10.絶対的指標

湯船の中で俺は二人分の体を洗わされている。面倒だ、と思う。全くもって面倒だ。俺はこんなことをするために生まれてきたわけではない。俺はブラシを放り出す。湯を浴びせかけ、泡を洗い流してやる。俺は男相手に何をさせられているんだろうな、と思うが、取り立てて口にはしない。カレンの言うことは絶対で、俺はそれに従うつもりでいるからだ。ただ、この男がどこから来たのか姉貴が正しく認識しているのかについて、考えることがないと言ったら嘘になる。

「何でこう面倒なことをわざわざ俺にやらせるかねえ……」

面と向かって尋ねたならば、姉貴はきっともったいぶって『サービスだ』と言うだろう。俺はため息をつく。知ったことだ。聞くまでもなく。俺は湯の中で膝を抱えて座っている男に視線を向けた。目元を隠す髪を払ってやる。薄い皮膚は拡張した血管の色を透かす。頬と、鼻、目元。耳もだ。俺のもつ土色の不透明な皮膚とは違う。わかりやすいな、と俺は思った。



「それで何? 私をほったらかして二人でいちゃこいてたって訳」

「姉貴が『積もる話もあるだろう』と言ったんだ」

「言ったわよ。でもちょっと話すだけに二時間もいると思わないじゃない!」

これでたいした話をしていないのが知れたら、姉貴はなんと言うだろうな、と俺は考えてみる。まあ、別に何も言いはしないだろう。カレンが怒るのは機嫌が悪いからだ。そこにそれ以外の因果関係はない。せっかく、と姉貴は言う。せっかく私がお膳立てしてあげたのに。俺はうんざりする。無論顔には出さない。姉貴が俺にこの男を抱かせようとするのは一体どういう了見なんだろうな、と思う。これを相手取りたくないのか、いや、それなら放置するという手だってある。別にそれで事は回る。こいつの心はどうであれ。

「聞いてるの!?」

聞いている、と俺は返した。目と目が合って、姉貴は鼻を鳴らす。姉貴は、この男を俺にあてがおうとする。あてがう。そう、それがしっくりくる。俺には必要ないことであるのに。それは何故? 俺は考える。きっとそれで俺が喜ぶと思っているのだろう。実際のところがどうなのかなんてお構いなしに。

「それで、姉貴はこれからどうする気だ?」

「あんたに任せるわ。そうでしょ、ポラリス。あんたが考えるのよ」

椅子に体を投げ出すカレンの仕草は普段よりも少しだけ子供っぽく見えた。俺はそこに昔の姉貴を見る。あるいは、ポラリスと、そう呼ばれたからかも知れない。俺の名前は他にある。私の空で確かに光る指標となれ、とあの日確かに願ったきょうだいは目の前で剣呑な目を向けてくる。北極星は俺の渾名だ。いつかの姉貴は指標を求めた。しるしは目の前ににある。俺は僅かな間、俺を取り巻く全てから切り離されて、青い目を見た。男のことも、カンテラも、分厚いハードカバーも、そこにはない。

「ねえ、何笑ってんの?」

「これが生まれつきの顔だ。どこかおかしなところがあるか?」

「……別に。でも機嫌の良いあんたって見慣れないわね。ねえ、髪とかして。今すぐに」

「姉上さまの御心のままに」

俺は髪をとかし、爪に青い紅を塗る。なぜだかとても気分が良かった。怪訝な目の中の中にいる俺は知らない人間で、見慣れないと言われるのも納得だ。俺は戸惑う姉貴に同情する。俺自身楽しそうにしている自分の姿などこれまで見たことがなかったのだから!

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