1-4 香奈江と母
「どう、カナ?」
問いかける言葉と瞳を、カナは淡い微笑で迎える。とても澄んだ、底の見通せない笑顔。何度対峙してみても、そこから彼女の感情を読み取ることが、私にはできなかった。
固唾を飲んでカナの反応を待つ。ただ実際のところ、色よい返事が返ってくることはあまり期待していない。これまでも、カナはこの問題については慎重な意見を崩してこなかった。
私にしても、いずれ自分たちには『特区』が必要になるという持論に偽りはないとしても、その選択が取り返しのつかないものであることは分かっていたし、検討する段階にはあったとしても、すぐに『特区』を目指すことはないと思っていた。
フッと、カナが僅かに口元を緩めた。
「そうね――」
零れた肯定の言葉に、一瞬耳を疑う。恐らくは驚きのあまり表情を乱したであろう私を目にしても、カナは変わらず微笑のまま。クスリという笑い声ひとつ聞かせてはくれなかった。
「行かなくて済むなら、その方がいい。ずっとそう思ってたし、今でもそれは変わらないけど、そうも言ってられないみたい」
それに続く台詞とともに、彼女の瞼がほんの微かに震える。苛立ちを堪えるようでもあり、寂しさに耐えかねたようでもあった。或いは、何かに怯えるようでも。
ほとんど直感的に、三つ目が正解だと思った私は、同意を得られたことに喜びを覚える余裕もなく尋ねる。
「何があったの?」
何かあったのか、と質す必要は考えなかった。それより少しでも早く、カナの抱えた問題を知りたかった。知って、解決の手段を捜したかった。
私の言葉に、ぱちりと瞬きしたカナが、皮肉げに曲げていた口元に、嬉しそうな笑みを刻む。それから、軽く首を振って、
「うちの困ったお母さんがねぇ。わたしにお見合いさせたがってるのよ」
「お見合いって……またなんで?」
カナの答えに、私は再び狼狽えてしまう。カナの目には滑稽に映っただろう。唐突な内容に戸惑う以前に、本当に何故そんなことになったのかが分からなかった。
カナの口元の笑みが、さらに深く曲がる。ただ、それでも薄く開いた瞳に揺らめく光は、どこか儚く不安定に見えた。
「わたしにもよく分からない。ただ、何となく思いついたんでしょ。どこか立派な家柄の人とわたしをくっつけたら、生活が楽になるなぁ、とか。あの人なら考えそう。普通に考えたら、わたしみたいな凡人を餌にしたって、そんな大物が釣れるわけがないって分かると思うんだけど」
ぼやいてから、カナは付け加えるように小声で、
「ホント、いつまで『元女優』なんて大物気取りでいるんだろーね、あの馬鹿……」
吐き捨てた罵声は、私が父に向けたものとは比較にならないほど、忌々しさに歪んでいた。言葉の重さに、私は背筋に冷たいものを感じた。
カナの母が元女優だというのは、以前から聞いていた。もっとも、正確には『自称』というべきだろう。全く実績が無いわけではないらしく、少し前のドラマのキャストなどには端役として名前が載っていることもあったが、その程度だ。鳴かず飛ばずのまま、ものの数年で業界を離れたらしいことは容易に調べがついた。
にも関わらず、本人の中では、随分な人気を誇っていたことになっているらしい。事あるごとに、周囲の評価と自己評価のギャップに癇癪を起こしているという。
他人事なりに「厄介そうだなあ」と思ってきたけれど、よもやこんな形で実害を被ることになるとは。
「本気……なのよね、あの人のことだし」
眉間に皺を寄せ、問いかけてはみるものの、その最中にも確信は膨らんでいく。結局私の口から出た言葉に、カナが苦笑交じりに首肯した。
「遅くても来年にはもう、お見合いさせ始める気じゃないかなぁ。いつになったら諦めてくれるかは分からないけど、むしろ妥協して変な人とくっつけられる可能性の方が高いかも。流石に抵抗はするけど、どっちにしろ、当分自由は利かなくなると思う」
細く眇めた両の目に、怒りの炎が揺らぐ。こんな風にカナが憎悪を露わにするのは、家族絡みのときだけだ。それも、今回ほどはっきりと彼女の怒りを感じ取れたことはかつてない。
そうなるのも仕方ない。いくら自分の娘だからって、本人の意思を無視して見合いをさせようなんて、どうかしているとしか思えない。
だけど、一方でカナもまた冷静だった。今や自分たちの目の前に横たわる問題となった『特区』という存在のことを、いつになく真剣さで熟考していた。
むしろ、まだしも悠長に身構えていた私の方が、少し浮足立ってしまったくらいだ。とはいえ、私だっていつまでも呆けているわけにはいかない。すぐに気を取り直して、『特区』を目指すための課題を想起した。
今現在の自分たちにとって、最大のネックになるのは、ここと『特区』の距離だ。高速鉄道だけでも七時間以上。実際には、地元を出るまでと現地での移動も含めて、九時間から十時間はかかる見込みとなる。
その間に、もし父がこちらの動向に気づくような事態になったらどうなるか。その場合、即失敗とはいかないまでも、何らかの妨害に会う可能性はある。そして、一度『特区』入りを仕損じれば、その後の行動は大きく制限され、二度とチャンスはやってこないだろう。
だからこそ、私としては、大学進学を機に実家を離れた後で、と考えていたのだが。ただ、カナの事情からすると、そんな悠長なことは言っていられない。
「……となると、チャンスは……」
半ば独り言の口調で呟いた。自然と眉間に皺が寄る。
脳裏に浮かぶのは、一つの選択肢として検討しながらも、性急すぎると見送ってきたタイミングのこと。同じことを考えていたのだろう、カナが、言葉より先に静かに頷く。
「修学旅行、ね」
険しい顔のまま、私はカナの目を見て頷き返した。
奇しくも、来月の修学旅行の行き先はキュウシュウだ。『特区』のお膝元である。高校生活の中で、これ以上のチャンスはないだろう。無論、困難がないはずはないが、ここから出発して『特区』へ向かうよりは遥かに障害は少ない。
最大の問題は、何より期限だろう。出発までおよそ三週間。それまでに、最低でも『特区』移住の手続き準備や住まいの確保をしておかなければならない。加えて、当日どうやって周囲の目を掻い潜り、『特区』を目指すか。恐らくは少人数の班行動の最中になるが、その段取りも考えておかなければ――
「……どうにかするわ」
明らかに思考は過熱している。血流の音が耳元で響き、頭は鐘を鳴らすように痛みを訴えている。考えなければならない事柄の多さよりも、その選択ひとつひとつの重さに、興奮と恐怖で脳がパンクしそうだった。
それでも、自然と私は口にしていた。
「どうにかしなきゃいけないんだもの。出来ない、なんて死んでも言わない」
「……うん。サラならそう言うわよね」
対してカナが返したのは、淡い微笑だ。その笑みの一端に苦いものを感じさせつつも、同時にそこには、私の言葉に対する安堵が窺い知れた。
「頼りにしてるわぁ。具体的なプランを立てたりとか、サラには敵わないから。でも、わたしに出来ることは何でも言ってね。全部任せる気でいるわけじゃないんだから」
「分かってる。ひとまずは家探しと、『特区』に関する基本的な情報の確認。私も勿論調べるけど、それぞれ調べた方が、チェック漏れがないはずよ。週明けまでに調べられたことを一旦擦り合わせて、今後の相談をしましょう」
「おっけ」
グッと親指を立てて、カナが首肯した。
一蓮托生。そんな言葉がふっと頭を掠めた。目の前にそびえる壁の高さは変わらなくても、隣にはカナがいる。それを意識した途端、少しだけ心が軽くなった。
私は頷き返した後、ふと窓の方を見た。陽はまだ沈んでこそいないものの、空は次第に赤みを差し始めていた。
「じゃ、帰ろうか。あんまり遅くなって、また変な言いがかりつけられるのも嫌だし」
「そーだねぇ」
同意の言葉とともに、カナが席を立った。彼女は鞄に手をかけつつ、
「今日はどうする? 一緒に帰る?」
「……やめとく。それこそ、また父さんに余計な詮索されかねないわ」
答えた声は、自分でも驚くほど覇気がなかった。
昨晩の父の言葉を、改めて忌々しく思い起こす。あんな余計なことを言われてさえいなければ、カナと一緒の下校を躊躇ったりなんてしないのに。
「残念そうだね」
意識せずとも眉間に皺が寄る。不満を隠そうともしない私に対して、カナは下から覗き込みながら、細く楽しげな笑みを浮かべた。少し前もそうだったけど、カナは時々、私が不機嫌でいるのを楽しんでいる節がある。私には未だに、その理由が分からなかった。
からかうようなカナの笑みを憮然と見下ろしながら、私は敢えてその目を逸らさず言葉を返す。
「悪い?」
「ううん。私も寂しい」
「……ったく」
ノータイムで返された。我慢しようとしてみたものの、抵抗虚しく勝手に頬が熱くなった。渋面のまま赤面するなんて、我ながら器用だとは思う。もっとも、そうさせたカナの方が、よっぽどすごいと思うけど。
それ以上言葉を交わすと余計に恥をかきそうな気がして、私は大きな嘆息とともに、荒っぽい足取りでそのまま自習室を出ようとした。
出入口で、ふと後ろを振り向く。私の背中を、カナはニコニコしながら見送ろうとしていた。少し遅れて出るつもりなのだろう。
自習室を出て、階段まで歩き、もう一度立ち止まる。やはり、カナが追ってくる様子はない。そのことを、やはり少しだけ物足りなく思ってしまう自分がいる。
小さな溜息をひとつついた私は、後ろ髪を引かれる思いで、昇降口を目指して階段を下っていった。
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