一章 ヒノモトの少女たち
1-1 上杉紗良と父
何でもない一日のはずだった。
学校帰りにスーパーで買い物をして、家に帰って来てから軽く夕食の下ごしらえ。数学の宿題をささっと片付け、夕食の準備の続きをする。私――
敢えて普段と異なる点を挙げれば、父が夕食時に帰宅していたことだろうか。全くないこととは言わないが、日ごろ遅くまで仕事をしていることの多い父は一人で外食してくることが多く、彼が私と夕食を共にすることは、週に一度もない。
ともあれ、今日は二人分の食事を用意することになったものの、それが苦になるわけでもない。物心つく前に母が亡くなり、また当時から仕事漬けの日々を送っていた父のせいで、家事全般は主に私の役割だった。特に料理は、幼少期に通ってくれていたヘルパーさんにせがんで教えてもらって以来、趣味の一つにもなっているくらいで、父以外に振舞うことも度々あった。
唯一の肉親ということを考えると、私と父の交流は些か少なかったかもしれない。それでも顔を合わせ、言葉を交わすくらいのことは日常的にしていた。だから、父と会話すること自体が、それほど特殊だったわけでもない。
ただ、この日の話題は少しだけいつもと違った。
「美味かった」
食後の緑茶を啜りつつ、どっしりとした声音で父が言う。
彼は名を
とはいえ、緩みや弛みが付け込む余地の一切ない表情は余裕こそ感じさせはしないものの、あらゆる難題を正面から切り伏せる貫禄を感じさせた。大企業の幹部というのも納得の風格である。娘の立場であまり褒めるのもどうかとは思うけど、一応それなりに尊敬はしているのだ。
ただ、気に入らないところも当然ある。
「褒めてくれるのはいいとして、食べ終わったら先に「ごちそうさま」でしょ」
「……ごちそうさま」
私が指摘すると、父はやはり仏頂面のまま、言われた通り復唱した。なんとなくバツの悪そうなオーラが、ほんの微かに丸まった背筋から噴出した。
父の向かいに座りながら、私は小さく嘆息する。まさしく仕事人間というか、家の中でのあれこれに関しては、家事から作法に至るまで概ね人並み以下なのが、娘なりに気がかりではあった。
さっきから父は、微妙に縮こまったままだ。まさか私の表情に怯んだわけもあるまい。確かに、私たち親子を知る者からはたびたび「紗良ちゃんはお父さんそっくりねぇ」なんて言われることもあったが、そうは言っても、高二女子に過ぎない私の眼力が父に及ぶとは思わない。眼鏡にしたってなるべく重たい印象を与えないよう、楕円形のレンズに細いフレームのものを選んで着けている。何より、普段から威圧感満載のこの父に怖がられる謂れなどない。
父と向かい合ったまま、静かに湯飲みを傾ける。食後の静かな時間。だけど、そのとき不意に父が自分の湯飲みをテーブルに置き、重々しく口を開いた。
「一つ聞きたい」
「何よ、改まって」
「最近、特定の女子と仲が良いそうだな」
父の言葉に、私は眉を顰めて口元を曲げた。私の反応に構わず、父は続けて問いを投げた。
「どういう関係だ」
「どういう、って……」
短くも、詰問の如く語気の強い問いかけに、私は口ごもる。
ただし、答えに窮したわけではない。あまりに馬鹿げた質問に、言葉を失ってしまっただけだ。意識せずとも、私の父を見据える視線は秒刻みで熱を失い、氷点下をも下回る。父の眉が焦るように――極めて微細に――揺れた。
「多分カナ――
たっぷり間をおいてから、何でもないという口ぶりで答える。
これで納得してくれれば楽だったのだが、娘の冷厳とした眼光に竦んでいた父は、それでも追及の視線を逸らさなかった。
彼は最初の問いと同じ重々しさで続ける。が、その声音は初めより幾分苦く、
「ご近所さんに聞かれたぞ。お宅の娘さんは『肥溜め』にでも行くつもりか、とな」
父の口から『肥溜め』という言葉が出た瞬間、私の表情筋が一瞬強張った。さっきまでの冷ややかさから一転、意識は火鉢のようにカッと熱くなり、火を噴く勢いの眼光が父を打ち据える。けれど、それに応じる父の表情にも、隠しきれない怒気があった。
必ずしもその怒りは、私に向けられたものばかりではなかった。それでも滅多に見ない父の激情に、私は思わず怯んでしまう。そして、私からの反駁の言葉がないうちに、父がさらに告げる。
「友達と仲良くするのは構わん。だが、人目を考えろ。節度を持て。でなければ、何よりお前のためにならん」
そう言い終えると、話は終わりとばかりに、彼は手元のお茶を啜った。
胸中は酷く苦い。父の態度に気圧されてしまった自分自身が、とても情けなく思えた。
「私、その『肥溜め』って言い方、嫌い」
吐き捨てるように一言。ほとんど負け惜しみくらいの気分だった。言ってみたところで、父の意見が翻らないことなど分かり切っている。それでも、その想いだけは口にせずにはいられなかった。
意外なことに、父はその些細な一言さえ、聞き流そうとはしなかった。
ふう、と息をついたかと思えば、一瞬閉じられた瞼が再び開き、そこに剣呑な輝きが灯る。抜身の刀身さながらの瞳は、過たず私に突きつけられ、続く言葉に一切の容赦も虚飾もないことを知らしめた。
「あの場所にどんな幻想を抱いているのか知らんが、はっきりさせておこう。あそこは犯罪者の巣窟だ。この国に存在してはならない、害にしかならない屑を閉じ込めた廃棄場だ。実態以前に、そもそもの定義として、あそこはそういう場所として作られている。それを『肥溜め』とでも呼ばずして、何と呼ぶつもりだ」
断言してのけた父は、紛れもない憎悪を垂れ流しながら両目を眇める。彼が迸らせるプレッシャーが、鉛のように私の総身を押し潰した。
日頃のそれが生温く思えるような、圧倒的な父の気配。息苦しさに耐え切れず、私は歯を食いしばって身を震わせた。それにも構わず、父はなおも畏怖を喚起する声で繰り返す。
「紗良、答えたらどうだ」
「ッうるさい!」
たまらず叫んで、私はテーブルを叩きながら立ち上がる。眉一つ動かさず、ただ粛然と見上げる父の瞳に、私は二秒だけ対峙したものの、結局は競り負けて目を逸らした。
悔しい思いが、否応なく声に滲む。
「……要するに、誤解を招くようなことはするなっていうことでしょ。分かってるわよ、それくらい!」
そう言い捨てて、私は二階へと続く階段に向かった。足取りが荒っぽくなるのも気にしない。そんな私の背に、父は振り返らないまま声を投げかけた。
「紗良」
「…………」
「デザートはないのか?」
瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、盛大な音を立てて切れた。脱力のあまり膝が折れかける。さっきまでとは違った類の苛立ちが、胸の内で立ち上がった。
――この人の、こういう妙なときだけマイペースなところが一番苦手だ。
「……冷蔵庫の一番上。ヨーグルトが入ってるから、勝手に食べて」
大きな嘆息とともにそう応える。その返事だけを残して、私は今度こそリビングを後にした。
紗良が立ち去っていく足音が消えると、代わって耳を打つのは、食洗器が稼働する音だけとなる。そんな中、冷蔵庫の方へちらりと目をやって、巌は小声で呟いた。
「食べんのか……」
気のせいか、その声はどことなく寂しげに響いた。
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