3-2 マイペースな電話相手
私とカナは、訝りながらも窓口の方へ向かった。
一緒に手続きをしていた私には何もなく、カナだけ、しかも「至急」とまで言うくらいだ。何かただならぬことが起きてるんじゃないか。そんな不安があった。
駆け足で窓口に辿り着くと、受付の女性が気づいてこっちを見た。手にはコードレスの受話器。それを見てピンと来た。恐らくあの電話はカナにかかってきたものなのだろう。
(いやでも、どうなの?)
状況からして他に考えつくものはなかったが、それでも私は自分の考えに疑念を抱いてしまう。あの電話の主がカナを名指ししたのだとしたら、どうしてカナがここにいることを知り得たのか。そして私たちがここにいることを知っている者が、どうしてこの窓口の番号を把握しているのかだ。
ひょっとしたら調べれば分かることなのかもしれないが、私が事前に『特区』について調べた段階では、入出窓口の電話番号なんて気づかなかった。誰もがすぐに辿り着ける情報ではないだろう。現に、受話器を手にした受付の人は明らかに困惑した様子だ。ここに外部から電話がかかってくるなんて、滅多にないことなのではないか。
そう思った私だったが、彼女の困惑の原因はそれだけではなかったらしい。カナに受話器を差し出した彼女は、抑えた声で告げた。
「あの……
「……はっ?」
思いもよらぬ名前に、私は愕然として横を見る。カナの方はというと、やはり全身を強張らせて硬い表情をしていた。
鳶山侑吾といったら、ミステリー作家として、また脚本家として名の通った人物だ。現役の国内の作家では五本の指に入るであろう知名度を誇る。そんな人とカナの間に、一体どんな接点があったというのか。
「って、まさか……」
恐る恐る受話器に手を伸ばしたカナを見つめ、私は気づいた。
逆だ。今カナがここにいることを知る人物は、限りなく少ない。私が連絡した正樹と日向、そこから口伝てに聞いた生徒や先生、せいぜいそこまでだ。そこから先へはまだ話は広がってはいないだろう。
だが、それとは別にもう一人だけ。
受話器を受け取ったカナは、私の方へ視線を投げかけてきた。驚きはしたものの、無言で頷き返す。そんな私に、カナは受話器のスピーカー部分の裏側を指さしてから、受話器を耳に当てた。察するに、私にも聞いていて欲しいということだろう。私は指示の通りにカナに身を寄せ、裏側から受話器に張りついた。
「……もしもし」
カナが電話口の向こうの相手に向けて、そう声をかけた。カナにしてはとても硬質で冷たい声。だけど聞き覚えのある声でもあった。彼女がこんな声を向ける相手は決まっている。
対する電話をかけてきた相手――鳶山氏は、確認するように返事をしてきた。
『香奈江か』
「何の用?」
低く落ち着いた男性の声だ。それにカナは直接答えず、素っ気なく問いを投げ返す。思えば、カナが誰かと、こんな冷たい調子で会話しているのを直接聞くのは初めてだ。得も言われぬプレッシャーが圧し掛かり、胃の辺りが刺すように痛む。
が、通話相手の反応は予想もしないものだった。初めは気のせいかと思うほど小さな声で、押し殺した笑い声が聞こえてきたのだ。カナが怪訝そうに息を呑んだのが分かる。鳶山氏の笑い声は徐々に大きくなり、最後にははっきりそうと分かるほど声を上げて笑っているのが分かった。
そして、
『いや、正直肝を抜かれた。まさかお前がこんな面白い選択をするとは、思ってもみなかったよ。娘のこととはいえ分からんものだな』
「面白い……?」
呟くカナの声音には、怒りよりも動揺が、さらには戦慄の色が濃く表れていた。カナの目線からしても、やはり彼の反応は想像の外のようだ。
他方、鳶山氏は構わず続ける。
『『特区』はある種の魔窟だ。苦しむことも多いだろうが、行ったからには少しでも多くの物を得てくるといい』
