3-3 大河内傑
「大変お待たせいたしました。お二人の『恋愛関係及び婚姻に関する特別法施行区域』への移住手続き、全て完了いたしました」
窓口で再度対面した係員の女性は、露骨に不機嫌そうな顔で私たちにそう言った。さっきのやり取りが余程気に障ったと見える。
預けていた個人認証カードを受け取る。それで、私たちは完全に『特区』の住人となった。その実感に、緊張と興奮が頭に降ってくる。身が引き締まるような感覚だ。
そんな私へと細い眼差しを向けながら、
「それと、お迎えの方がお見えになっております。『アパルトメント・すいせん』の管理人、
迎えと聞いたときには怪しんだが、名前を聞いた瞬間にピンと来た。アパートの名前に管理人の名前、どちらも事前に連絡をとっていた入居先のものと一致した。
それにしても出迎えとは予想外だ。少なくとも事前にそんな申し出はなかったし、こちらから頼んだりもしていない。そもそも本人なのかという疑問すら立ち上がる。私たちが『特区』へ来るのが今日だということは知っていても、時間までは知らせていない。厳密には、はっきりとした時間が分からない旨を伝えてあった。そんな状況下で、私たちの到着をこの場で待つという選択をするだろうか。
さらに遡れば、その大河内さんさえ信用に足る人物なのかどうか、これから見極めなければならない状況なのだ。
頷きつつも怪訝そうな表情を浮かべた私に、察するところがあったのだろう。受付の女性は小さく頷き返した後、「少々お待ちください」と告げてカウンターの奥へと引っ込んだ。そうして一分ほど経ってから、彼女は一人の男性を伴って戻ってきた。
「お連れ致しました」
と言う女性に続いて、
「やあ、初めまして」
と、こちらは存外爽やかな声の男性が、片手を上げて現れた。カウンターの外側へ出てきた彼は、私たちからは少し距離を置いて立ち止まる。
存外、などと思ってしまったのは、男性の見た目が原因だ。背はカナの同じくらい、男性としては低いだろう。腹は割と出ている方で、丸顔に無精ひげという風貌だ。率直に言ってしまえば、あまり冴えない感じではある。
歳はおそらく四十くらいだろう。ただ、浮かべた笑みはどこか人懐こそうな雰囲気で、声音と併せて彼の印象を見た目より幾分若々しくしている。
彼はいかにも上機嫌といった調子で、
「上杉紗良さんと、一緒に来るって聞いてた子だね。ようこそ『特区』へ。僕は――と自己紹介したいところだけど、こっちの方が確かかな」
軽快に舌を回していた大河内さんが、不意にポケットからカードを取り出して、こっちに見えるように軽く振る。個人認証カードだ。彼はそれを受付の女性に渡し、女性は傍らの機械に読み取らせた。短い電子音の後、液晶に映った情報を女性が読み上げる。
「確認しました。西区在住、『アパルトメント・すいせん』管理人、大河内傑様。間違いありません」
「ありがとう。他に何か、信用してもらうのに必要なことはあるかい?」
女性から返してもらったカードを、わざわざもう一度私たちの方へ掲げながら大河内さんが問うた。顔写真を見比べる限り、間違いなく本人のものらしい。他人のカードを出していたら女性が気づくだろうから、当然と言えば当然だけど。
なるべく私たちを警戒させないように、と気遣ってくれているのは肌で感じる一方、やはりそう簡単には警戒を緩められない。
「迎えに来て下さった、と聞いてますけど、手段は何です?」
私が問い返すと、彼は一度目を瞬いて、次いで感心したように顔を綻ばせた。
「ああ、連れ去りを心配してるのかな。ここへ来たのは車だけど、まだバスも走ってるからそっちでもいいよ。バス停からうちのアパートまで近いのは、先に送った地図を……いや違うな、それもこっちで出してもらったほうが安心か」
喋っている途中に気づいた様子で、一旦言葉を切った拍子に彼の目が再び受付に向かう。女性の方は微かに面倒そうな反応を見せたが、彼の要請を拒みはしなかった。淀みなくパネルの上で指を躍らせる。
が、私の後ろから一歩歩み出たカナが、片手を差し出しながら口を開いた。
「いえ、そこまで言ってもらえるなら信用します。改めて車を取りに来させるのも申し訳ないですし、送っていただいてもいいですかぁ?」
彼女の言葉に、私も意識して表情を緩めながら頷いた。
大河内さんは安堵の息を吐いた。それまでの私の態度に気を悪くした風もなく、
「そうかい? なら良かった。まぁ君たちからしたら、得体の知れない場所に見知らぬ人だ。気をつけるに越したことはないからね。ここまで迎えに来るのも、正直お節介かとは思ったんだけど」
と、彼はそこで初めて、少し気落ちしたように表情を曇らせて目を下に向けた。何かを思い出しているかのようだ。
「ただ、未成年、特に女の子は、よく出足で
「躓く?」
「雰囲気に呑まれて動けなくなってしまうんだ。そうして弱り切ったところを、悪意のある人間に狙われてしまう。珍しい話じゃないよ。君たちが警戒していたようなことは、現に起き得ることだ」
大河内さんが認める。それに、少しだけ背筋が冷たくなった。漠然と予想していたことではあったとしても、実例の存在を仄めかされれば以前より意識せざるを得ない。
彼の口ぶりは寂しそうだった。感情が表に出やすい人なのだろう、或いはそう装っているのかもしれないが。
