Interlude02 正樹と日向の場合(後)

 ガキの頃の俺といったら、周りから馬鹿にされることばかりだった。

 チビ。女男。生意気。こいつ本当は女じゃないのか。モヤシ。近寄るな。女が感染うつる。女同士で遊んでろ。俺に浴びせられる言葉は、いつもそんなのばかりだった。

 だから俺も必死だった。男に見られようと必死だった。ところ構わずやんちゃをして、ときには物を壊すこともあった。スポーツも頑張った。野球だけじゃない、サッカーもバスケも人並みにはできるように練習したし、足だって速かった。速くなるように鍛えた。他の男たちと同じように。他の男たちよりも男らしく。

 何より、女子とは全くつるまなかった。男子と女子が反目している場面を探しては、すぐにも男子の方に肩入れして、相手と激しく言い争った。たとえ、俯瞰的に見れば女子の言い分が正しくてもだ。涙ぐましい努力の甲斐あってか、中学に入る前には馬鹿にされることも少なくなった。

 そんなとき、上杉と出会った。

 あいつはその頃女子たちのリーダーというか、顔役のような立場だった。気丈で、男子と一歩も引かずにいがみ合う姿を何度も見かけた。そんなあいつに、男子の何人かはむしろ及び腰になるくらいで、俺はそれを見てチャンスだと思っていた。

 他の連中がビビるような上杉に、俺が挑んで打ち負かしてやるのだ。そうすれば、未だに俺を女男だのと馬鹿にしている奴らも黙るだろう。そんなことを目論んで、俺は上杉に喧嘩を吹っ掛けた。

 結果だけ言えば、五分五分だった――に違いない。少なくとも、何度あいつとやり合っても、「二度とごめんだ」とは思わなかった。だからきっと、負けてはいなかっただろう。けど正直、勝敗なんてどうでもよかった。

 どんなにお互い熱くなっても、あいつは俺をチビとは言わなかった。女声ともモヤシとも言わなかった。男でも女でも、俺と喧嘩になったヤツは二言目には必ず吐いた罵倒の言葉を、あいつだけは言わなかった。あいつが俺を責めたのは、俺が何をしたかということだけだった。

 嬉しかった。初めてだったんだから。最初から俺を認めてくれているようで、俺の望みを知ってくれているようで、上杉とのやり取りは、心から安らげる時間だった。

 だけど結局、あいつは俺とは違った。いや、俺が上杉とは違った、と言った方が、この場合は適切か。


 俺は同性愛者というものが嫌いだった。

『特区』が形だけの平等を謳うものの中でも、身体と心の性別が一致しないって人たちのことは、いい。自分じゃどうしようもないことに苦しんでいるのは分かるし、救われるべきだとも思う。その救済として『特区』が必ずしも適切じゃないことも分かってる。

 だが同性愛者はどうだ。例えば男なら、身体は男、心も男。そこに齟齬はなく、周りだってそれを当然に認めてくれる。なのに、どうしてわざわざ同性を好きになるのか。そんなことをしなければ、誰に後ろ指を指されることもなく、普通に暮らしていけるのに。

 身体と心と、そして周囲が認める性別がきちんと一致することがどれほど価値のあることか、俺は身を以て知っていた。分かろうとしない奴が憎かった。手に入れたものを自ら放り出すような連中が許せなかった。

 なのに、上杉は『特区』が自分たちに必要な場所だと言った。

 小鳥遊と手を繋いでいるのを見たときには、微かな違和感があっただけだ。だが、指を絡めていたところを見たときには我が目を疑った。そして、人目を忍んで自習室へ向かうのを目にして、気づかれないように部屋の外、窓に影が映り込まないよう身を伏せて室内での会話を盗み聞きしたときには、疑念は確信に、不安は諦観に変わった。

