2-5 昼食の席にて

 ぐつぐつと鍋の煮える音。立ち上る湯気が、食欲をそそる香気を漂わせている。色とりどりの具材がスープの中で踊る光景に、四組の双眸が星のように輝いていた。

「すごい、美味しい」

「いい香りだよねぇ……」

「ああ、たまんねぇな。期待以上だぜ、こいつは」

「ホント、来てよかったね~」

 私たち四人は、手元の水炊き御膳を各々味わいながら、思い思いに感想を述べた。

 フクオカに着いた翌日。今日は一日、事前に作った班ごとに分かれての班行動だ。私たちは他の班よりも少し早めに、駅近傍のグルメ街へとやってきていた。

 班行動といっても、好き勝手に色々なところへ行けるわけじゃない。ここから少し離れた、徒歩で真っ直ぐ向かえば三十分くらいの場所にある神社まで、思い思いに寄り道をしながら辿り着くというのが今日の予定だった。とはいえ、集合時間は十五時半。かなり時間に余裕があることは間違いない。

 十一時過ぎ、開店直後と言っていい時間帯に、あらかじめアタリをつけておいた店に入った私たちの他に、店内に知り合いはいない。一方で、早くも席は埋まりつつあった。この分だと、食事中に知り合いと出くわすこと自体無さそうだ。

 私はそんな状況を、軽く視線を巡らせて見て取った。何とはなしに、自習室に入るときのことを思い出してしまう。

 他の三人は意識を完全に鍋に持っていかれていた。かく言う私にしても、絶品の水炊きを前に、それまで頭を占めていた不安や葛藤がだいぶ薄れていた。

 この後の段取りまで飛んでしまうと、流石に困るけど。

「こう香りがいいと、もう一押しって気分になるよね~。ここらで熱燗をキュッとさぁ」

「アツカン?」

「温めた日本酒だよ……ってか雛見テメェ、ロクでもないこと考えんなよ。俺たちまとめて説教コースなんて御免だからな」

 日向が、お猪口を傾けるようなジェスチャーとともに、なにやら女子高生らしからぬ願望を口にした。耳慣れない単語に疑問符を浮かべたカナに解説しつつ、正樹は渋い顔で日向を睨む。昨日の電車の中でのことを思い出しているのかもしれない。

「正樹ってそのあたり、意外と真面目よね」

「っていうかビビリなんでしょ。常識的に考えて、このカッコで頼んだって断られるに決まってるじゃ~ん」

 つい口を挟んでしまった。苦笑の体で、その実からかいの混じる私の声に続いて、鶏肉を摘まみ上げながら日向も言う。

 言葉通り彼女も、また私たちも、昨日に続いて制服姿だ。確かに成人がセーラー服や学ランを着てちゃいけないわけではないとはいえ、真っ当な店ならこの服装の客に酒は出さない。

「昔はもっと向こう見ずだったけどね。ルールがあったらまず破る、的な。まぁ後から怒られて、そのたびに青い顔してたけど」

「へぇ~。少しは成長してるんだ。正樹なのに」

「そうなのよ。正樹なのに」

 場所を考えてのことか、はたまたやはり昨日の経験がブレーキになっているのか、正樹は怒りに肩をわななかせながらも、押し殺した声で唸るに留まった。いつもと少し様子の違う正樹が何だか可笑しくて、つい私は日向と一緒になって、彼の神経を逆撫でし続けた。

 堪える正樹が犬にでも見えたのか、遂にはカナまでも、その頭を撫でつつ「よしよし」と宥め始める。

「どうどう。落ち着いて~落ち着いて~」

「小鳥遊……お前まで喧嘩売ってんのか?」

 短い髪をわしわしと掻き回されながら、一層顔色を赤くしていく正樹。そんな彼に、日向がさらに畳みかけた。

「何言ってんだよう。カナちゃんのナデナデなんてすごいレアだよ。ボクだって一度もしてもらったことないんだから」

「なっ、いや、だからって……」

 日向に言われた途端、正樹の気勢が一気に鳴りを潜めた。

――さてはこいつ、ちょっと冷静になったらカナに触れられてるのが嬉しくなったな

 顔の赤さはそのままに大人しく肩をすぼめた正樹の姿が何となく気に障った。私はテーブルを挟んで対角線上にいる正樹の方まで身を乗り出し、手を伸ばす。カナの手を優しく払ってどかし、

「へぇー、撫でて大人しくなるなら私もやってみようかな。ほーらよしよしよし」

 カナの代わりに正樹の頭に手を置いて、頭を撫でる。途端、正樹がぎくりと肩を震わせて身を竦めた。俯き気味に目を逸らしながら、小刻みに身体を震わせる姿は、徐々に怒りを溜め込んで爆発させようとしているかのようだ。

