Interlude01 始まりは友達から
「なぁ、昨日のタンカー事故のニュース、見た?」
高校一年の五月。昼休みの教室のことだった。
一人でお弁当をつついていた私の耳に飛び込んできたのは、クラスメイトの枕木くんの声だった。
話し相手は、二人のクラスメイト、佐々木さんと春日井くん。先に反応したのは佐々木さんの方だった。
「知ってるー。『特区』の近くで事故ったヤツでしょ」
漏れ聞こえた単語に、一瞬肩が跳ねてしまった。
離れた場所でご飯を食べている私が聞き耳を立てているなんて、考えてもみなかっただろう。三人はそのままの雰囲気で言葉を交わす。
「え、あれそうなの? 事故があったことしか知らなかった」
「マジだよ。おかげでニュース見てたら、いきなり『肥溜め』が映ってさ。見たくもねぇもん見る羽目になっちまった」
「うわ、御愁傷様」
「つかそれホントか? お前がニュース見てたって時点で信憑性ないわー」
「ああ、普段やらねぇことはするもんじゃないな、って思い知ったよ……」
「ガチへこみじゃねーか……」
項垂れる枕木くんの肩を、春日井くんが慰めるように叩いていた。佐々木さんも、不憫そうに枕木くんの横顔を覗き込んでいた。彼女は空気を変えるように明るい声で話しかける。
「まーまー、元気出して! 別に見たって呪われるわけでもないんだしさ」
枕木くんの背中をさすりながら言う彼女に、枕木くんはなおもいじけるような声で、
「そりゃそうだけど、アレの場合は正直、一ミリたりとも関わりたくないっていうか、見たり知ったりするだけでも、何かあの中の連中に近づいたみたいで嫌じゃん」
「見ちゃったものは仕方ないじゃん。忘れちゃいなよ~」
「まあ、それしかねーよな……」
眉根を寄せ、渋い顔で枕木くんは天井を見上げた。彼の表情が面白かったのか、他の二人はクスリと笑いを漏らしていた。
そんなやり取りを遠目に見ていた私は、弁当箱に蓋をして、そっと席から立ち上がる。そのままさりげない足取りで、教室を出て行こうとした。
「あれ、紗良? どっか行くの?」
佐々木さんが、目敏く私に気づいて声を上げた。一瞬怯んだものの、私は教室のドアを開けながら、作り笑いで彼女へ向き直った。
「ちょっと自販機」
「そっか。次、美術室だからね」
「ありがと」
わざわざそんなアドバイスをくれるあたり、単なる親切心で呼びかけてくれたらしい。礼を言って、私は教室を後にした。
行き先は、彼女に伝えた通り、東棟と中央棟の間にある自販機。そこはかとなく薄汚れた機械が一台だけ、渡り廊下の脇に鎮座している。購買を差し置いてこちらに来る生徒はあまり多くはなく、たまに足を運んでも人と会うことはほとんど無かった。
昔ながらの乳酸飲料を買って、プルタブを開ける。中身を口に流し込むと、甘酸っぱい味が広がって、少しだけ気分が晴れた。
気分が晴れたということは、やはり自分は落ち込んでいたのだろう。冷めた心で自己分析なんてしている自分自身に気づき、私の口元が自嘲に曲がった。
『特区』の話題が出ると、いつもこうだ。
あの場所が話題に上ったとき、人は揃って蔑みの言葉を口にする。『特区』を、あの中で暮らす人たちを、見下し、嘲弄し、ときには親の仇かとばかりに憎しみを向ける。悪意そのものをコミュニケーションツールとするように、何の迷いもなく、未だ見ぬ誰かへの悪意で空気を満たす。
私はそれが嫌いだった。理解できなかった。
だって、あそこにいる人たちには、何の非もない。性への認識だとか、恋愛観だとか、そういうものが少しだけ人と違うだけじゃないか。自分自身にだってどうにもできない、だけど周囲が少しでも自分と違うものに寛容なら、自分と違うものに理解を示す努力をすれば、それで丸く収まる話のはずだ。現にヒノモト以外では、そうなりつつあるというのに。
けれど現実には、ヒノモトには『特区』が存在し、一部の人々はそこに隔離されている。「普通」を自称する人々は、それ以外の人たちを何の呵責もなく攻撃し、そしてそのたびに言うのだ。「嫌なら『特区』に行けばいいだろう」と。
吐き気がする。
「っ……!」
気を抜いた瞬間、食道に熱いものを感じて、私は咄嗟に口を手で覆った。幸い、吐き気は一瞬で収まり、大事には至らなかった。
大きく深呼吸して、手の中の缶を見る。中身はまだ半分ほど残っていたが、今ので一気に飲む気は失せてしまった。どんよりとした気分で、どうしたものかと思案する。
「あの……上杉さん」
声をかけられたのは、そんなときだ。不意を突かれた私は、弾かれたように声のした方へ振り向く。一人の女の子がそこに立っていた。
思い出すのに少しだけかかった。クラスメイトの小鳥遊香奈江さんだ。今までそんなに話したこともなかった相手である。
「小鳥遊さん? どうしたの?」
瞬時に平静を装って、私は尋ねかける。もっとも動揺は隠せなかったらしい、或いは、声をかける前から、私の姿に気づいていたのだろうか。
「その、大丈夫? 顔色悪そうだけど」
「そう? 特に何もないよ」
遠慮がちに心配の言葉をかけてくる小鳥遊さん。私はそれに、微笑を貼りつけたまま首を振る。