「言われるまでもないわよ、そんなの」
『そうか』
突き放すような口調のカナと言葉を交わしながら、鳶山氏の方はまるで堪えた様子がない。脳裏にぼんやりと、突っかかるカナを受け流す闘牛士然とした男性の姿が思い浮かんだ。
ここまで数度声を聞いて、何となくだが、鳶山氏の声に悪意がないように感じた。善意、とまで言えるかは微妙だが、少なくともカナや私たちを批難したり陥れようとするような喋り方、言葉の選び方ではないように思える。
憮然と口を閉ざしたカナの方も、私と同じような考えに至ったのかもしれない。そして彼女の沈黙をどう受け止めたのか、鳶山氏は短く息を吐いてから言ってきた。
『今後は何かと要り様だろう。お前の口座に幾らか振り込んでおいた。好きに使え』
「うぇぇ?」
いよいよ当惑も露わにカナが呻いた。
「ちょ、ちょっと、どうしていきなりそんな――」
『それはそうと、一人か?』
「え、いや違うけど……」
『なら連れはそこにいるのか? 代われ』
尋ねようとするカナの言葉を一方的に遮り、鳶山氏は矢継ぎ早に告げた。声音は決して強くないのだが、マイペースを崩す気配がまるでない、抗いがたい雰囲気があった。
困ったような顔で、カナが私を見た。私は微笑を浮かべながら頷き、受話器から耳を離して手を出す。それでもまだカナは躊躇したようだったが、私が差し出した手で受話器を握ると、それを私に委ねてくれた。
私は努めて平静を装いつつも、内心は激しく緊張していた。相手はカナの父であり、大作家でもある人物だ。緊張するなという方が無理だろう。また、敵愾心を持って対峙できる相手ならばともかく、ここまで聞いたカナとのやり取りからは、そんな印象も受けなかった。
それでも、対話を望まれて逃げるのは嫌だった。意を決して、私は受話器を耳に当てる。
「もしもし、お電話代わりました」
震えそうになる声を懸命に律して、私はそう切り出す。カナのときと違って、私に対してはすぐに返事はなかった。まるで品定めをするような沈黙が、スピーカーの向こうから返ってくる。
たっぷり十秒は空けてから、鳶山氏の声が返ってきた。
『ほう』
と、感嘆のような声に続いて、
『香奈江の父だ。世間的には鳶山侑吾で通っている。筆名だがね』
「はい」
私としては何に感心したような声を上げたのか気になったが、そこに踏み込むほどの気概は持てずにいた。他にどう応じたらいいかも分からず、適当に相槌を打つことしかできない。
鳶山氏はまたも楽しそうに鼻を鳴らしたらしかった。微かな風音に続いて、彼の声が聞こえる。
『君は、香奈江とは上手くやっていけそうか?』
これはまた、一足飛びな質問を投げかけられたものだ。受け止め切れず、私は短い間放心してしまった。どうにか気を取り直したものの、元から乏しかった気勢をさらに削がれてしまう。
「そうじゃなきゃ、ここまで一緒に来てません」
『ふむ、そうか』
返ってきた相槌は、心なしか先ほどに比べてつまらなそうに聞こえた。と言っても、私の気のせいだった可能性は高い。カナでさえ困惑していた様子だったが、私からしたら一層彼の心境を推し量ることは困難だった。
間合いを窺うような胸中の私だったが、鳶山氏はそれを知ってか知らずか――少なくとも気には留めず――さらに言葉を投げてきた。
『ロクに面倒を見たわけではないが、あれでも俺の娘だ。『特区』のような場所にはそこそこ馴染むだろう。足並みを揃えるのは君には難しいかもしれないが、頑張るといい』
「……どういう意味です?」
一際意味を計りかねる言葉だ。それでいて、妙に神経を逆撫でされる響きでもあった。自分の声が自然と険のあるものに変わる。さっきの私と同じように会話を聞いていたカナが、鳶山氏の台詞でなく、私の声を聞いた瞬間に不安そうに肩を跳ねさせた。
