2-4 vs草食王

 八木くんは、とにかく恋愛事に奥手なことで有名な男子生徒だ。体格は学年でも一、二を争うほどに大柄で、運動も得意なのだが、反面顔つきや人柄は温厚そのもので、かつ恥ずかしがり屋。女子と少し話すだけでも、すぐに顔を赤くして縮こまってしまうほどだ。当然誰かと付き合ったりしたこともないらしい。

 そのあまりの奥手ぶりを指して、ついたあだ名が『草食王』。何だかんだで女子からの人気は高いようだが、告白したことのある者はほとんどいない。

「カナとの接点なんて無さそうな気がするんだけどな」

 訝しみながら私はそうぼやいた。ところがそれを耳にした日向は、指を振り舌を鳴らしながら、

「甘いなぁ紗良ちゃん。これ、八木が告りにいったんでしょ」

 突拍子もないことを言い出した日向を、私は思わず丸い目で見下ろした。

――八木くんが。あの八木くんが、今まで接点のなかったカナに? 「奥手」という文字を人型にしたような八木くんが、笑顔の可愛らしさでは右に出る者のいないカナに、告白?

 想像してみたものの、全く現実味が感じられなかった。驚愕に波立っていた心が、ゆっくりと凪いでいく。

「あの八木くんが? まさか」

 私はそう一笑に付したのだが、二人はなおも不安を煽らんとばかりに畳みかけてきた。

「いや紗良、むしろあの八木だからこそだよ。自分から女子に話しかけるなんて滅多にない八木が、特に理由もなく香奈江に話しかけたりなんてすると思う?」

「そーそー。カナちゃんも可愛いしさ~。それに明るいけど、派手っていうか遊んでそうなタイプじゃないでしょ。八木にとっても割と声かけやすい方なんじゃない?」

 そう言われると、確かに二人の言にも納得のいく部分はある。しかしもし本当に八木くんがカナに告白したのだとしたら、カナは一体どう返事をするのだろう。

 断る、だろう。十中八九そうであるはずだ。だけど、何と言って断るのだろうか。まさか、正直に私との仲を伝えはすまい。

 或いはもし、もしもカナが八木くんの告白を受け入れてしまったら、私はどうなるだろう。こんな土壇場でカナに見放され、一人置いて行かれたとしたら、私はどうなってしまうだろう。

 有り得ない、とまで言い切ることのできない自分が恨めしい。カナを信じ切れない自分が呪わしい。だけど、それも仕方がない。そう言い訳せずにはいられない。

 それほどまでに、『同性の恋人』というものに対する世間の風当たりは厳しい。それをたった今、まざまざと思い知らされたばかりなのだから――

「あ、ひょっとして紗良ちゃん、嫉妬?」

「……へっ?」

 物思いに耽っていると、日向の思いもよらない言葉に横っ面を引っ叩かれた。理解が追いつかず、呆けた返事をしてしまった私の顔を、鍋岡さんが意外そうに覗き込んでいた。

「え、マジで? 八木狙い? 私、てっきり紗良は栄生と付き合ってるんだと思ってた」

 にじり寄る、好奇心に満ちた二人の双眸。私は数秒の間唖然としていたが、どうにか気を取り直すと、勢いよく首を左右に振りながら、

「い、いやいやいや、どっちもない。どっちも好きじゃないし、付き合ってもいないし、嫉妬でもないから」

 そう答えてはみるものの、鍋岡さんたちの瞳の輝きは弱まる気配を見せなかった。さらに顔を近づけ、私の表情を食い入るように見つめながら、彼女が言う。

「いや、八木はともかく、栄生の方は何もないってことないでしょ。しょっちゅう一緒にいるし、話してるときだって距離近いじゃん」

「そ、そう? 普通じゃない?」

「無自覚なの? 普通、付き合ってなきゃあんなにベタベタしないって」

「ベタベタって……してないでしょ」

 言い募る鍋岡さんをあしらいつつ、紗良は苦笑を浮かべながら顔を逸らした。

 私の横顔に、鍋岡さんの刺すような視線を感じる。しばし黙って私を睨んでいた鍋岡さんは、やがて眼差しを和らげながら一歩退いた。

 やれやれという吐息が自然と漏れる。私の反応に対して、鍋岡さんはしかし、真剣味を増した口ぶりで告げた。

「だとしたら、ちょっと栄生に同情するかな。あいつ、紗良のこと好きだよ」

 突拍子もない言葉に、私はまたしても虚を突かれてしまった。今度は私が鍋岡さんの目を凝視することになった。私の眼差しに気づきながらも、彼女が自らの発言を翻す様子はない。

「はは、それこそまさかよ。絶対にないわ」

 半端な笑いが零れてしまう。それでも、私を見つめる鍋岡さんの――そして日向の瞳は、からかい混じりに嘘をついているようには見えなかった。

 背中に冷たい汗が一筋。

「…………」

「本当だってば。だって――」

 と言いかけて、私はすんでのところで言葉を切った。私の剣幕と、唐突に途切れた言葉に、二人が怪訝そうにこっちを見ていた。

 根拠はある。だけど、それを今ここで言うわけにはいかない。それをどう誤魔化せばいいか、私は必死で考えた。

 記憶の束を引っ掻き回し、言い訳に使えそうなものを捜していく。それでも誤魔化し切れる自信はない。迂闊な言葉を吐きかけた自分自身を恨みながら、目を回す一歩手前で思考に没頭するしかなかった。