「未成年の子が、直前で『特区』入りを思い止まることは少なくない。その場合、僕は待ちぼうけだ。だけど以前、うちに入居予定だった子が、『特区』に入ってからうちに着くまでの間に行方を晦ましてしまったことがあってね。あれ以来、外から来る入居者は必ず迎えに来ることにしてるんだ」
「……そうだったんですね」
私に代わって、カナが沈鬱な声で相槌を打った。私も今の話を聞いて、いい気分ではいられない。
大河内さんは回想しながら落ち込んでいるようだった。ちらりと受付へ視線を走らせると、女性の方も苦々しい顔をしている。彼の語る内容に心当たりがあるように見受けられる。
「気に掛けてくださってありがとうございます。それと済みません、疑うようなことを言ってしまって」
頭を下げて私が告げると、大河内さんは慌てた様子で手を振った。直前までの辛気臭さは拭い切れないものの、必死で繕ったという感じの笑顔をこちらに向けて彼は言う。
「それこそ気にしないでいいさ。むしろ感心したよ。ここに来て、きちんとそんな風に冷静に考えられるっていうのは、とても大切なことなんだから」
一転して朗らかな口調は大人の余裕を感じさせた。彼は少し時間をかけて、自身の表情から陰気の色を締め出すと、出会ったときのような笑顔を私たちへと向けて手を差し出した。
「改めて、『特区』へようこそ。これからの君たちの日々がより善いものになるよう、管理人としてできる限りのことはするつもりさ。初めは分からないことも多いだろうし、遠慮なく相談して欲しい」
「はい。よろしくお願いします」
手を握り返す前に一瞬躊躇したものの――嫉妬なのか、カナからの視線が痛かった――大河内さんと握手を交わしながら、私もそう返した。
大事なことを忘れていたことに気づいたのはそのときだ。彼の手を放した私は、ハッとして告げた。
「そうだ、忘れてました。これからお世話になります、上杉紗良です。それでこの子が――」
「――あっ、そうでしたぁ。小鳥遊香奈江といいます」
私の自己紹介にカナも同じことに気づき、ぺこりとお辞儀をしながら名乗った。大河内さんは面食らったようだったが、それでもすぐに立ち直り、私たちに笑いかける。
「上杉さんに、小鳥遊さんか。わざわざありがとう。僕の方も機械任せで、自分では名乗っていなかったね。大河内傑だ。よろしく」
私たちを順に目で追いながらそう言って短く頭を下げ、彼は踵を返した。すぐに続こうとする私たちに手を掲げて押し留め、
「じゃあ挨拶も済ませたことだし、車を回してくるよ。外は冷えてるから、もうしばらくここで待っていて」
と言い残して、小走りに外へと駆け出して行った。
残された私たちは、ふと顔を見合わせた。途端、カナが私の額を指で突いてきた。怪訝に思う私に、彼女は楽しげにも見える苦笑を浮かべて、
「もう、サラったらすぐ額に皺寄せて~」
「……そうだった? 自分じゃ気づかなかった」
「大河内さんは気づいてなさそうだったけど。良かったねぇ」
小さな声で呟き、クスクスと笑うカナ。自責の念とともに黙りこくった私を一瞥してから、カナは大河内さんの消えた方に視線を戻した。そして正面を向いたまま、傍らの私に囁く。
「まぁ、疑い過ぎても身動き取れなくなっちゃうから。あの人のことは、当面の間信用していいと思うわ」
「……うん、そうよね」
相槌とともに頷きながら、カナの横顔をそっと窺う。そして彼女の微笑を目にした私の脳裏に、喉に刺さった小骨のような違和感が走った。
カナの柔和なようでその実一本芯の通った意志を感じさせる笑顔は、いつも通りのものだ。だけど、纏う空気が少しだけ違う。違和感の大本がどこにあるかも見出せないほど微かだが、それでも何かが違う。冷たいような、もしくは毒をまぶしたような、得体の知れない危うさが滲み出るかのようだ。
咄嗟に、それを指摘するべきか悩んだ。だけど、それにしたって何と言うのか。何がおかしいのか、危ういのかを私だって分かっていないのに、何と言い出すべきか分からなかった。
凍りついていたのはごく僅かな時間だったと思う。結局、カナは私の逡巡に気づいた様子はなかった。代わりに、自動ドアの向こうを観察していた目が何かに気づいたように揺れる。私も正面に注意を移した。ちょっとくたびれたバンが、丁度停まったところだった。
「行こっか」
カナの顔がこっちを向いた。同時に、彼女をうっすらと取り巻いていた冷淡さが跡形もなく霧消する。
このときにまだあの違和感が残っていたなら、きっと問い質していただろう。けれどそうはならなかった。私は真にいつも通りの、私が良く知るカナの笑みが戻ったことに安堵しながら、首を縦に振っていた。
「うん、行こう」
応じた後、ふと思いついて手を差し出し、
「もう手を握っても、人目なんて気にしなくていいのよね」
「あーっ、そうだったねぇ」
カナも嬉しそうに歓声を上げ、すかさず私の手に指を絡めてきた。久しぶりの、我慢を重ねて耐えてきた感触に、勝手に口元が緩む。
ニヤける顔を正そうともせずに、私とカナは一緒に大河内さんの車へ向かった。
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