 流石にほどほどにしておくか、と私が手を引きかけたところで、今度は正樹の隣から、

「じゃあボクもー!」

 彼の肩に抱きつくような勢いで日向が飛んできた。思わず私が手を放すと、日向は何度か正樹の頭を乱暴に撫でた後、片手を差し出し、

「ヘイ正樹、お手」

「じゃねーだろッ!!」

「へぶッ!?」

 ぺぇん! と日向の頬が、いやに景気のいい音を立てた。正樹が手首のスナップだけで器用に放ったビンタが、日向を直撃したのだ。

 痕が残りそうな一撃には見えなかったが、日向は張られた頬をすぐに手で覆うと、よよよと泣き崩れるようなポーズで椅子の背もたれに寄り掛かる。

「ひ、酷い……女の子の顔を思いっきり叩くなんて……正樹の鬼畜~」

「あぁ……まぁ、うん。悪かった」

 対する正樹も、手を挙げたのはやりすぎだったと思い立ったらしい。さっきまでの怒りを雲散させ、バツの悪そうな仏頂面で日向の方を見ていた。何となく居たたまれなくなり、私も日向と正樹へ交互に視線をやりながら言う。

「私も無責任に煽り過ぎたわ。ごめん」

「わ、わたしも」

 隣では、私以上に申し訳なさそうな顔をしながら、カナがぽそりと漏らした。

 ぐす、ぐすとわざとらしく鼻を鳴らして、日向はなかなか顔を上げようとはしなかった。沈黙が重い。肩にのしかかる無形の重石に、だんだんと辟易し始める。

 そんな折、日向は未だに頬を隠したまま、横目で私たちを見回した。

「本当に、悪いと思ってる……?」

「う、うん、まぁ……」

「それなりに……」

 どことなく不穏な雲行きになってきた。正樹も私と同じような不安を感じたか、口の端をひくつかせながら曖昧に肯定の言葉を返す。カナも察した様子で、私たちの態度に口を挟みはしなかった。

 一方、日向は突如として元気を取り戻し、

「じゃあさじゃあさ! さっきのお土産屋さんにあったお酒、あとでこっそり買って――」

『調子に乗るな』

 期せずしてハモった私と正樹のチョップが、日向の頭頂部に吸い込まれた。


 シメのうどんを食べ終えて、誰からもなく手を合わせ、御馳走様をした。

 あとはお勘定をして、お店を出ることになる。タイミングを見計らうべく、私はごくさりげなくカナに、次いで正樹に視線を送る。カナの方は訳知った調子で無反応。正樹も、私にだけ分かるような目礼で返事をした。

 私たち三人のやり取りなど気づいた様子もなく、そのとき不意に日向が立ち上がった。

「お会計の前に、ちょっとお手洗い行ってくるね」

「分かった。行ってらっしゃい」

 そのまま軽い足取りで席を離れる日向に手を振る傍ら、私はもう一度二人に視線を送る。さっきより鋭く発した無言のメッセージに、今度はカナも小さく頷いた。

 日向の背中が見えなくなるや否や、私たち二人はいそいそと財布を取り出した。自分たちの分のお金をテーブルに置きつつ、

「じゃ、私たちは今のうちにどっか行ってるから。あとは上手くやりなさいよ」

「ヒナちゃん、ちゃんとエスコートできるといいね。栄生くん頑張って」

 なるべく潜めた声で、私とカナは激励の言葉を投げかけた。正樹は憮然とした表情で「うっせぇ」と手を振ったが、わずかに紅潮した顔に気づかない私ではない。

 あの日。

 カナの母親が、カナをお見合いさせようとしていると知ったあの日。私たちがこの修学旅行中の『特区』行きを決意したあの日の帰り道。正樹に持ち掛けられた相談がこれだった。

 班行動の最中に、正樹と日向を二人きりにすること。そのために、私たちは日向がこの場を離れた隙に、姿を消そうとしていた。

 日向に怪しまれないためにも、一刻も早く立ち去らなければならない。自分たちの計画のためにも、この機を逃すわけにはいかない。そう分かっているはずなのに、一方でこの時間をどうにかして引き延ばそうとしている自分がいることにも気づいた。

 だってきっと、正樹と会うのはこれが最後なのだ。

「……えっと」

 席は立った。荷物も持った。後はこのまま踵を返して、早足で店を出るだけ。それだけのことなのに、それ以外のことをしている暇なんてないはずなのに、それでも言葉を探してしまう。一秒、二秒、無為に時間が過ぎる。立ち尽くす私に、気のせいか、正樹が怪訝そうな顔をしたような気がした。

 そんな私の肩を、カナが優しく叩いた。

「じゃあ栄生くん」

 彼女は私と同じく荷物を背負って、正樹の方へ微笑を向けると、

「またね」

「おう。もう行けよ」

 私たちを追い払うように、再度手を振る正樹。カナは小さく苦笑して、私の肩を引いた。

 唐突に肩の力が抜けたような、何がが腑に落ちたような感覚が降ってきた。

 そうだ。私たちはまた会うんだ。少なくとも表向きは、数時間以内に。なら、別れを惜しむ権利なんて私にはない。

 カナの手に従って、私はくるりと反転した。背中に荷物を背負いながら、

「じゃあね正樹。また後で」

 肩越しに正樹の方を振り向くと、彼は言葉の代わりに片手を軽く上げた。少しだけ肩を上下させた私は、今度こそ彼に背を向けて歩き出した。

 きっと――そんな予感が脳裏を過る。

 きっと私はこの先、この別れを何度だって思い出すだろう。

 でもそれでいい。たとえ二度と会えなくても、覚えていることしかできないとしても。かけがえのない友達と過ごした時間を、無かったことになんてできないのだから。だからこそ、この別れを辛いと感じてしまうのだから。

 カナを伴って店を出る。そして私たちは、二度と振り返らず、雑踏の中を歩き始めた。

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