2-3 夕食を終えて

「……納得いかなーい」

 その日の夜。夕食が終わってみんなが一様に自分たちの部屋へと戻っていく道すがら、日向は不平の言葉を口にしていた。

「何がそんなに不満だったのよ。ディナー、美味しかったじゃない」

「そりゃ、ご飯は美味しかったけどさぁ。テーブルマナー学習なんて肩書きがなきゃ、もっと楽しかったとは思うけどね」

 彼女の感想が腑に落ちず、私は問いかけた。日向はそれに、不満たらたらな調子で答える。

 確かに、今日の夕食は学習の一環として整えられた場でもあった。いちいち作法の解説が入り、慣れないそれに従うことを強要されたため気疲れする面はあったし、好き勝手おしゃべりに興じることもできなかった。

 もっとも、日向の不満の根本的な原因はそこではないらしい。彼女は漫然と虚空を睨みながら、なお不貞腐れた声音で、

「そもそも今日のスケジュール自体おかしいじゃないか。長時間かけて陸路でフクオカまで来た挙句、そのままホテルに移動して晩ご飯って。飛行機使えば、観光のひとつもできただろうにさ」

 と、そう愚痴を吐いた日向が、同意を求める視線をこっちへ向けた。

 言わんとすることは分かる。私自身はそこまで不満があったわけではないが、新幹線の中ではこれといって学習活動にちなんだイベントが用意されていたわけではなかった。となると、日向の言う通り飛行機を使ったほうが、まだしも有意義な時間の使い方ができたはずだ。

「あれ、日向知らないの? 今年から飛行機使うのやめた理由」

 私が頷こうとしたところに横から首を突っ込んできたのは、クラスメイトの鍋岡さんだ。慮外の闖入者と思いもよらない台詞に、私と日向は揃って目を丸くした。

 私たちの驚いた様子がお気に召したのか、鍋岡さんは得意げに眼鏡を押し上げ、続ける。

「去年までは飛行機使ってたんだけどね。何か航路の関係で、一瞬だけだけど『肥溜め』が見えたって苦情が出たらしいのよ」

「……はぁ?」

 話を聞いた日向が、目いっぱい胡乱そうに表情を歪めて漏らした。私の方は声こそ出さなかったが、当惑の思いで渋面を作っていた。

 ただ、それでも鍋岡さん撤回しようとしない。つまり、まるっきりの出まかせというわけではないのだろう。少なくともそういう説が存在し、それを彼女は信じている。そのことを確信した日向は、トーンを下げたままの声で尋ねかけた。

「『肥溜め』って、例の『特区』のことだよね。それが見えたってだけで、学校側は飛行機使うの止めたっていうの? そんなことある?」

 かなり懐疑的な言葉を放つ日向だったが、鍋岡さんの方はそんな疑問を持つ余地など、初めから無かったらしい。彼女は一も二もなく頷いて、

「そりゃ、誰だって見たくなんかないでしょ、あんなの。まして、学校行事の最中に生徒にあんなものを見せつけるなんて、学校からしたら何が何でも避けたいんじゃない?」

「見たくなきゃ見ない、でいいじゃないか……」

「例えばの話よ、日向。家の前に全裸のオッサンが居座ってます。どこか別の場所に行くか、服を着るかしろと言ったら、「嫌なら見なきゃいいだろ」と言われました。納得できる?」

「ハッ、できない!」

 鍋岡さんとのやり取りを経て、何やら得心した様子で日向が目を見開いた。

――いや、その理屈で言うなら、学校側の選択は「オッサンから逃げるために引っ越した」に等しいのでは?

 と思いはしたものの、声には出さなかった。日向も何か引っかかるところはあったようで、腕を組んで再び首を傾げる。

「いや、けどさ~、カーテン閉めて窓の外を見れないようにするとか、対策はとれるんじゃない?」

「そこはまぁ、見たがる人もいるかもしれないから。教育上好ましくないものは見れないように、ってことじゃない? さっきの例で言えば、日向の知り合いがオッサンの裸に興味津々だったとして、わざわざ近くまで見に行こうとしてたら止めるでしょ」

「……止めるね」

「そういうこと。見たがる人も含めて、私たちが『肥溜め』を目にすることがないように、っていうことで、今年から飛行機はナシなのよ」

 鍋岡さんがそう締めくくる。日向の方も、未だ不満は燻ぶっているようだが、判断の経緯については納得したらしい。それ以上の反論はせず、やり場のない不満を抱いたまま唸っていた。

 そんな二人の会話を聞く私の内心は、実際のところ穏やかではなかった。

 無論、世間における『特区』に対する心象は認識していたつもりだ。それでも、自分と近しい人間が、こうも辛辣な言葉を投げかけているのを目の当たりにすると、どういうわけか、ことさら裏切られたような憤りが込み上げてきてしまう。かといって、それを二人に気取られるわけにもいかない。結局、私はただ黙りこくったまま、二人の会話を聞き流していた。

 カナがこの場にいたらどうしていただろう。そんなことをふと思ってしまう。

 カナなら、二人の会話に心を痛めずやり過ごせるだろうか。もっと自然に相槌を打ったりできるんだろうか。たとえ、それが本心でなくても。必要なら、或いはそれが自然であるならば、心にないことでも言えるだろうか。

 というか、どうしてカナはこの場にいないのだったか。

「……ねえ、カナがどこに行ったか知らない?」

 我ながら遅すぎる疑問を口にしたのは、私たち三人がそれぞれの部屋の前まで辿り着いた直後だった。日向と鍋岡さんは相部屋で、一部屋挟んだ隣が私とカナの部屋。だが、私たちの部屋のドアノブを回してもドアは開かず、先にカナが帰っている様子はない。

 姿を見なかったのも、てっきり先に部屋へ戻っているからだとばかり思っていた。でも普通に考えれば、カナが一人で部屋へ急ぐ必要があったとも思えない。

「いや、知らないけど。すぐに戻ってくるんじゃない?」

「だといいんだけど……部屋の鍵、カナが持ってるのよね」

「ありゃ、それはお気の毒」

 日向からの返事に、私は不安そうな声を作って呟いてみせる。

 と、口を挟み損ねたのを誤魔化すように、鍋岡さんがわざとらしく咳払いした。意図を汲み、私は口を噤んで鍋岡さんに目を向けた。日向もだ。私たちからの注目を受けた鍋岡さんは、少しばかり気まずそうに告げる。

「それなんだけどね。香奈江、ホール出る前に、八木やぎに声かけられてたのを見たわ」

「ヤギ? うちのクラスの八木くんのこと?」

「あの『草食王』八木?」

 鍋岡さんの口から出た名前に、先に私が、次いで日向が問いかける。日向が口にした異名にクスリと小さく笑いを零しながら、鍋岡さんは頷いた。

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