4-6 宮部薫

 買い物の翌日。私たちは早めに起きて、昨日根岸さんに勧められた喫茶店で朝食を摂ったあと、家具の搬入と冷蔵庫の設置を見守った。その時点で十一時頃。少し悩んだものの、いい加減外食続きに嫌気がさしたこともあり、足早にスーパーへ向かった。パックライスと他幾つかの食材を調達して帰宅、『特区』に来て以来初めてキッチンに立った私が作ったのは炒飯だった。といっても、普段作るときとは比較にならないほどシンプルだったが。

「は~、やっとサラの手料理が食べられた……」

 とにかく時間優先で拵えた手抜き料理にそんな感極まった感じのコメントをされても、それはそれで複雑なのだが、私自身久々にキッチンに立てたことはいい気分転換になった。

 フライパンやお皿を手早く洗った私たちは、満を持して大河内さんの部屋の扉をノックした。やや遅れて、大河内さんが部屋の中から姿を見せる。

「お、もう準備はできてる?」

「はい」

「分かった。五分だけ待っててくれるかな」

 私とカナは揃って首肯した。それに大河内さんはそう言うと、返事を待たずに部屋に引っ込む。言われた通り、ドアから数歩離れて待っていると、五分も経たないうちに大河内さんが出てきた。昨日と同じ防寒着を着ている。

「よし。じゃあ行こう」

 そう促す彼の車に乗って、私たちは南区の方へ向かった。

 例のお店、『Kaoru』は、西区と南区の境界付近にあった。辺りは割と開けていて、まばらにアパートが立ち並んでいる。『すいせん』の近所と同じような風景だが、こちらの方が建物の密度は若干高い気がする。

 駐車スペースはあるにはあったが、僅かに二台分。そのうち片方は店主のものだろうか、既に一台停まっていた。

「駐車場、小さいですね」

 店に入ってから言うわけにもいかず、尋ねるニュアンスで私は呟いた。車をバックさせながら、大河内さんはさも当然という口調で、

「そりゃ、『特区』でバス以外の車なんてほとんどないからね」

「そうなんですか?」

 思わず驚いて聞き返してしまった。それに対し、大河内さんは「うん?」と不思議がるトーンで漏らしたあと、やはり訝るような声で逆に問うてくる。

「気づかなかったかい? 今までの移動中とかに、ほとんど車なんて見なかっただろう」

「た、確かに……」

「何せ自動車学校もないからね、『特区ここ』には。もし将来免許を取りたかったなら、残念だけど諦めるしかない。幸い、普通に暮らす分にはバスで十分さ。狭いからね、『特区』」

 私の反応が楽しかったのか、からからと笑いながら大河内さんは続けた。

 硬い表情で隣を見ると、カナはニマニマと笑って私の方を見ていた。言葉にせずとも「サラにぶーい」という声が聞こえてきそうな顔だ。その通りなので反論はできないにせよ、面白いものではない。むくれる私の頬を、カナの指がつんつんとつついた。

 そうこうしているうちに車が停まる。私たちは車を降りて、お店の方に足を向けた。

 ドアには『Closed』の札。けれど大河内さんは迷いなくドアを開けた。カランカラン、とベルが軽やかな音を立てて揺れる。

「宮部? 来たよ?」

 大きめの声で大河内さんが店内に呼びかける。その脇を通って、私とカナもお店の中に足を踏み入れた。

 照明は点いていないが、窓から入る陽光だけでも十分に店内を見渡せる。アンティーク調のテーブルと椅子が並ぶ一方、奥の方にはカウンターの前にスツールが並んでいる。カウンターの向こうには色とりどりのボトル。恐らくお酒だろう。またカウンターの隅の方にはコーヒーサイフォンも置いてあった。だが人影はない。

 と、そのとき、遠い足音が微かに聞こえた。それに気づいた直後には、カウンターの奥にあった扉が音を立てて開く。

 そしてそこから姿を現した人物は開口一番、

「あらヤダ~、早いじゃないのよォー傑ちゃん」

 その声に、私とカナは揃って顎を落としてあんぐりと口を開いていた。

 真っ白なカッターシャツに黒のスラックスを合わせた清潔感のある服装。髪はウェーブのかかった金髪だが、一目見ただけでは地毛か染めたものかは分からない。顔立ちは東洋系とも西洋系とも判じかねる感じだが、いずれにせよかなりの美形と言っていい。目元にはアイシャドウ、口元にはルージュ、化粧っけは強いが、決してけばけばしくはない。自分の美貌の方向性を弁えた上で、それを引き立てるような飾り方だ。

