か来てくれるのかしらねェ……」

 独りで――というよりは、口を開いたホットサンドメーカーに語りかけるように、薫はぼやく。当然、無機物は黙して語らない。ただ彼の視線と向かい合った加熱部分は、皮肉なほど人間臭く、とうに熱を失って冷めきっていた。

 げっそりと嘆息をした、その直後のことだった。

 ジリリリリリッ!

 店の固定電話が激しく鳴りだした。ピクンと肩を跳ねさせた薫は、急ぎ足で店舗スペースまで戻り、受話器を取る。求人への応募があったか、と期待を込めて電話に出てみたのだが――

「ハァイ、『Cafe&Bar Kaoru』でェッす!」

『もしもし、大河内だけど』

 相手からの第一声に、薫は無言で肩を落とした。

 大河内傑。知り合いといえば知り合いだ。決して接点は多くないし、最後に会ったのもしばらく前だが、だからといって向こうから連絡があることに違和感を抱く相手ではない。

「傑ちゃん? ヤダ~久しぶりじゃな~い」

 無論、落胆を声に出すほど間抜けではない。薫は努めて平素の調子で――薫にとってはこれが平常運転である――喋りだした。

『うん、久しぶり』

「急にどうしたのよォ、アタシに何か用でもあった?」

『うん、ちょっと相談したいことがあってね』

 形ばかりは彼の用件が分からない体で問いかける薫に対し、大河内はワンクッション置くようにそう答えた。

 薫が苦笑する。今度はその声が少しは漏れ聞こえたかもしれない。勿体ぶるような返答だが、すぐに本題に入ることは明白だ。そして、彼が自分の元へ持ってくる『相談』など分かり切っている。

「ひょっとして、仕事の話かしらァ?」

 突如、薫の声が低くなった。一人佇む彼の双眸は、声と共に不吉な輝きを孕んで、誰もいない店の一角を睨む。威嚇するような、もしくは悪魔が契約に臨むような、妖しく瘴気に満ちた気配が薫から立ち昇る。

 が、それに、電話口の向こうからは失笑が返ってきた。

『へぇ、よく分かったもんだ。その通り、君が求人を出してた仕事の話だよ』

「……あらァ?」

 思いもしなかった言葉に、つい呆けた声を上げる薫。そこへ、大河内から続けざまに情報が飛んでくる。

『僕の経営してるアパートに、新しく入ってきた二人組の女の子たちがいてね。その子たちが、君の店の求人を見つけて興味を持ってるんだ。僕としても、あまり知らないところを紹介するのは気が進まないし、その点君のところなら大丈夫だろうと思ってるから』

「……あらァ、信頼されたものねェ。大して深い縁があるわけでもないのに」

『するさ。それに、雑誌で募集をかけるような仕事なんだろう?』

 気を取り直した薫が皮肉っぽく囁くが、大河内の方は敢えてその皮肉の色を無視するように、しれっとした口調で言ってきた。

 再び苦笑が漏れる。今度はささやかな自嘲も混じっていた。

「えぇ、勿論」

『なら安心だ。それで、できれば明日にでも紹介したいんだけど、都合はどう?』

「いつでも。暇で暇で仕方ないくらいだもの」

『分かった。午後にはなると思うけど、適当に連れていくよ』

 そんなやり取りを交わして、大河内は通話を切った。規則的な電子音を鳴らし始めた受話器を、しかし薫は降ろすことのないまま、耳に当ててしばし立ち尽くした。

「……やァれやれ。傑ちゃんとこの、女のコ二人ねェ」

 薄く開いた唇の隙間から、這うような声が漏れ出た。

 声に混じるのは一片の警戒心、他人事に向ける興味、そして同時に突き放すような酷薄さだ。剃刀の眼光は未だ見ぬ誰かをそこに見出すかのごとく、容赦なく虚空を切り裂いている。

 顎に手を置き俯いた彼は、値踏みするような心境で呟いた。

「どのくらい頑張れるのかしら……ちょぉっと、興味あるわね」

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