 何か大きなものが、自分の中からごっそり消えたような感覚だった。

「俺は多分、上杉のことが好きだった」

 もう一度口に出す。溢れ出るがまま自然に紡いだ言葉は、意識するまでもなく過去形になった。

「けど、もう終わってんだよ。昨日今日の話じゃない、もっとずっと前に終わってたんだ、告白なんて、するまでもなく」

 声に自嘲が混じる。冷めきった自分自身の想いを直視するほどに、胸に空いた穴を隙間風が走り抜けていく。

 結局俺は、自分を曲げてまであいつを好きであり続けることを選べなかった。かといって、あいつに思い直すよう迫ることもできなかった。

 もし俺が性別にまつわる拘りを捨ててしまえるような人間なら、そもそも上杉に救われることはなかったはずだから。

 どんなに上杉の決断が俺にとって認めがたいものだとしても、きっとその根源にあるのは、かつて俺を救ってくれた優しさだと分かっていたから。

 だから、これはもう終わった恋だ。その証拠に、あいつらがいなくなってから今まで、俺は涙の一つも流せていない。その事実に、一層自虐的な気持ちが去来した。

「ああ、そういや聞かれてたな。「何で行かせたのか」だっけ? 決まってらぁ。好き『だった』からだよ」

 嘆息とともに言葉を吐き出し、一部を強調した俺は、力なく首を振る。

 かつての気持ちも、今の思いも、誰かに語ったのは初めてだった。そのせいだろう、今更のように喪失感が雪崩を打ってやってきた。自分が失くしたものの大きさを知らしめるように、軋みを上げて胸が締めつけられる。

 どうしようもなかったはずなのに。そう結論づけたのは俺なのに。それでも俺は、これ以上俺自身の何を責めようというのだろう。皮肉の切っ先が自分の胸元に突き刺さる。膿むような痛みに口の端が歪んだ。

 俺の語りに耳を貸しながらこっちを睨んでいた雛見は、何かを吟味するかのように細い目をして黙っていた。が、唐突にこいつは、やれやれと言わんばかりに大きな溜息をつき、

「嘘つき」

 罵倒の言葉を吐いてきた。だが言葉とは裏腹に、その声音は穏やかで、どこか労わるような響きがあった。

「未練ありまくりじゃないか。終わってなんかいないじゃないか。顔にはっきり書いてあるよ」

「馬鹿言え、何でお前にンなこと……」

「正樹が分かりやすい顔してるのが悪い」

 鼻で笑おうとした俺の言葉が、理屈も何もない言い分に押し潰された。流石に呆気に取られて黙った俺に、雛見は薄く笑いかけてみせる。幾らか精気を取り戻した表情で、憎たらしい含み笑いが漏れ聞こえてきた。

 その雛見が眉尻を下げる。俺に向けられた眼差しは、やはりいつものからかい調子のものとは違う。かといって、さっき見たような怒りに燃える瞳とも勿論違う。今にも泣き出しそうに揺れる輝きを瞳に宿しながら、俺の目を一心に覗き込んできた。

「好きだから行かせたんだね」

「ああ?」

 そうかと思えば、今度はそんなことを言い出した。俺が顔を顰めて呻くのもお構いなしに、雛見は泣きそうな顔のままで続ける。

「邪魔したくなかったんだろ? 自分はついていけないところを目指す紗良ちゃんを、自分の傍に引き留めるんじゃなくて、送り出してあげたんだろ? 紗良ちゃんのことが好きだから」

「…………」

「それでいいじゃない。「終わって」るんだとしてもさ、それでも紗良ちゃんのこと、好きなままで」

 紡がれる雛見の言葉を、俺は幾分落ち着いた頭で反芻していた。

 今度のこいつの台詞は、どの程度的を射ているのだろう。指摘されているのは自分の気持ちのはずなのに、その実感さえないほど曖昧だった。

 きっと、終わったと思ったそのときから、考えることを手放してしまったからだろう。今の俺がまだ上杉を好きなのか、もう好きではないのか。かつて好き『だった』ことは確かでも、今なお好き『である』かは、自分でも分からない。どうでもいい。

 まぁ確かに雛見の言う通り、今も好きなままだったとしても、別にいいのかもしれない。

「……ハァ。ま、お前がそう思いたいんなら、勝手にそう思ってろよ」

 投げやりに応えて、俺は鼻を鳴らした。皮肉なことに、さっきまであったはずの胸の痛み、自虐的な衝動は綺麗さっぱり消えている。業腹だが、こいつの戯言にもそれなりの意味はあったらしい。

 雛見は自分の両目をそっと拭う。まだ赤さを残した目で俺を見つめると、その手をまっすぐ伸ばしてくる。

「ごめんね」

「今度は何だよ?」

「さっき、叩いちゃったから」

 いきなり何だ、と身構える俺に、雛見が告げたのはそんなことだった。警戒を解いて肩を落とした俺の頬――さっきこいつが思いっきり張ったところに、雛見はそっと触れてきた。

「大したことじゃねぇし、昼間の仕返しだと思っとくよ」

 苦笑し、俺はやんわりと雛見の手を払う。いや、払おうとした。手の甲で腕を押してみたものの、雛見の手は糊付けしたかのように剥がれようとしなかった。

 どういうことだ、と疑問が灯る。だが、一度緩んだ警戒心が再び帯を締めるのには、少しばかり時間がかかった。その間隙を突いて、雛見が滑るように近づいてくる。

 右手をぴたりと俺の顔に添えたまま、僅かに傾けた身体ごと、その顔が俺に迫る。ぎりぎりまで近づいて、離れる。俺の危機感が立ち上がったのは、その全てを認識してからのことだった。

