4-2 根岸晴臣

「いらっしゃいませ――って、ああ、お二人さん、どうも」

 コンビニまでやって来た私たちに、レジにいた店員さんが声をかけてきた。私たちの顔を見た彼は、何かに気づいたようにトーンを変える。

 入店前から「もしかしたら」と思ってはいたが、昨晩対面した根岸さんがそこにいた。一目見た限り、他に人影は見当たらない。店員さんも根岸さん一人だ。客の目につかないところで作業をしている人がいるのだろうか。まさか本当にこの店に彼一人ということもないだろうが。

「確か、上杉さんと……小鳥遊さんだったッスか?」

「はい、そうです」

 自信なさげな根岸さんの言葉に、ぺこりと頭を下げてカナが肯定する。

「そちらは根岸さん、でしたっけ?」

 敢えてこちらも確かめるように声をかける。うろ覚えなのはお互い様ということに安心したのか、少し強張った様子だった根岸さんが肩の力を抜いた。

「そッス。二人は朝食ッスか?」

「そうなんです。地図見たら、近場はここと喫茶店くらいしかなかったから」

 尋ねる彼に頷きつつ、私は店の中を進んだ。パッと見た限り、店の雰囲気は外のコンビニと変わらない。そもそもこのコンビニ自体、青と白の見慣れた看板を掲げた有名チェーンだ。同じで当然とも言える。

 が、そんなことを考える私に、根岸さんはやおら労わるような、温かく細い眼差しを向けてきた。訝る私に向けて、

「ですか……まぁ最初は驚くかもしんないッスけど。取り敢えず見てってください」

「?」

 よく意味が分からなかった。驚くと言われても、そもそも思っていた以上に自分たちのよく知るコンビニそのままで驚いたくらいだ。並んでいる品にしたって、袋パンやおにぎりに二五〇円とか三〇〇円とかいう値段がついている以外何も――

『――高っ!?』

 思わず驚愕が口を突いて出た。カナも同時に気づいたらしい。図らずもハモった私たちに、根岸さんが吹き出したのが聞こえた。

「コンビニは特に顕著ッスけど、『特区』の物価は基本高いッスよ。外から『特区』に店出してるようなとこは、どこだってそうッス。何せ高くても売れる、ってか買うしかないパターンも多いッスからね」

「そ、そうなんですかぁ」

「足元見られてるわね」

 彼の説明に、微笑を引き攣らせながら頷くカナと、ぼやく私。根岸さんはカウンターの向こうから出てきて、そんな私たちの方に近づいてきた。

「ちなみに俺はぼちぼち上がりの時間なんで、その前に期限近い商品に処分価格つけてきますね」

 そう告げる彼の手にはシールの束が。慣れた手つきで次々と食料品に値引きシールを貼っていく彼を見て、気を遣わせてしまったような気分になる。

 カナはあまり気にしていないのか、もしくは敢えて気にしていない体で気遣いを甘受するつもりなのか、両手を合わせて嬉しそうに声を弾ませる。

「わぁ、ありがとうございます。助かります~」

「売れなきゃこっちも損するだけッスからね。期限切れ前に値引くのはいつものことですし、むしろお二人がいいタイミングで来ただけッスよ」

 根岸さんの方は恩着せがましい態度など全く見せず、飄々と言ってのけた。

 昨晩初めて会ったときには、どことなく人付き合いが苦手そうにも感じたのだが、こうして話しているとまた違った印象を受ける。どうにも捉えどころがなく、周囲を翻弄するような軽妙さを帯びているのだ。厚意を受けておきながら失礼な評価かもしれないが、その言葉のどこまでが本当で、どれだけが本音なのか測りかねるところがあった。

 ただ少なくとも、今目の前でサンドイッチに半額シールが貼られたのは確かだ。


 その後、私はサンドイッチを、カナはおにぎりを買って店を出た。根岸さんは本当にシフト明け直前だったらしく、私たちの会計を済ませるとそのまま退勤準備を始めたので、折角だから彼を待って一緒に『すいせん』まで戻ることにした。

「わざわざ待っててくれたんスか。何かすんません」

 根岸さんは低姿勢でそう言った後、私たちから顔を逸らして大あくびした。思い返せば、昨晩彼と対面したのがいつ頃だったかはっきりと覚えてはいないが、少なくとも日付は変わっていなかったはずだ。『特区』に辿り着いた時間からして、恐らくあれが夜十時から十一時前。シフトがその少し後からだったとして、現在が朝九時だから、休憩込みで十時間は働いていたことになる。その前に寝ていたとしても、夜通し働いていれば眠気の一つも覚えるだろう。

「こちらこそ、親切にしてもらってありがとうございます。値引きもすごく助かりました」

「いいんスよ。さっきも言いましたけど、いつものことなんで。まあ、いつも同じ時間ってわけじゃないッスけどね」

 改めて私が口にしたお礼の言葉に、根岸さんは微苦笑を見せて肩を竦めた。それから彼は思い出したようにカナの方へ顔を向けて、

「ところで小鳥遊さん、昨日は結ってたけど、髪下ろしたんスね。俺はそっちのが好みッスよ」

「……はぁッ!?」

 何でもないような口調で、しれっと軟派なことを言ってのけた根岸さんに、カナより先に私が悲鳴を漏らす。

 感じていた恩も一発で吹き飛び、慌ててカナと彼の間に割って入った。眠たげな双眸を怒りを込めて睨み上げる私だったが、根岸さんは動じない。

 それどころか、カナもまた平然と構えていた。彼女はまるで彼の意図を察したと言わんばかりに、フッと息をついて言い返す。

「ありがとうございます。じゃあこれからは髪、ちゃんと纏めますね」

「それがいいッス」

 カナの、そしてそれに次ぐ根岸さんの台詞に相次いで驚かされ、私は慌ただしく前後を振り向いた。私だけが何かを見落としているようで、酷く落ち着かなかった。他方、カナも根岸さんもそんな私が面白かったのか、クスリと笑い声を零している。

