8.その後の心

鳴り響く音に、俺は飛び起きる。頬を抑えた男と、上に乗った姉貴が視線の先にいた。ブラウンの髪の垂れた、白い背中が見える。ああ、なにか、不味いことになっているな、と俺は思った。


眠りは何ももたらさない。強いていうなら空白だ。俺は額に掛かる髪を払いのけてゆっくり体を起こす。鈍ったような感覚は眠りから覚めたとき特有のものだ。俺は俯いたまま目を擦った。とにかく体が重かった。

「起きたの?」

「ああ……」

掛けられた声に、俺は視線を下げた。顔を見てはいけない。直感がそう告げている。俺はどれくらい眠っていた? 横目に見やった男は呆然とした表情のまま泡を吹いて倒れている。顔は紅潮して赤い。この様子なら死んではいないはずだ。この男は何を見せられた? 天国か? それとも?

「お楽しみは終わり。もう少し早く起きていればあんたも楽しめたかもね」

視界の端で姉貴が立ち上がるのが見えた。そのまま白い二本の足は俺の横を通り過ぎていく。俺は頭を垂れたまま動かない。扉が開く音がして、背後に去った気配は消える。俺はたっぷり三十秒は待ってから、体に変なところがないかを確かめる。肩は動く。顔は乾いている。へそは変わらずへこんでいる。それらのどこにも異常は無い。俺は男に向き直る。青い髪、青い目。異常は無い。カンテラは燃えている。異常は無い。シーツを濡らす汚れのあとは一人分だ。なにも、何一つだって、問題は、無い。

「調子は」

俺は聞いた。男は呆然としたような状態でまぶたを僅かに動かしたのみだ。俺は顎をひっつかみ、頬を叩いた。男は目を覚まさない。俺は二度三度と頬を叩いた。眠っているわけではないのは感覚として分かる。俺はガクガクと肩を揺さぶった。

「起きろ。何があった。もしくは何が欠落している? 答えろ!」

目を覗き込む。青い目に映る青い色の目。ぱち、と瞬いた瞳は青い。黒い瞳孔は正気付いたようにきゅっと絞られる。

「なに? なんだ!? や、やめてくれ、なに、なにが起きている?」

それはこっちの台詞だ、と思った。それでも今の反応で、知らないんだなと分かる。俺は目の前の男の腹に手を滑らせる。薄い体は薄いままで、滑らせた手には筋肉と骨の存在が伝わってくる。薄い皮膚の下には肉と骨があるのみだ。本当に? 本当に!? 俺は掴みかかり、手のひらを起点にして押しつぶす。皮膚の下になにか隠れてはいないか、俺は圧をかけて精査する。

「やめ、痛い、無理だ、さっきの今で、そんな」

俺は腹を引っ掻いた。痛い、と再び男は呻いた。腹に指を立ててその中に潜む臓物の形をなぞろうとする。体は薄い。息がうるさい。拳を固めて響かせるように叩けば、振動は貫通する。これは、出来損ないの体だ。俺はそれを知っている。そのことを俺は知っている。俺の疑念は、些末な見当違いとして処理される。俺は手を放した。

「大丈夫そうだな」

「あ、な……なにが、そうだと?」

男は怯えている。怯えている。息も絶え絶えに。俺は考えないようにしている。俺は気付かないようにしている。ここには俺とこの男しかいない。あれは今ここにはいない。俺に、怖いものは無い。俺を害するものは無い。そのはずだ。それで正しい。カンテラは未だ煌々と燃えている。姉貴は役目を果たしている。怖いことは何もない。俺は怯えた男に再度気が付く。横たわる沈黙に、質問へ答えてやらないと、と思い至って口を開く。

「おまえが健康そうで良かったよ」

問題は無い。俺は汚れた体をシーツで拭い、服を着た。男が凍えるように息を吐くので、俺は安心しろ、とそのようなことを言った。姉はここにはいないのだから、と。

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