Interlude03 鳶山侑吾は紫煙と戯れる
鳶山侑吾は、ヒノモトでも名の知れた作家であり、また脚本家である。
しかしその本名が小鳥遊侑吾であることを知る者は少なく、その妻である小鳥遊
とまれ、鳶山侑吾は現在、自宅から二駅離れた場所に仕事場として借りているマンションに籠っていた。それは何も今に限ったことではなく、実際のところ自宅よりもこちらにいることの方が圧倒的に多い。もっと言えば、彼の生活において、執筆以外に充てる時間はほとんど存在しない。
娘の香奈江に最後に会ったのも、おそらく一か月くらいは前だっただろう。そのときはまさか、それが最後の対面になるとは思ってもみなかったが。娘はあのとき、『特区』への移住をどこまで本気で考えていただろう。昨日今日で思いついたわけでもあるまいし、一か月前であれば、既に計画を詰めていた可能性は高い。
「ふむ……」
娘のことが頭を過ったためか、キーボードを叩く指が少し速度を落とした。それを自覚し、鳶山は小さく鼻を鳴らすと、ファイルを保存してパソコンをスリープさせた。椅子から立ち上がると玄関に置いてあったタバコの箱とライターを手に、部屋から出る。以前はベランダでも吸えたのだが、今は屋外にある共用の喫煙所まで行かなくてはならなくなった。その点は少々不便に感じている。
エレベーターで一階まで降りる。そのままエレベーターホールを抜けて外へ、と思っていたのだが、そこで思わぬ人物に出くわした。
「――侑吾っ!?」
「希美か。どうかしたか?」
彼の姿を認めるなり大声で名前を呼ぶ妻を、鳶山は何の感慨もなさそうな声で迎えた。彼女を一瞥した鳶山は変わらぬ歩調で彼女とすれ違い、一瞬呆気に取られた希美が慌ててその背を追った。
「ちょ、ちょっと! 何処行く気!?」
何やら必死にも聞こえる妻の問いかけだったが、対する鳶山はやはり冷めたもので、
「タバコだ」
と振り返りすらせず答え、歩き続ける。不満そうな顔をしつつ、希美もそれに続くしかなかった。
喫煙所についた鳶山は、箱から取り出したタバコを咥え、ライターで火を点ける。肺まで紫煙を回して、細い息とともに吐き出す。それから、煙たそうに顔を顰めながらもそこから動かない希美に目を向け、またすぐに視線を外した。まるで「どうしてまだいるんだろう」とでも言いたげな、僅かなりとも興味のなさそうな態度だ。
たまらず希美が眦を吊り上げる。
「侑吾、あなた知ってるの!?」
「知らん」
「ふざけないで!」
打てば響くような返答に、希美はヒステリックに叫び返した。それでも、その後の内容はあまり周囲に聞かせたくはなかったらしく、やおら声を潜めながら、
「ッ香奈江のことよ。あの娘、『特区』なんかに行ったのよ!? この私に何も言わずに!」
怒りを堪えきれないらしい。話しているうちに語気は次第に強まり、指先が何かを掴もうとするように
「ああ、それなら知っている。言うわけがないだろう、邪魔されるのは明白だからな」
「はァッ!?」
よほど鳶山の言葉が度し難かったらしい。素っ頓狂な声を上げて、希美が彼を睨みつける。もっとも、鳶山の方は妻の態度などどこ吹く風で、マイペースにタバコを
「ふざけないでっ。知ってて何で止めなかったの!?」
「事前に知っていたわけじゃないからな。止めようがない」
「よくそんな態度をとっていられるわね! あなたは困らないの!?」
暖簾に腕押し、という夫の態度が腹に据えかねるらしい。徐々にヒートアップしていく希美の姿を、鳶山は半眼で睨む。こちらの眼差しは、希美の熱量に反比例してどんどん冷たくなっていく。
とはいえ、「困らないのか」という問いは少し面白かった。「困らない」と即応してしまうのは簡単だし、その方がより容易に、この不毛な問答を終わらせることができるだろうとは分かっていたが、それでも彼は興味本位でこう尋ねた。
「そういうお前は、どう困るんだ?」
さて今度はどんな面白い回答を聞かせてくれるのか、という期待の混じる問いかけ。無論、それを察する能のある妻だとは思っていない。むしろ気づかないからこそ、時に予想を超えた結論を示してくれたりするのだ。
自らを品定めする眼差しにも気づかず、希美は考え直す素振りもなく答えた。
「せっかくあの子の見合いの話が纏まりかけてたのよ!? 俳優の
「ああ、あいつか」
かつて自分が脚本で関わったドラマに出演していたはずだ。その縁で会ったときの印象を思い返しつつ、言外に促すようなニュアンスを忍ばせながら鳶山は小さく頷く。
「現役の俳優の嫁よ、あの子の将来も約束されたようなものじゃない! 折角私がそのお膳立てをしてあげたっていうのにッ。あの子の失踪でそれもパァよ! とんだ恥をかかされたわ! まったく、娘が『肥溜め』に行ったなんて言うわけにもいかないし、誤魔化すのにどれだけ苦労させられたか!」
彼の意図が伝わったからか、はたまた単に彼の相槌など気にもしていなかったのか、捲し立てるように続ける希美を見る鳶山の目は、ますます温かみを失っていった。鋭く怜悧な眼光は、解剖に臨むメスさながらだ。
鳶山は静かに煙を吸い込む。吐き出す。それから、口中に残った毒気を多分に含んだ口ぶりで、