 遅れて、唇に残った感触に気がついた。一瞬だけ感じた温かさと柔らかさ、啄むように吸われた感触、それと仄かな甘さ。

 瞬きをするたび、瞼には直前に見た雛見の顔が蘇る。うっすらと覗いた瞳の色と、そこに光る照明の照り返し。額に薄く浮いた汗、髪の一本一本が揺れる様までくっきりと思い浮かび、そんな近くにこいつの顔があったことを思い知った。

――いや、何でそんな目と鼻の先に、雛見の顔があったんだ

――というか今、何が起きた?

「……何か言えよぅ」

 声が聞こえてきて、慌てて眼前に焦点を結ぶ。座布団の上にぺたんと座った雛見が、上目遣いに俺を睨んでいた。涙は乾いたはずの双眸は、何故か未だに熱っぽく潤み、それでいて妙に剣呑な鋭さを窺わせている。尖った唇は見るからに拗ねている様子だ。そして何より、顔色は茹で蛸もかくやという調子で真っ赤になっていた。

 直前の疑問を放り投げて、俺はまじまじと雛見の全身を観察していた。俺の視線を浴びて、雛見が窮屈そうに身体を揺する。こっちを睨む眼光が一層不穏さを増したような気がして、ようやくこいつがさっき言っていたことを思い出した。

 と言っても、「何か言え」と言われても。

「……なんで?」

 自分でも何の理由を問うたのかすら分からない、間抜けとしか言いようのない台詞を、このときの俺は臆面もなく吐いた。

 雛見の反応は覿面だった。目を見開いたかと思うと、光っているかと思うほど顔が赤みを増し、しかしすぐに俺が何を理解していないのか納得したように真顔になって、一転して白けた眼差しを突き立ててきた。

 強張っていた肩を大きく落とし、聞えよがしな溜息をつきながら、

「馬鹿。鈍感、ヘタレ、ゴミ」

「ゴミ!?」

 およそ人に向けていいものではない形容に、ついそこだけ反応してしまった。

 だが、それが狙いでもあったらしい。俺が叫んだ瞬間、雛見は直前までの陰険な表情を吹き散らして相好を崩した。小さく笑い声を零して、その場でゆっくりと立ち上がる。

 咄嗟に動けない俺を見下ろしながら、雛見は呆れの混じる声で言った。

「ボクが今日、正樹と二人きりでいた理由なんて、一つしかないよね?」

 その声に、不覚にも背筋が痺れた。

 いつも聞いている雛見の声だ。聞き慣れた、何て事のない声。そのはずなのに、このとき俺は何故か殊更に、こいつが女であることを意識させられてしまっていた。

 手足を絡めとられたように身動きが取れない。顔だけ向けて、俺は雛見の動きを追うことしかできなかった。雛見はテーブルから隣の部屋のキーを取り上げつつ、ちらりと俺の方を向いて、すぐに目を逸らす。はにかむ横顔が、まるで別人のように見えた。

「すぐに返事が欲しいなんて贅沢なことは言わないよ。紗良ちゃんのことだって、すぐに吹っ切れるなんて思わないしさ」

 勿体ぶるような足取りで、ドアの方へと歩いていく雛見。次第に離れていっているはずなのに、声ばかりななお近く、むしろ一層近くさえ感じられる。

 耳元で囁かれるようなくすぐったさと、鼻先を掠める蜜のような甘さ。すべて錯覚のはずなのに、俺の脳はその錯覚を、まるで事実のように受け入れていた。

 雛見が振り返る。幼い顔に細い笑みが刻まれる。それは今まで見たことのない、それなのに何故か欠片も違和感のない、ひどく艶めいて妖艶な笑みだ。その自身の唇に、雛見は指を立てて触れさせた。

 そして、今までで一番頭に響く声で、俺に向けて囁いた。

「だけど――ファーストキスは返してやんないから」


 思えば、変わったヤツだと思う。

 自分のことを「ボク」と言い、言葉遣いもガキみたいな体型も男だか女だか分からないような感じなのに、何故か誰も彼もが女子だと自然に認めている。それが雛見日向という人間だった。

 今にして思えば、羨む余地はあった。けど俺は一度もそんなことを感じたことはなかった。ひょっとしたらそれは、雛見がいつも俺と肩を並べて同じ場所に立っていてくれたかもしれない。

 そんな奇妙なヤツが、俺の彼女を名乗るようになるのは、まだ少し先の話だ。

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