1-2 内緒話は自習室で

 翌日。

 前夜の父との会話を事あるごとに思い起こし、そのたびに怒りと苛立ちを燻ぶらせながら、私は一日を過ごす羽目になった。

 どうやら表情にも出ていたらしい。三限目で私にプリントを渡そうとした、前の席の八木くんは、熊にでも出くわしたかのように恐怖した顔で私を睨んでいた。直後の昼休みには何人かのクラスメイトたちが、極めて慎重にこっちを見ているように見えた。帰りのホームルームでは、気のせいだろうか、強面こわもての担任までもが私を見て気難しい顔をしていたような気がする。

 こうして業後を迎えて、一息ついてから思い起こすと、周りに随分迷惑をかけてしまったような気もする。とはいえ、謝るにしたって何を謝ればいいのかも分からないし、そのために詳しく経緯を説明するのもごめんだ。

 つまるところ、私にできることは、今日のような不機嫌を明日に持ち越さないようにすることだけだろう。少しでも心に堆積した陰鬱を吐き出そうと、私は鞄を手にしながらため息をつく。

 そんな私に、軽い足取りで一人の少女が近づいてきた。

「今日はまた、随分荒れてるねぇ、サラ」

「カナ」

 私の態度などどこ吹く風で、明るい笑顔を見せる彼女に対し、私は相手の名を呼んで応えた。それと同時に私は、気分が一気に晴れていくのを感じた。

 カナ――小鳥遊香奈江は私のクラスメイトである。やや色素の薄い髪や、折れそうなほど華奢な体躯はいかにも儚げに映りがちだが、同時にどこか無邪気で闊達な印象の笑顔が特徴的だ。ぴょこぴょこと歩み寄る動きに合わせて、後ろで軽く結った髪が踊るように揺れていた。

 カナが私の隣に立つ。肩を並べると、少しばかりカナの方が背が高い。

 私は鞄を手に取りながら小さく肩を落とし、

「まあちょっと、家でね」

 潜めた声で私が零すと、カナは何かを察したように「ふーん」と短く相槌を打った。彼女はさりげない様子で周囲の様子を窺った後、横目で私に目配せした。

「今日はどうする? 自習室行く?」

「ん、行く」

 問いかけるカナに、私は頷く。カナも頷き返し、私たちは連れたって教室を出た。

 二人で向かったのは西棟最上階、図書室の隣に設けられた自習室だ。とはいえ、机と椅子が設置されただけの、空調すらない部屋である。試験期間ならいざ知らず、平時は利用者なんてほとんどいない。

 がらりとドアを開けて、私たちは自習室に入る。さっと部屋中を見渡してみるが、やはり今日も誰もいない。それを確認して、私は後ろ手にドアを閉めた。そのまま私たちは一番奥、窓際の席まで移動。並んで腰を下ろす。

 途端、カナがつぶらな瞳を興味津々に輝かせながら、私に顔を寄せてきた。

「で、で。サラは何がそんなに気に入らなかったの? 教えて教えて」

「何でちょっと嬉しそうなの……」

 彼女の仕草に、私は肩を竦めながら苦笑した。

 実際、心中は苦い。にも関わらず、渋面ではなく、苦くとも笑いが浮かぶのは、いちいちカナの仕草が可愛らしいからだ。何をするにも、どこかしら華がある。羨ましいと感じる反面、そんな姿を今は私が独り占めしているという優越感もあった。

 とはいえ、彼女の問いに答える内容は、私自身にとっても面白いものではない。

「父さんに言われたのよ。カナと仲良くし過ぎじゃないかって。多分、何度か手を繋いでたのをご近所さんが見てて、そのことを言われたんじゃないかな」

「あらら……」

 聞いたカナも、眉をへの字に曲げて唸った。口調こそ軽いものの、細く絞られた瞳は、私の報告を重く受け止めていることを表していた。

 我知らず、私も表情を一段暗くしてしまっていた。さりげなくカナから視線を逸らし、

「体面を気にすることにかけては人後に落ちないからね、あの人。ご近所さんの方は単なる冗談だろうに、真に受けて余計なこと言うんだから」

 敢えてキツめの、毒づく口ぶりで吐き捨てた。

 実父に対する呵責のない私の物言いに、カナの方が苦笑を浮かべて「まあまあ」と宥めにかかる。

「世間が敏感な話題だから、っていうのもあると思うわ。多分、うちの親でも同じような反応するわよ。それに――」

 と、そこで一度言葉を切ったカナは、薄く開いたままの目で、私の横顔を見つめた。目元は動いていないはずなのに、瞳の表面に揺らめく光は、わずかにその色を変えていた。

 彼女が言わんとすることに、私は一瞬早く気づいた。予感が脳天を軽く小突き、頬がぽっと火照るのが分かる。それを見て取りながら、カナはニヤリと笑って囁いた。

「サラのお父さんの心配だって、実際、杞憂ってわけじゃないでしょ?」

「……そうね」

 仄かに赤くなった私の頬を指で突くカナに対し、私はしばらく遅れて返事した。

 確かに昨日の父の発言は、単なる保身を意図してのものだろうが、一方でカナの指摘通り、彼が口にしたことは決して的外れではない。

 私とカナは好き合っている。女の子同士であっても、互いに想い合っている。それは事実だ。

 とにかく話題を移そうと、わざとらしく空咳を打つ。そんな私を見て、カナが可笑しそうに笑いを零した。

 ちょっとムッとしたけど、それよりも警戒が大事だ。私は注意深く耳を澄ませ、廊下側の窓に映る人影の有無を念入りに確認した。誰もいない。それを確信できるまで待ってから、私はようやくカナに向き直った。

 真剣な目つきになった私を見て、カナも僅かに表情を引き締める。そんな彼女に、私は押し殺した声で呟いた。

「それで、だけど。カナ、あの件、どう思う?」

 その言葉を、カナは微笑のまま受け止める。だが、半ば閉じられた瞼の下で、再びその眼光が変容した。

 楽しげなものとも、からかうものとも違う。緊張の滲む、力強い眼差しだ。

「……『特区』のこと、よね?」

 同じく、潜めた声で確認するカナに、私は強張った表情で頷いた。

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