 問題は――性別だ。

 一八〇センチに届こうかという身長、大河内さんよりも広い肩幅。角ばった顎といい目立ち鼻立ちといい、どう見ても男性である。声質に関しても同様だ。

 そんな人が、足早に私たちの方へ近づいてくる。正体不明故のプレッシャーがじわりと迫り、私は無意識のまま半歩後退していた。

 苦笑を漏らした大河内さんは肩を竦めて、

「そうかい? ところで宮部、君は君で、自分のその異様な風体を自覚した方がいいと思うよ」

「んまっ、異様って何よ異様って!」

「ほら、怖がられてる」

 彼の指摘に、いかにも怒ってますという体で肩を怒らせた宮部さんだったが、そんな彼に大河内さんは私の方を顎で示した。突如水を向けられた私は隠しようもなく動揺したが、それに気づいた宮部さんも、目を瞬いたかと思いきや慌てて表情を和らげる。

「あ、あらごめんなさい。そっかァ、そうよね。まだ『特区』に来たばっかりなのよねェ」

 問うような言葉だが、語調は一人感慨に耽るようでもあった。答えるべきなのか私が逡巡しているうちに、横からカナが答えた。

「はい、まだ三日目なんです」

「うんうん、それじゃあ驚かれても無理ないかしらねェ」

 腕を組んで掌を顎に当てながら、宮部さんはうんうんと頷いた。腰を僅かに突き出した立ち姿は、どちらかというと女性的に映る。

 驚きに半分麻痺していた思考が再回転し始める。ふと閃いたのは「性同一性障害」という単語だ。或いは同性愛者かもしれない。男性とお付き合いするために、女装や女性らしい話し方を好むようになるということはあり得るのではなかろうか。

 しかし、可能性に気づいたとしても、真っ向から尋ねるのは不躾にもほどがある。それまでとは別種の緊張が、胸の中に落ちてきた。

 そんな葛藤の一方、一人幾度も首を揺らしていた宮部さんは、唐突に顔を上げて私たちへ視線を巡らせるや、

「じゃ、自己紹介ね。アタシは宮部みやべかおる、このお店の店長よ。宮部さんでも薫ちゃんでも、好きなように呼んでちょうだいナ」

 矢庭に大仰な仕草で腕を振り、天井に向けて手を伸ばす傍ら、もう片方の手で自らの胸を指した。やたらと芝居がかって見えるのは、こちらの緊張を解すためなのだろうか。下手をすれば逆効果になりそうなものだが、彼がそうする様は舞台の一場面のようで、不思議と惹き込まれるような魅力があった。

 宮部さんはそうした後に、片目を瞑って笑みを深くしながら、

「ちなみに性別はオ・ト・コ。女装は単なる趣味よ」

 趣味なんかい、と口を突いて出かけたツッコミを、危ういところで飲み込む。隣でカナはかくんと肩を落としていた。

 私たちの顔色を満足げに見やってから、宮部さんはくるりと踵を返した。歩く後ろ姿が、また妙に色っぽい。彼はカウンターの奥まで戻ると、席を示しながら私たちに声をかける。

「まぁまぁとにかく座ってちょうだいな。うちの求人に興味があって来てくれたんでしょ?」

「は、はい」

 私が答えて首肯。カナも無言のまま頷いている。大河内さんは、と姿を探すと、彼は勝手知ったると言わんばかりに、私たちに先駆けて既にカウンター席に腰を下ろしていた。

「良かったわ。募集しておいてなんだけど、正直誰か来てくれるか不安だったのよォ」

 宮部さんは喋りながら、カウンターの裏からカップとソーサーを取り出した。そしてサイフォンを弄りながら、ちらりと私たちへ目線を投げかける。

 三日月の笑みの上で、初めてその双眸が、知的で真剣な輝きを帯びた。

「とはいえ、まずはあなたたちのお話も聞かないとネ。名前、志望動機、希望する条件、趣味や特技。でも何より最初に――コーヒー、お好きかしら?」

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