だが、結局彼は私と会話をするつもりがあったわけではないようだ。私の問いをスルーして、やはりしれっとしたトーンで言ってきた。
『それと香奈江にも伝えたが、あいつの口座に幾らか振り込んだ。これからの生活の足しにするといい』
「ちょっと、鳶山さん?」
『では失礼する。今後も続く限り、娘と仲良くしてやってくれ』
最後まで一方的に言いたいことを言って、通話は切れてしまった。後に残される無機質な電子音を聞きながら、私は嵐のようなひと時を終えて呆然としていた。
「……ええと」
混乱しながら、錆びついたような動きでカナの方を向く。元々ある程度の慣れがあるからか、私よりは早く冷静さを取り戻したカナは、私の視線を受けて肩を上下に揺らした。
「ごめんねサラ。正直、わたしだってあの人の人となりは未だによく分からないのよ」
「心配はしてくれてたんじゃない?」
「ハッ、まさか」
自信無げなトーンの私の台詞を、カナはあっさりと鼻で笑った。彼女は私の手から受話器を取りつつ、
「徹頭徹尾面白がってるだけよ、そこだけははっきり分かるわぁ」
それを受付の人に返したカナは、私の方を振り返って苦笑。私の察しの悪さを咎めるような笑みだ。
「ここの番号も知ってたみたいだし、『特区』の中のことも知ってるとでも言いたげな喋り口だった。てことは多分、ここへ取材に来たことがあったんだと思うわ。ひょっとすると、中に知り合いの一人もいるかもね」
「取材……」
「筆名って言ってたでしょ。一応作家なのよ」
――いやヒノモト屈指の有名作家を捕まえて「一応」とか言われても
直前までとは別の意味で唖然とした私だったが、カナは敢えて父親の知名度についてはそれ以上言及しなかった。代わりに、うんざりとしたような表情であらぬ方を見て、ぼそりと零す。
「下手したら、その人たちにわたしたちの様子、探らせるつもりかもね。まぁ、あくまで観察しかする気はないと思うけど」
「それは……ちょっと嫌ね」
カナの懸念を理解して、私もちょっと憂鬱な気分になった。もっとも、それが事実だったとしても気をつけようがない。せめて鳶山氏の知り得たことが、何かの間違いで私の父さんにまで伝わらないことを祈るより外になかった。まぁ、杞憂だとは思うけど。
そんな私たちのやり取りを聞いていた受付の女性が、そのとき躊躇いがちに口を開いた。
「あの、ちょっといいかしら?」
私たちの視線が、同時に彼女を捉えた。無言の私の隣で、カナは感情を排した声で問いかける。
「何ですか?」
「ひょっとしてあなた、鳶山侑吾先生の知り合い……もしかして家族だったりするの?」
「娘です。それが何か?」
二度目の返事は、なお冷ややかだった。対する女性は、自ら口にした問いにも関わらず、その答えが予想外だったとでも言いたげに目を剥いた。或いは信じられないのか。
「そんな……何でそんな子がこんなところに……」
うわごとのように呟きながら、左右を首に振っている。
さっき彼女は「鳶山侑吾先生」と言った。ということは鳶山氏のファンなのだろう。その親族と対面した偶然を喜ぶより、その人物が『特区』へやって来たことへのショックの方が大きいということか。よりにもよって関係者がこんな反応を見せるあたり、つくづく『特区』も嫌われたものだ。
愕然とした眼差しの女性に、カナは凍りつくような眼光を投げた。私も同じようなものだ。ここへ辿り着く前から、『特区』へ向けられた悪意はたびたび肌で感じている。今さら女性の顔色を窺う気はなかった。
「それを詮索するのがあなたの仕事なんですかぁ?」
それにしても、カナの言葉遣いは辛辣だ。直前まで父と言葉を交わしていたことが尾を引いているのかもしれない。カナの言葉に息を詰まらせ、受付の女性が恨めしげな顔をした。