 そんなとき、助け舟は意外なところからやってきた。

「――あ、サラ。待たせてごめーん、今鍵開けるね」

 そう言いながら姿を現したのはカナだ。彼女は私たち三人の視線が集中するのにも構わず、駆け足で傍までやっていた。

「香奈江、八木に何言われたの!?」

 たちまち、野次馬根性丸出しで鍋岡さんが食いつく。「えぇ、見てたの?」と困惑の声を上げながら、カナはポケットから鍵を取り出した。

 部屋のドアに鍵を差し込みつつ、

「まあ、実はね……告白されちゃって」

『やっぱり!?』

 今度は三人で同時に叫んでいた。日向と鍋岡さんは興奮に、私は驚愕に。

 口では「やっぱり」なんて言ってしまったけど、それでも心の半分くらいでは「まさか」という思いも強かった。八木くんに告白されたというのもそうだけど、それ以上にカナが、どこか嬉しそうにはにかむ表情が、鋭く胸に突き刺さった。

「あの八木に告らせるなんて、香奈江やるじゃん!」

「で、で。何て答えたのカナちゃん!?」

「付き合う気なの、カナ!?」

 三者三様の言葉に、半ば押し潰されそうになりながらも、カナは戸惑い混じりの微笑を浮かべたままだ。私たちを無理に引き剥がそうとはせず、もみくしゃにされながらも、カナは平然とした口調で言う。

「断ったわよ。気持ちは嬉しかったんだけどね」

 瞬間、日向たちの動きがぴたりと止まった。遅れて、つまらなそうに嘆息しながら一歩退く。

 私は私で、安堵のあまり膝の力が抜けかけ、なるべくさりげない仕草で壁に身体を預けていた。日向たちの目に変な風に映りはしないかと心配したけど、不幸中の幸い、二人は「面白くなりそうだったのに」とでも言いたげなどんよりと曇った眼でカナを凝視していて、私には微塵も注意を向けていなかった。

「何だぁ。つまんないの~」

「っていうか、何で断ったの? 八木、結構アタリだと思うんだけど」

 口々に投げかけられた問いに、カナの口から苦笑が漏れる。

 彼女は細く窄めた眼差しで、日向や鍋岡さんを撫でた。微かに頬を上気させた、どことなく妖艶な笑みだ。

 カナには珍しい、大人びた色香を漂わせる表情に、背筋を擽られるような感覚が込み上げる。日向たち二人も同様に感じたらしい、困惑の滲む様子で固まっていた。そんな二人に、カナは気負った様子のない声で、

「わたし、他に好きな人いるから」

 言葉と同時にドアを開ける。呆けていた私の背を押して部屋に導くと、カナは驚愕に凍りついた日向たちに笑顔を向けて手を振った。

「じゃ、ヒナちゃん、また明日。あ、でもその前にお風呂で会うかもね」

 そう言って、ドアを閉める。少し遅れて、ドア越しに二人分の悲鳴とも歓声ともつかない声が聞こえてきた。

 日向たちの声をどこか遠く聞きながら、一方で私は激しく暴れる心臓を落ち着かせたくて、何度も深呼吸した。自分の呼吸の音と、ばくばくと弾む鼓動の音。それらが耳に張りついて、他のものに集中できない。

 自分自身を御するのに必死な私なんてお構いなしに、ほんの少し見ない間に得も言われぬ風格を手に入れたカナは、背を向けたまま少しだけ顔をこっちへ傾ける。

 その頬と耳が、焼けた鉄のように真っ赤に見えた。

「……え?」

 見間違いかと我が目を疑った。全く同時に、カナが突然、糸の切れた人形のようにその場にへたり込む。その後ろ姿を眺めているうち、私はようやくカナの心境を察して、小さく笑いを零した。

「……カナ、これ絶対、入浴時間に質問攻めに遭うパターンだと思う」

「言わないで。わたしだって既に後悔してるんだから……」

 直前に見せていた余裕綽々の態度は瞬く間に風化して、真っ赤な顔で蹲るカナの姿がそこにあった。いっそ滑稽なほどの変わりっぷりだ。

 笑いを堪えきれない。幾度も小さな声が結んだ唇の隙間から漏れ出てしまう。それでも私は労わるようにカナの肩に触れ、囁く。

「緊張したの? それとも、緊張してる? 明日のこと」

「どっちもよぉ……明日はもちろんだけど、八木くんのことにしたって、いきなりでびっくりしたわ。男子に告白されたのなんて初めてなんだから」

 疲労の滲む声で言いながら、カナが片手を頭上に掲げた。私はその手を握り、まっすぐ上に引っ張った。立ち上がるカナを、握り合った右手と背中に這わせた左手を頼りに支える。

「でも、よかったのかも」

 そう小声でカナが呟いたのを、私は聞き逃さなかった。どういうことだろう、と思いはしたものの、直接質すのは何となく憚られた。

 私は怪訝そうな表情を作ってカナを見た。それだけで通じたようだ。私の表情をちらりと見た後、カナは肩を竦めて続ける。

「本音を言うとね、やっぱりまだ怖いのよ、『特区』に行くこと。だけど、八木くんをふって、「好きな人がいるんだ」って自分で言葉にして、思ったの」


「わたし、やっぱり『特区』に行きたい。行って、サラと一緒になりたい」


 言いながら笑うカナの笑顔は、柔らかく花弁を開いた一輪の花のように、淡い輝きを放っていた。

 私が見とれたのは言うまでもない。何か言葉をかけたかったけど、こんなときに限って思考はうまく働いてくれない。

 やむなく、私は腕を伸ばした。そのままぎゅっとカナに抱きつく。少しだけ驚いたように息を呑んでから、カナもまた私の背中に手を回してくれた。

 放したくない。一緒にいたい。一つになりたい。誰に咎められることもなく、人目を憚る必要もなく。そんな想いは、通じているだろうか。

 触れ合わせた身体から、鼓動の音がした。それが私のものなのか、カナのものなのかは分からなかった。

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