 根岸さんは、今度は私を見下ろしながら自身の首を指で示し、

「折角上杉さんが分かりやすいサインをつけてくれたんスから。見えるようにしとかなきゃ損ッスよ。上杉さんももう少し目立つようにしといた方がベターだと思います。パートナーがいるってアピールしといた方が、俺みたいな変な奴に声かけられにくくなるッスから」 

 三日月のように細い笑みを浮かべる根岸さん。予想だにしていなかった言葉に、私は口を開けて絶句してしまった。

 放心した私の気を惹くように、カナがぽんぽんと私の肩を叩く。もう一度軽く根岸さんに頭を下げながら、彼女は私の髪に触れた。

「帰ったらサラも髪、纏めてみる? 昨日みたいに」

「いいッスねぇ。それも可愛いんじゃないスか?」

「あっ、うちのサラに気安く粉かけないでくれますぅ?」

「おっと、こいつは失敬」

 呆気に取られる私を余所に、カナと根岸さんは違和感を覚えるほど息を揃えて会話していた。根岸さんはわざとらしいくらい軽薄な声と、大仰に肩を竦める仕草で私たちに詫びて、半歩距離をとる。

 ただ、一瞬だけその瞳が鋭く、怜悧な輝きを放った。釘を刺す、という慣用句そのままに、彼の眼光は何かを警告するかのように私の胸を穿った。

「ちゃんと、お互いを捕まえとかなきゃ駄目ッスからね」

『すいせん』を目前にして、根岸さんは足を止めながら呟いた。これまでとは異なる、低く這うような声色だ。釣られて足を止めた私とカナに、彼は横顔を見せたままで続ける。

「お二人とも魅力的ッスから。間に割って入ろうって奴も、強引に奪おうって思う奴も、いるかもしれません。そんな連中から自分たちを守れるのは結局のところ、自分たち自身だけッス。俺も傑さんも、きっとこれから知り合う他の人たちも、お二人を手助けすることはあっても、肝心なところで守ってあげたりはできない。そういう街ッスから、『特区ここ』は」

 そのとき背筋に走った悪寒は、これまでに感じたことのあるものとは異質だった。

 彼の言葉は、粘ついた泥のように手足に絡みつく重さがあり、それでいて果てしなく空虚な響きを伴っていた。虚ろなのは根岸さん自身の佇まいもそうだ。だらりと落とした両腕、曲がった背筋、俯いた顔。その全てに、どこか退廃的な危うさを見出さずにはいられない。

 似たような印象を何かに抱いたことがあった気がする。遅れて思い出した、この『特区』そのものだ。煌めく光に彩られた、脆く朧げな雰囲気を漂わす中央区の摩天楼。表層こそ違えど、あの光景と本質的に同じものが、今の根岸さんの中にあるような気がした。

 彼は、目だけを私たちの方へ滑らせて、

「逆のことはあるかもしれないッスけどね」

 不穏に呟き、ニヤリと笑った。

 それから私たちに背を向けて、あらぬ方向へと足を進めながら、

「じゃ、俺はここで。裏の茶店サテンで朝飯にするんで。コンビニほどの割高感はないはずなんで、良かったらそのうち行ってやって欲しいッス」

 手をひらひらと揺らして、根岸さんは立ち去っていく。その背中を見つめたまま、私は遂に何も言えず立ち尽くしていた。

 ひょっとすると、起きてから今までの時間はずっと夢の中だったんじゃないだろうか。或いは狐につままれでもしたのだろうか。そう思うほど、根岸さんとのやり取りで私は混乱し切っていた。

 カナはどうだろうと、ふと思う。私よりは何かを把握している風ではあったが、それにしたって彼との会話の全てに納得しているとは限らないだろう。特に最後の忠告めいた言葉には、強い疑問を抱いていてもおかしくない。

 むしろ、そうであって欲しい。

「カナ……?」

 名前を呼びながら、私はカナの方へ振り向く。彼女は私と同じように、根岸さんが歩いていった方をぼんやりと眺めていた。

 口元には薄い笑み。それを見た瞬間、私の全身に鳥肌が立った。カナの笑みは乾き、達観したような気配を匂わせた。根岸さんの顔に刻まれたそれと、同じ匂いのする笑みだった。

「カナ?」

 もう一度呼ぶ。今度は不安と期待でなく、戦慄が胸の内にあった。それが声に出ないよう必死だった。そんな私に、カナは気づいただろうか。

「行っちゃったねぇ」

 カナは何でもない風に、淡く微笑んで私に顔を向けた。直前まであった、不吉な面影は影も形もない。

 気にならなかったわけがない。だけど、この判然としない不安を打ち明けて、答えが返ってくるのが怖い気持ちもある。私は小さく頷き、

「私たちも帰りましょう」

「うん。帰ったら、カナの髪も結ぼうね」

 言うと、カナは楽しそうに頷き返してくれた。それだけのことで胸のつかえが取れ、安心してしまう自分がいる。

 隠し事をするような引け目も、不安を先送りにするような後ろめたさもあった。それでも私は、自分たちならそう遠くないうちに、もっと打ち解けられるという自信もあった。きっと今は理解できないカナの態度も、明日明後日の私なら、きっと理解できるようになると。だから今は、手を繋いで同じ道を行く。それだけでいい。

 心の底から、そう信じていた。

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