私は敢えて彼女には言葉をかけず、ただ一瞥しながらカナの肩を抱いた。
「戻っていよう、カナ」
「そうね」
カナも私の手に自分の手を重ね、それ以上女性を相手にしようとはしない。再び待合室へと向かう私たちの背中に視線を感じないわけではなかったが、私もカナも難なく黙殺した。
受付から離れ、二人きりになった私たちは、さっき座っていたソファーに元通り収まった。途端、どっと疲れが降ってくる。がっくりと肩を落とす私を、カナが傍らで心配そうに見ていた。
「サラどうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫……とはいえ、戸惑いはしたわ。まさかあの鳶山侑吾と、しかもカナのお父さんとしてお話しするなんて思わなかったもの」
カナの方は私とは対照的に、疲労や緊張の欠片も見受けられない。疎遠とはいえ実父なのだから当然か。私の両肩に手を回して抱き寄せようとしてくるのに逆らわず、私はカナの身体にもたれかかった。
「サラも知ってたんだ、お父さんのこと」
「何冊か読んだわよ。結構好き」
「わたし以外の人に好きとか言わないで」
「本の話だからね?」
私の肩から背中に手を移したカナが、低い声で妙な言いがかりをつけてきた。彼女を抱き返しつつ念を押すが、カナからの返事はない。ただ、私を抱き寄せる力が一層強くなった。
冗談だろうとは思う。でももしかしたら、自分が理解できない父親に、私が関心を寄せるのが気に食わなかったのかもしれない。いずれにせよ、可愛い嫉妬だ。
「私が本当に好きなのは、カナだけだから」
抱きしめられるまま、カナの耳元に口を寄せて、私は囁いた。だが、そんな私の後頭部が軽く小突かれる。意表を突かれたところに、カナの声がする。
「それは嘘。一番好きなのはわたしでも、唯一じゃあないでしょ」
「……そうかも」
指摘に一瞬、記憶の中の何人もの姿が浮上した。それはすぐに泡となって消えてしまったが、きっと当分忘れることはないし、大切であり続けるだろう。言われてみれば当然のことを、カナの言葉が思い出させてくれた。つくづく、彼女には敵わない。
「ありがと、カナ。大好き」
カナの腕から逃れようなんて思えず、カナを放したいとも思えず、抱擁を交わしたまま私は呟く。一度ぴくりと身体を震わせた後、カナは私に深く体重を預けて尋ねてきた。
「へぇ。どんなとこが?」
「沢山あり過ぎて分かんない」
「あっは。狡ぅい」
子供っぽい口調なのに、どこか蠱惑的な声音だ。カナの吐息が耳を掠め、背筋がわななき熱くなる。押し付けられる上半身の熱と柔らかさを感じ、私は胸を高鳴らせながら、
「強いて一番好きなとこを挙げるなら、そうね……」
しばし間を空ける。期待するような深い吐息が、私の髪を揺らして首筋を撫でた。
私はカナの身体を押し返す。腕を絡めながら、背中に触れていた手を腰まで下ろす。カナの体重を支えながら、自分もカナに身体を預けるような心地で彼女の肩に頭を載せる。
そうして、私は答えを返した。
「私を支えてくれて、互いに支え合えるところかな」
「……これからも頼りにしてるね」
甘えるような頬擦りが返ってきた。少し前はこっちが縋るような体勢だったのに、わずかな間にそれも入れ替わっている。けど、実際私たちはそういう仲なんだと思う。どっちも相手に頼るし、どっちも相手を支えられる。そうしてこれまで一緒にいた。当然これからもだ。
「お互い様でしょ」
「ふふっ、そうだねぇ」
嬉しそうな声でカナが応えてくれるのが嬉しかった。
アナウンスが再び私たちを呼び出したのは、その少し後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます