四章 新生活
4-1 初めての朝
目覚めは唐突だった。
特に何か刺激があったわけでもないと思うのだが、目を開けたと同時に私の意識ははっきりと覚醒していた。何度か瞬きをし、それから音を立てないように、ゆっくりと顔を横に向ける。裸眼で見ると少しぼやけてしまうが、カナの寝顔が確かにそこにあった。
『特区』に着いたその日の晩。私とカナは結局、道中の疲労や、それまでの緊張が緩んだことによる精神的な消耗もあって、二人でひとしきり話した後はさっさと布団を敷いて寝てしまった。二人きりの部屋、ぴったり並べた布団で一緒に寝るというシチュエーションによる興奮も無かったわけではないが、いざ横になったら睡魔が怒涛の勢いで襲い掛かってきて、瞬く間に意識を失ってしまったのだ。眠りに落ちる直前、カナの寝息も聞こえていたような気がするから、彼女も同じようなものだったのだろう。
やはり物音を立てないように頭を巡らせて、枕元に放置してあった携帯のディスプレイを見る。七時三十分。泥のように眠っていた割には早い目覚めだ。
少し考えた末、私はカナを起こさないように注意しながら布団から這い出した。眼鏡をかけ、持ってきたままの鞄をそっと取り上げると、足音を忍ばせて洗面所に向かう。
替えの下着とタオルは持ってきてあったが、バスタオルは流石にない。次に浴室を覗いてみると、残念ながらシャンプーの類は用意されていなかった。昨日チェックしているときにはすっかり忘れていたが、大河内さんもここまで気は回らなかったか、或いはその手のものは自分たちで選びたがるだろうと考えたか。何にせよ洗面台には固形石鹸があっただけに、あと一押しとか思わないでもない。
またも少し悩んだが、汗くらいは流したかった。結局私は服を脱ぎ、脱いだ服と替えの下着を浴室の扉の外へ置き、タオルだけ持ってバスタブへ。シャワーで身体を流してタオルで拭い、髪もお湯で洗った。もう一度絞ったタオルで髪と身体を拭いて、できるだけ水気を落としてからバスタブから出る。そして着替えを取ろうと扉を開けたところで、
そこにカナがいた。
『あっ』
偶然声が重なった。
カナはちょうど洗面所にやって来たところらしかった。多分、私の服に気づいて足を止めていたのだろう。扉を開いた私とばっちり目が合った。彼女はぱちりと瞬きした後、少しだけ視線を下――私の身体に移し、かと思えばいきなり顔を真っ赤にして背中を向けた。
「ごっ、ごめん! 見てない、見てないから!」
顔を両手で覆い、あまつさえその場にしゃがみ込みながら、彼女は必死そうな声で叫んだ。私は呆気に取られたものの、少し遅れて苦笑しつつショーツに手を伸ばしながら声をかける。
「ちょっと、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
そう言いつつ下着を身に着ける間にも、衣擦れの音でも聞こえているのか、後ろから見えるカナの耳はますます赤みを増していく。ズボンに足を通し、シャツを着たところで浴室から出て、洗面台に置いた眼鏡をかける。完全に着替えを済ませた私は、カナの肩を叩いた。
肩越しにこっちへ、遠慮がちに振り返ったカナが、恨みがましそうに私を睨み上げる。そして押し殺した声で、
「何よぉ~……じゃあサラは、わたしの裸をうっかり見ちゃっても何とも思わないっていうの?」
「何とも、ってことはないけど」
そんな大げさな、という感想を抱きながら私は応える。そんな心中が透けて見えたのか、カナはますます目を細めて私を睨んだ。ぷくりと頬を膨らませ、思いっきりグレた声音でぼやく。
「ふーん、そうなんだぁ。人に散々「好き」とか「愛してる」とか囁いておきながら、そんな相手の裸見ても大して気にならないんだぁ。ふーん」
「……カナ~、ごめんってば。機嫌直してよ」
何やら危うい感じがした。具体的にこの先どうなる、というビジョンがあったわけではないが、今すぐどうにかカナの機嫌を直さないと
意図したわけではなかったが、奇しくも昨晩、カナの首筋にキスマークをつけたときと同じ構図だ。思い返したのか、カナが激しく動揺した。すかさず、昨日自分がつけた赤い痕に息を吹きかける。再びカナの耳が火を噴いた。
「べ、別に怒ってるわけじゃないもん」
縮こまりながらも、そんな言葉を返してくる。
さてどうしたものか、と少し考えた後、私はカナの耳元に口を寄せて、
「カナの身体を見て、何も思わないわけがないでしょ。むしろ、ずっと見ていたくて動けなくなっちゃうわよ、きっと」
「……すけべ」
「カナだって私の裸見て興奮したくせに」
「だから見てないってば、もぉ~……」
畳みかけると、弱った声で彼女は呻いた。私は彼女の髪を何度か撫で、それからカナを引っ張り上げるように立ち上がった。どうにか直前までのやり取りを有耶無耶にできた隙に、話題を変えにかかる。
「ところでカナもシャワー浴びに来たの? 残念だけど、シャンプーとかは無かったわ」
「ん~、まぁ。昨日は結局身体も洗わず寝ちゃったから、ちょっと気になって」
カナはまだ不満そうではあったものの、一応問いかけには答えてくれた。カナを抱きしめたままだった私に、手を放すよう仕草で促しつつ続ける。
「お出かけする前には流石に一度、昨日の汗くらいは流しておきたいもん。朝ごはん、無いでしょ?」
「うん、買いに行くなり食べに行くなりしないと」
頷く私を肩越しに振り返って、カナは一つ息を吐いた。
「じゃあやっぱり、わたしもシャワー借りるわぁ。ちょっと待たせちゃうけど、いい?」
「勿論。あ、タオル使う?」
「んー、じゃあ借りるわね」
再度頷きながら、私は自分が身体を拭うのに使ったタオルを差し出した。カナは少し悩む素振りをしてから、そう言って私のタオルを手に取った。
一旦それを洗面台に置いたカナは、足早にリビングへと戻っていった。その背を追って、私もリビングへ。
カナは自分の鞄から下着やタオルを取り出す。タオルの方は、後で身体を乾かすのに使うのか、とも思ったのだが、カナはそれを私に放り投げた。
「はいサラ。わたしがシャワー浴びてる間に、それで髪乾かしてね」
「ああ、ありがと」
カナの言う通り、髪はまだ生乾きだ。バスタオルと同様、ドライヤーも持ってきていない。タオルで水気を取るにも限度はあるが、それでももう少しはマシになるだろう。
頭にタオルを被せた私を残して、カナは浴室の方へ向かっていった――が、ひょっこりと顔だけを覗かせて、
「覗いちゃ嫌よ?」
「ガチョウ倶楽部?」
「ネタ振りじゃないっ」
猫が毛を逆立てるような剣幕で睨まれる。「分かった分かった」と笑いながら手を振ると、カナはジト目のまま顔を引っ込めて、今度こそ浴室に向かった。
「ふぅ……」
小さく息をついて、私は片手でタオルを押さえる一方、もう片方の手で携帯を拾い上げた。地図アプリを起動してみるが、現在地のピンが『特区』に刺さっただけで、周辺情報が更新されたりはしない。予想通りとはいえ億劫だ。
次に、移住手続きの際に貰った冊子をめくる。後ろの方から斜め読みしていくと、『特区』の大まかな見取り図とともに二次元バーコードが印刷されているのを見つけた。『特区』専用の地図アプリのダウンロード案内だ。昨日この冊子を見ているときに、地図の書かれたページを素通りしたような気がしていたが、勘違いではなかったようだ。
カメラでバーコードを読み込んでアプリをインストール。再度開かれた地図には、さっきよりも多くの情報が表示された。
現在地には『すいせん』の表示。目と鼻の先の位置にバス停があった。周辺の道も表示される。少し拡大率を下げると、コインランドリーとコンビニが並んで表示された。ここから見てコンビニと反対側には喫茶店もあるようだ。
さらに遠くまで調べてみる。スーパーらしき店舗は徒歩圏内。とはいえ、地図上で見る限り敷地はあまり広くない。品揃えは若干不安だ。あとは地図で見る限り、近場にはATMも銀行の窓口も在りそうにない。スーパーかコンビニに設置してある可能性はあるが、もしもなければこの点はかなり不便になりそうだ。
「うーん……」
携帯を床に置いた私は、画面を眺めて唸った。タオルを両手で持って、髪を挟むように水気を吸い取る傍ら、表示した地図を睨んだまま、今後の課題を思い描こうとする。
そうすることしばし。シャワーを済ませたカナが戻ってきた。床に胡坐をかいて携帯を睨む私が可笑しかったのか、小さな笑い声とともに尋ねてくる。
「何してるの?」
「周辺情報の確認。とりあえず朝、コンビニと喫茶店とどっちがいい? 距離はどっちも同じくらいだけど」
顔を上げて私が言うと、カナはちょっと驚いた顔をして、それから感心するような、一方で不思議と誇らしそうな顔で微笑んだ。私の目の前で膝をつくと、
「今日のところはコンビニかなぁ。喫茶店の方は、もうちょっと身なりをちゃんとしてからの方がいいと思うし」
地図を見下ろしながらそう言った。確かに服は昨日から着たきりで、髪も生乾きの有様だ。お店に長居するのはちょっと躊躇う状態ではある。同意するしかない。
「そうね、そうしよう。ところでカナ、ちょっと後ろ向いて」
頷いた後、私はそう言いながらカナの肩を軽く押し、促す。彼女は疑問符を浮かべながらも従ってくれた。
私はカナの真後ろに身体をずらすと、借りていたタオルでカナの髪に触れた。自分の髪と同じように、タオルで挟んで軽く揉むように拭いていく。
「ありがと~」
「元々はカナのタオルでしょ。それにカナの方が髪長いし、何か大変そうだから」
お礼を言ってくれるカナだったが、私の方は少し申し訳ない気持ちになりながら応えた。事実、肩くらいの私の髪と違って、カナの髪は解くと背中まで届く長さだ。乾かすのも一苦労だろう。
私の台詞を受けて、カナは微笑のまま溜息を落とし、言う。
「そうね、手がかかるのは確かかも。いっそ切っちゃおうかなぁ」
「えっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。カナの髪を拭く手も完全に止まる。振り返る彼女の目を、私はまじまじと見つめてしまう。
「じょ、冗談よね?」
問えば、カナは意味が分からないというように首を傾げ、
「いや、切るって決めたわけじゃないけど、それもいいかなぁって」
「そんな、勿体ないわよ」
動揺する私と、その理由が分からない様子のカナ。このままでは本当に切りかねない。そんなことはして欲しくなかった。
カナの長い髪をタオルで優しく撫でながら、私は真剣な声音で呟いた。
「お願いカナ、切らないで。私、カナのこの髪、好きなの」
伝えた瞬間、カナは目を丸くした。意外そうに何度か瞬きして、彼女は私の顔を凝視する。その視線にむず痒さを覚えながらも、私は目を逸らさずにじっと耐えた。
やがて、カナは半ば呆けたように、
「そっか、じゃあ切らない」
ちょっと照れくさそうに視線を下げながらそう言い、顔を正面に戻した。
それからカナは、私の方に頭を預けるように首を傾けながら、小さな声で囁きかけてくる。
「ねぇサラ。わたしにして欲しいこととか、して欲しくないこととか、いつでも言ってね。何でも言われた通りにはできないけど、サラのお願いにはできるだけ応えたいから」
言葉とともに、カナは自分の手で、首にかかっていた髪の一房をどかす。シャワーの前にも見た赤い痕を、カナは自ら露わにしながら続けた。
「わたしはもうサラのものだけど、今よりもっとサラのものにして欲しい」
「……私だって、とっくにカナのものよ」
カナの肌に目を奪われつつも、私はどうにか自制心を働かせ、首筋ではなく髪を撫でながら告げる。
タオルはもう大分湿ってしまって、髪を乾かすのもこれ以上は難しい。仕方なくタオルを置いて、私は代わりに指を髪に潜らせた。やはりまだ水気を感じるものの、最初よりは多少なりとも乾いたと思う。
私の行動の意味を察して、カナは私から頭を離した。私が好きと言った髪を揺らすように首を振ってから、ゆっくりと立ち上がり、私の方へ手を差し出す。
「うん、知ってる」
微笑むカナは、私の大好きな甘やかな声で囁いた。その声一つで、一瞬だけでも自分がカナに支配されたような気分になってしまう。
ちょっと悔しい。それ以上に嬉しい。口元が緩むのを堪えられず、私は握ったカナの手に指を絡ませた。
「じゃあ、行きましょ」
「うん」
いわゆる恋人繋ぎ。相手を包み込むように優しく、だけど決して離れないようにしっかりと、睦み合うように指を絡め合って、私たちは歩き出す。
少しずつ、私とカナの新しい日常が、確かな色を持っていく。
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