三章 辿り着いた地
3-1 移住手続きの待ち時間
『特区』への入居手続きは、拍子抜けするほど簡単なものだった。
記入書類は最低限で、本籍地変更は個人登録番号を伝えれば自動でやってくれるとのことだ。ただ、処理自体は二時間ほどかかるらしく、その間はこの入出窓口に併設された待合室で待つように言われていた。
その際に渡された、『特区』に関する説明資料の冊子を開きながら、私はソファーに座る。すぐ隣にカナも腰を下ろした。
だけど、『特区』について知らないことは未だ多い。もうしばらくしたら、否が応にも未知の常識に捉われることになる。その前に少しでも多くのことを知っておきたかった。
知らなかったことはすぐに幾つも見つかった。まず、『特区』の住人として登録されれば特別な許可なしに外へ出ることは不可能だが、住人登録をしていなければある程度自由な出入りが可能という点だ。無論その許可を得る必要はあるし、長期の滞在はできないが、配送業や小売業者の配送係などは連日出入りしているようだ。内容が内容だけに、事前に調べていたときに気づくこともできたはずだが、見落としてしまっていたらしい。
だが、考えてみれば当然だろう。『特区』内に入ってくるのが住人だけなら、そもそも中の食料や雑貨は全て自給自足していることになってしまう。無論現実的には不可能だ。故に、それらを『特区』外から供給している者がいることは至極当然だし、それらの人々が一度入ったきり出られないのではお話にならない。無人配送が充実すればそうでもなくなるが、その未来はまだ遠そうだ。
その他にも例外はあるようだが、どのみち私たちの立場では、事前に中の様子を把握しておくことはできなかった。そういう意味では、これまで見落としていたところで問題があったわけではない。
他にもある。『特区』においては同性婚が認められている。これは当然既に知っていたことだが、あくまでこの婚姻が有効なのは、両者の本籍が『特区』にある場合に限られるということだ。確かに以前確認した限りでは、『特区』の基盤となっている『恋愛関係及び婚姻に関する特別法』では、結局のところ「婚姻に関して特別な規則が適用される区域の設置を許可」しているに過ぎなかった。そして、婚姻に関しては改めて『特区』の条例で規定されている。恐らくはそれが原因だろうが、『特区』内外のどちらにいようとヒノモト国民という点においては変わらないはずでは、という疑問はある。そのあたりは何らかのからくりで誤魔化してあるのだろう。そもそも住人を『特区』から外に出す気がない以上、あまり関係がないとも言えるが。
性別を、自身が認識する性に改めることができるという点も同様に『特区』内に限定されている。こちらはさらに、医療機関でのカウンセリングを複数回受け、お墨付きをもらう必要がある。自己申告だけで容易に性別を入れ替えられたら、悪用する輩がいそうで不安というのはあるが、この国が元々こういった措置に後ろ向きだった背景を考えると、一体それだけの配慮がされていることか。少なくとも、同性との結婚とは比較にならないほどハードルは高いだろう。
「……ね、サラ。わたし、これ気になったんだけど」
「どこ?」
と、億劫に嘆息した私の手元に、横からカナが手を伸ばしてきた。カナは二度ページをめくり、現れたページの一点を指さす。私も注意深くそこにある文章を目でなぞった。
――当事者間で互いを恋人同士であるとする見解を共有するとき、第三者はそれを退けてはならない
まどろっこしい文章に多少手こずったものの、私はその内容を理解することができた。
「ええと、要は、誰かが「私たち恋人同士です」って言ってたら、他の人はそれを否定しちゃいけない、ってことよね」
噛み砕いて言葉にしつつ、私はカナを見た。
なるほど興味深い一文だったとは思う。ただ、カナがこれを気に留めた理由を、私はまだ掴み切れていないような気がした。だから、視線で尋ねかける。
果たしてカナは、薄い笑みを見せた。あまりに淡くて、芯になっている感情がいまいち読み取れない表情で頷く。
「そういうことだと思うわぁ」
そう応え、しかしその表情は変わらない。むしろ少しだけ
「三人でも、四人でもね」
「あっ」
指摘されて、私は初めてその可能性に思い至った。慌てて再度同じ文面に目を走らせるが、確かにカナの言う通り、人数に関する記述はない。年齢についてもだ。気になって『特区』住民登録の条件に関する内容も探したが、「ヒノモト国民である」以上の条件はなかった。
もう一つ引っかかったのは、同意の確認の仕方についても記述がないことだ。もし単純に口頭での確認となるなら、さらにその確認を行う条件次第では、何らかの手段で同意を強要することもできてしまいそうだ。
ぞっとした。
楽園でないことなんかとっくに覚悟していた。今までの常識が通用しない場所であることも。だけど、こうして身近に起こり得る危険に気づいて――そして事前にそれに気づけていなかったことを理解して、背筋が凍る思いだった。
私はこの先カナを、自分たちの生活を守っていけるのだろうか。
「サラ、深刻に考えすぎ」
コツン、と横から頭を小突かれた。虚を突かれたせいで、一瞬思考が真っ白になる。直前までの悲観的な悩みが洗い流され、代わりにカナの優しい声が染み入ってきた。
「『特区』だって無法地帯じゃないんだから。わたしが言いたかったのは、信じられないものを見ても否定しちゃ駄目だよ、ってこと。サラ、そういう不意打ちに弱そうだから」
「……そうかもね」
そのままぎゅっと腕にしがみついてくるカナの髪に、私はもう片方の手で触れた。絹糸のような髪に何度も指を潜らせていると、次第に緊張が解れてくる。