不審がられたくなくて、私は手にした缶を大きく煽った。半ば無理矢理流し込むように、飲料を飲み下す。そんな私の姿を見ても、小鳥遊さんの表情は晴れなかった。
困ったな、と思う。彼女がどうしてこんなにも私の様子を気にするのか、その理由が判然としない。
言葉にして問いかけるほどではなく、けれど無視できないほどにはその違和感は大きくて、結局私は、ただ黙って彼女の顔を眺めていた。
私に注視されるのが恥ずかしかったのか、小鳥遊さんは肩を縮めて俯いてしまった。それでも彼女は、上目遣いにこちらをちらちらと見ながら、躊躇いがちに口を開いた。
「あの、ね……勘違いかもしれないんだけど」
小鳥遊さんがそう切り出す。そこからどんな言葉が続くのか予想もできず、私は曖昧に頷いて続きを促した。
それでも、彼女はすぐには口を開かなかった。何かとても言いづらいことを言おうとしているのか、何度か唇をぱくぱくと動かしてはいるものの、肝心の言葉が出てこない。目元は今にも泣き出しそうに、くしゃりと歪んでいた。
彼女の方こそあまりに苦しげな様子で、静観していた私はつい「もういいよ」と留めそうになってしまった。だけどそれよりわずかに早く、小鳥遊さんが意を決したように声を絞り出した。
怯えるように、私の目を見つめて、
「ひょっとして上杉さん、『特区』の悪口言われたから、教室出たのかな、って……」
私はきっと、今までで一番呆けた顔をしてただろう。
手の力が抜けて、少しだけ中身の残った缶が地面で跳ねる。固い音。だけどそんなものより、狂ったように高鳴る心臓の音の方がずっと強く、脳に響いていた。
「た、たまたまだったのかもしれないけど、そんなタイミングだったし、なんだかちょっと怖い顔してたから、そうなのかも、って思って……」
尻すぼみになりながらも、小鳥遊さんは私に目を向けたまま、なおも続ける。彼女の言葉が、麻痺した私の思考を右から左へ走っていく。
この子は何を言っているんだろう。
そんな危うい疑問を、そんなにも怯えながら、どうして私に伝えてくるのだろう。
もし私が「ノー」と言ったら。もし私が教室にいたみんなと同じような考えだったら。最悪の場合、この子は居場所を失ってしまうというのに。
どうして……
「わたしも、そうだったから」
小鳥遊さんが一歩、私に近づいた。よろけるような足取りで、震える身体で、それでも確かに、意志を持った一歩を。
「だからもし、上杉さんがわたしと同じなら……!」
「――同じよ」
彼女の二歩目より早く、私から一歩、小鳥遊さんに歩み寄った。手を伸ばし、彼女の腕を取る。驚いたようにその肩が跳ねた。
掴んでみればこんなにか細い腕なのに、私の手の中に収まる温もりは、例えようもないほど頼もしく感じられた。
「私も同じ気持ち。人と違うことを理由に、誰かが悪く言われるのが、すごく気持ち悪い。小鳥遊さんも、そうなんだよね?」
そんなことを口に出して言うのは、初めてのことだ。
言ったところで、誰も聞く耳を持たないと思っていた。そう決めつけていた。独りでその想いを抱え込む以外、どうしようもないと思い込んできた。でも、本当は違った。小鳥遊さんが勇気を振り絞ってくれたおかげで、私はそれに気づくことができた。こんな幸運が、他にあるだろうか。
「うん……うん!」
小鳥遊さんの瞳にも光が宿る。嬉しそうに顔を綻ばせた彼女は、私を見て何度も頷いた。私もそれに、ただ頷きを返す。
「ね、友達になろう?」
私がそう言うと、彼女はまた嬉しそうに大きく頷いた。
「うん、なりたい! よろしくね、上杉さん!」
「紗良でいいよ。小鳥遊さんのことは――」
「カナって呼んで。仲のいい子はそう呼んでくれるから」
「分かった。カナ、改めてよろしく」
言葉を交わしながら、私は小鳥遊さん――カナの腕を掴んでいた手を緩めて、そのまま彼女の手を握り直した。柔らかくてしなやかな指が、私の手に絡みついてくる。初めて秘密を共有する仲の人と出会えたことがたまらなく嬉しくて、その手を放したくない、なんて気持ちが湧いてくる。
きーん こーん
と、鳴り響いたチャイムに、私たちは我に返った。
昼休みが終わるまで、あと五分。教室を出る前に聞いた警告が蘇る。次の授業は美術室だ。
「やばっ、急ご!」
名残惜しさを渾身の力で振り絞って、私はカナの手を解いた。足元の缶を拾ってゴミ箱に放り込み、急ぎ足で歩き出した私の背を、一歩遅れてカナが追ってくる。
「あ、待ってよサラ」
縋るような声。それに、思いがけず私の足がぴたりと止まる。すぐに隣に追いついてきたカナが、意外そうに私の横顔を見た。
私はそれに、作り物ではない、心からの笑顔を向けて、
「うん」
そう漏らして、首をはっきりと縦に振った。
「大丈夫。カナを置いていったりしない」
「……うん、ありがと」
彼女は微笑み返して、そう言った。
私たち二人は駆け足で、肩を並べて美術室に向かった。足音を重ねて、触れそうなほど近くで腕を振りながら、ただ一心に、同じ場所を目指して。
そのときはまだ『友達』だった私たちが、別の名前で呼ぶ関係になるのは、もう少し先の話だ――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます