11.針戻る円環

ハンドベルが鳴らされる。姉貴の持つ魔法のベルが俺に効くことはない。椅子にふんぞり返る姉貴の機嫌は今日も悪い。生きた人間を散々痛めつけたあとに首を跳ねて平常でいられるほうが珍しいだろう。もっとも、俺はその現場を見たことはないが。それでもしかし、狂言だとは思えない。姉貴にはおおよそ慈悲と言うものが欠如している。それはそうだ。優しさを振りまくことで得られる承認よりも、責務を果たして憎まれることを選んだのだから。俺はチョコレートを二杯分持ってきて、カレンの前に置いた。

「……あんた、ほんとにしょうがないわね。ほら、下賜よ。受け取りなさい」

顔をしかめたカレンは顎をしゃくって湯気の立つそれを示す。俺は恭しく手を取って、親愛を示す。青い目が俺を見つめる。この世界に二対しか存在しない青い目の片割れ。俺は目を細めて視線に応えた。手が軽く振り払われ、俺は椅子に戻される。そうして、俺はカップを手にした。チョコレートはただ熱かった。



俺はカンテラを持って歩き回る。抱えたハードカバーの中は白紙だ。これには元々、屋敷にうごめく影たちの名前が載っていた。ひとりひとり、名前と顔とを紐付けるためのリストがページを埋めていた。それらが失われ、インクの本文が白紙になり果てても、幽霊たちは変わらずそれを恐れる。顔の見えない現象の解明には名前が何より重要だからだ。だから俺は消え果てた文字を追おうとする。何もしていないのにも等しく、しかしそれが抵抗だ。俺は鋳造されたようなルーチンをなぞっている。俺は代わり映えのしない白いページをなぞっている。否。ブランクでしかないページの中にも文字はある。カレン、カライス、ミラ。この三名だけはその事細かな周辺情報とともに顔の描かれたページがある。もっとも、ミラに関してのページは滲んでいて読むのには適さない。さらに自分のページを調べたら二ページにわたって不愉快なことが書かれていた。この手の記述に当たるとき、俺は薬を飲んでいなくて良かったと思う。

『ねえ、あの男を呼んできて』

姉貴がそう言って、何度俺は薬を体に入れただろう。カレンが命じれば俺は異を唱える道理など無い。俺は男を連れてくる。おどついた長身の悪魔を。俺は俺の血と肉を分け、屋敷にあれを呼び出した。人ならざる男、白い肌の男。あるときから、屋敷の中にいる顔のあるものは三人になった。俺が初めて姉貴に悪魔の男を見せたとき、姉貴はそれきり興味を失ったようだった。それはこれから起こることだ。人間の言葉を喋る、人間ではないもの。俺は何を気にしている? 俺はページをめくる。部屋に持ち込んだカンテラは消えていた。気が付くと暗い部屋の中に俺はいる。紙をめくる。紙をめくる。名前を呼ばれることのないものたちを思う。姉貴、俺、あの男。俺たちが名前をなくしたとして、俺にはその先を想像することが出来ない。俺は起き上がってカンテラに火を移した。



その先を。その前を。俺は想像することが出来ない。全てはいつか起こること。あるいはもう起こったことだ。終わりは来ない。出来ることなら痛くしないで欲しいとは思っている。煩わしいことが一つだって起きなければ良いと思っている。俺は、自分がポラリスでなくなるそのときが来ることをどうしたって認められない。俺たちは一対で、そのほかの入る余地なんて無い。それが道理だ。同じ日に生まれ、同じように育った。それが俺とそれ以外の違いはそこで、俺と姉貴は本質的に同じものだ。俺はそれを信じている。信じようとしている。道理であると思っている。そうであれと願う。

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