こんな風に時折、自分が無意識に強がっていることを感じることがある。それとはアンバランスに脆いことがあることも、自覚する機会は何度かあった。そしてそのたびに、カナが支えてくれた。今もそうだ。だから私は、こうしてここまで辿り着けた。
私にとって、カナはいなくてはならない存在だ。そして、カナにとっての私もそうであって欲しいと切に願う。
ぐぅぅぅ、と、前触れもなくお腹の鳴る音がした。
「……お腹減ったねぇ」
「私も。何か食べようか」
恥ずかしそうにはにかんだカナに、私も頷く。
待合室は無人だ。だが隅の方には幾つもの自販機が並んでいる。飲み物だけでなく、食べ物の自販機もあった。カップ麺や袋パンはよく見かけるが、焼きおにぎりやホットサンドまで売っているのには少し驚いた。のみならず、
「見てサラ、うどんの自販機まである」
「うわ、本当だ。初めて見た」
噂にしか聞いたことのなかった珍品を前に、私とカナは一緒に目を丸くして口々に呟き、何とはなしに見つめ合う。そしてどちらからともなく笑いあった後、私たちは揃って自販機のうどんを買った。
スチロールの器に注がれたつゆから湯気が立ち上り、出汁の香りが漂う。味は思っていたより良くて、それ以上に懐かしさを覚えた。ほんの数時間前までいた本土と今いるこことが、同じ世界、同じ国にあるのだと実感する味だった。
「落ち着く味ね」
私がそう漏らすと、カナは小さく頷いた。ただ、彼女の表情はどこか全面的な賛成を拒むような雰囲気だ。一体どうしたのだろう、と思ったが、すぐに思い当たる。
「ひょっとして、お昼と比べちゃった?」
「あはは、分かっちゃった? でも、落ち着くっていうのは何となく分かるわぁ。今日のお昼はあくまで特別だったし、これは食べ慣れた感じよね」
「そうね。味も、シチュエーションも。きっとあれ以上のものにはなかなか出会わないと思う」
しみじみと呟く。だけど、今はもう寂しくは感じなかった。カナも同じらしい。さっぱりした雰囲気の微笑みを見せてうどんを啜っていた。
その器が空になる頃、ふと思い出したようにカナが顔を上げて私を見た。
「そうだ。『特区』の中からじゃ、電話やトークアプリが外に繋がらない、っていうのは読んだ?」
初耳だった。首を左右に振る自分の顔が、少し強張っていたのが分かる。カナは麺を啜り終えると、苦笑を浮かべて肩を落とした。
「サラはあの冊子、ページ順に読んでいくだろうと思ったから、わたしは後ろの方から読んでたんだ」
「……流石。頼りになるわね」
私の癖を見透かした行動に、ちょっと嬉しくなりながら私はそう言った。得意そうに笑うカナから、件の冊子へと私は視線を移す。言われた通り後ろの方から斜め読みでページをめくっていくと、それらしい記述を見つけた。
――なお、申請のあった業者向けに優先的に通信回線を解放しているため、一般の利用者の方々からは、『特区』外との通信が繋がりにくいとのお声を頂いております。現在、小容量のテキストメッセージ以外は『特区』外との間での送受信が困難な状況を確認しております。音声通話やSpaceなどの無料通話アプリ、Rineなどのトークアプリを使用した通信については、現在対応しておりません
「何て言うか、下手な言い訳ね」
思わず変な笑いが漏れる。同意の視線を返してくるカナも、口元には皮肉めいた曲線が刻まれている。
確かにこれでは『特区』に関する情報が外に出て来ないはずである。普通に考えて意図的な情報統制だろうが、目的に関しては明らかなことは分からない。
実害、という点で見れば大したことはない。むしろ父やクラスメイトたちからひっきりなしに電話がかかってくる方が厄介だ。むしろさっきから不自然に携帯が沈黙している理由がはきりした。
ただ、だからといって無関係と言い切ることはできない。そうする理由によっては、まだ何か別の危険が潜んでいるということにもなりかねないのだから。
「……ところで、カナは誰かに連絡はしたの? 『特区』に入ること。私は正樹と日向にだけは伝えたけど」
疑問は尽きないものの一旦棚上げして、私はもう一つ気になっていたことを尋ねてみた。
ちなみに私は父には伝えていない。本籍地変更に伴って、その旨を以前の住所に書簡で通達してくれるというので、それに任せることにした。カナも同じことをしている可能性は十分あったが、彼女は私の疑問に対して首肯を返した。
「お母さんには、連絡しても不愉快なことにしかならないだろうと思って伝えてないけど、一応お父さんにはメールだけ送ったわぁ。あの人、家族のことにはまるで興味なかったから、良くも悪くも面倒な反応はしてこないだろうなって思って」
唾棄するような声は、カナが両親の話をするとき特有の、疲労を感じさせるものだ。ただし、これまでと比べると少し余裕が感じられるような気もする。私が安堵したのが伝わったのか、カナは口元を和らげて、
「最後の挨拶くらいはしておこう、って気分になれる程度には落ち着いてるわ」
「うん、私もそんな感じ」
私も相槌を打って頷いた。微笑み返すカナを見ていると、やはりここも悪いことばかりではないと実感できる。今後への不安に、同じものへの期待が並び立つ。両方の重みを背中に感じ、それでも私は恐怖を感じずにいられるようになってきた。
手続きはまだかかるだろうか。そんなことをぽつりと思い浮かべた瞬間、折しも待合室のスピーカーから声が響いた。
『小鳥遊香奈江様、小鳥遊香奈江様。至急、受付窓口までお越しください。繰り返します――』
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