「有名人と結婚すれば将来安泰なのだとしたら、お前もさぞ満足のいく生涯を送っているんだろうな」
実のところ、面と向かって誰かに皮肉を言うことは彼にとっては珍しい。それを頭の片隅で自覚しつつ、深く考えることもなく鳶山は灰皿にタバコの吸い殻を落とした。
希美から返ってきたのは烈火の眼差しだ。だが自身のそれに比べて重みのない眼光を、鳶山は子供の駄々を無視するかのように受け流す。
「冗談言わないで。あなた、一度でも私に興味を持ったことがある!? 私を助けようって思ったことがある!?」
「前者は当然イエスだ。後者はそうだな、少なくとも不自由しないだけの金は渡しているはずだが」
二本目のタバコに火を点け、吸い始める鳶山。その横顔を歪んだ形相で睨み、希美はいよいよ歯を軋らせた。だが、彼女が再び何かを言おうと息を吸った瞬間、意外にも鳶山が先に口を開いた。
「興味がなければ最初から構いはしない。ただ、お前たちの言い分を聞く了見が俺にはないだけだ。それが嫌なら俺なんかじゃなく、もっと平凡な男と結婚するべきだったな」
「なっ……」
不意を突かれたこともそうだが、彼の発言が想像の埒外にあったせいで、希美は絶句するより他になかった。眩暈を感じたように一歩、二歩と後退った彼女は、困惑した表情で頭を振り、
「そんなのおかしい……興味があるのに話は聞かない? どうしてよ、好きだっていうなら、相手のために尽くすのは当然でしょ?」
呆然とそんな台詞を吐いた彼女に、鳶山が目を向けた。心なしかそれは、この場で初めて驚きを宿した、丸みを帯びた眼差しだった。しばし希美を上から下まで精査するように撫で回す視線に、しかし彼女はやはり気づいた様子はない。視線だけでなく、自分の言葉の矛盾にも。
それを見て取った鳶山は、苦笑気味に紫煙を吐き出してから、愉快げに呟いた。
「そういうものか。知らなかったな。いつ、どんな風に、お前は俺のために尽くしてくれたんだ?」
再び希美が言葉を失った。今度は唖然と口を開けて立ち尽くしたかと思えば、怒りに肩を
それでも何も言わない鳶山に我慢し切れなくなったらしい。彼女は震える声で、
「おかしなこと言わないで。この私と、女優三嶋希美と結婚できたのよ? それで何の不満があるっていうの?」
「不満はないな。確かに、楽しませてくれる」
肩を竦めて応えた。だがその声音は、どこまでも投げやりだ。希美も苛立ちを隠さず、さらなる言葉を待っていた。
彼女と違い、鳶山はその沈黙の意味を過たず理解していた。その上で彼は誤魔化しも、呵責も、打算すらなく口を開いた。
「お前に期待したのはそれだけだ。道化としての楽しみ以外、お前に求めたことはない。その意味では、確かにお前は俺に尽くしてくれたのだろうよ。自覚があったとは思っていないが」
希美は三度目の絶句。今度はまるで彫像のように、一切の動きを失って棒立ちしている。感情の薄い眼差しでその姿を眺めながら二本目のタバコを消費した鳶山は、再び吸い殻を灰皿に落とす。そして話は終わりだとばかりに、気負いなく希美に背を向け、
「ああ、だが」
と、何かを思い出したように足を止め、彼は顔だけで背後を振り返った。呆然とする妻の横顔が微かに見えるだけだったが、わざわざ彼女と目を合わせようとする気にもならず、やはりどうでもいいことのように告げた。
「香奈江を産んでくれたことには感謝している。あれは、お前以上に面白い」
希美に反応はない。それを認めた彼は、それ以上彼女に関心を示さず、悠々とマンションへ戻っていった。
彼が自動ドアを潜るまで、遂に希美からの反応はないままだった。もしかしたらこの後、我に返って一人で暴れ出すかもしれないし、携帯に抗議の電話かメールを寄越すかもしれない。だが鳶山にとっては既にどうでもよかった。元より、一般的に語られる夫婦の情など、互いに持ち合わせない身だ。
なのだが――
「ふむ……」
部屋に戻り、改めてパソコンに向かうと、直前の会話が蘇る。そもそもの発端となった、娘の『特区』入りのこと。そのことを一旦意識から追いやるために一服しに行ったはずなのに、結局その話題にぶつかることになるとは、因果なものである。
正直に言えば、鳶山は香奈江の行く末に多大な興味があった。彼女がどうするか、どうなるか、その選択と偶然の連続の先に、どんな結末に至るのかに思いを馳せるのが楽しくて仕方がなかった。個人にそんな風に肩入れするのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。少なくとも、能力と自己評価の噛み合わなさが、あまりに人としての常からかけ離れていた一人の女性を娶ったあのときでさえ、ここまで高揚してはいなかった。
それは香奈江が、自分の血を分けた娘だからだろうか。単に自分が直接見知った人間だからだろうか。その答えは彼自身にも分からなかったが。
少し考え、鳶山は仕事机からスケジュール帳を取り出した。香奈江から最後にメールが届いたあの日の日付に、赤いボールペンでチェックを入れる。
そして満足げに一つ頷くと、彼は手帳をしまって再び原稿に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます