4.青い目の男

分厚いカーテンの向こうには誰もいない。窓の外には誰もいない。屋敷の中には誰もいない。俺と姉貴、それからあの男。顔のある個体はそれだけだ。俺は振り返る。廊下の先、曲がり角の向こうには人の気配がある。俺はそれを追わない。暗がりに覗く視線にはきりが無いから。



「はぁ…………」

向かいの席から退屈そうなため息が聞こえてくる。マニキュアの塗られた手を短く二度叩き、ケースに戻るよう指示が飛ぶ。隊列を組み頭を揺らして歩く駒たちの足音を聞きながら、俺は厚い革張りの本のページをぱらぱらと捲っていた。

全ての駒が元通りに収まったことを確認してカレンはケースの蓋を閉めた。スカラップの金具を青い爪が弾く。白く細い手は机へ伸びてハンドベルを鳴らした。カラン、と豊かな音が鳴る。俺はそれを見るでもなく眺めていた。そうして部屋へ現れたのは抜けるような青の髪をした青年だ。背の高い男は、カレンと俺の手でこね上げられた人ならざるものだ。そのはずだ。青年はかしこまった様子で、しかし不安そうに、白い手袋に包まれた手を握り合わせている。

「あ、あの、お呼びでしょうか……」

「遅いじゃない。まあいいわ。脱いで」

また始まったな、と俺は思う。カレンは蔑むような目で男を眺めている。蔑む……見下す? 負の感情には違いないこれが、どんな性質のものなのかは俺の目には分からない。何にせよろくでもないものなのは確かだった。姉貴には慈愛というものが欠落している。

「え、あの…………」

「聞こえなかったの? 脱げって言ったのよ。脱いでそこのベッドでそいつと寝なさい。これは命令よ」

ベルが再び鳴らされ、年嵩の男は身を竦める。やり取りを横で聞いていた俺は、カレンの言うそいつが自分以外あり得ないことに気がつく。そうだ、他に誰がいる? まあそれもいつもの事だ。カレンがやれというのなら、俺に拒否権はない。



白いシャツと黒のズボン、体に太い縦縞をつくるサスペンダー。癖のない青い髪や血色の悪い肌、長い首を持つ男は、寝違えた筋をかばうように首を傾げて次の命令を待っている。骨ばった肩。欲情を刺激しない薄く細い身体。俺はカレンに尋ねる。

「姉貴、なんでわざわざ一枚ずつ脱がさせるんだ? 面倒だろ」

「わかってないのね。だからバカって言われるのよ、バカ弟。サービスに決まってんでしょ、サ、ァ、ビ、ス!」

「……ご厚意をどうも。感謝するよ」

顔をしかめたのはわざとじゃなかった。姉貴は俺の表情を気の利いた洒落の一つ……あるいは素直になれない好意の表れとして受け取ったのか、何も言ってこなかった。僥倖。俺は本を読むために掛けていた眼鏡をはずし、伸びをした。これから寝なければならないのだ。『あの男』と。俺の流した血だまりから現われた『あれ』と。肩を回し、頭をガシガシとかく。面倒だな、と思った。

「謝礼、あとでショコラふたつね」

「……ああ」

気のない返事をして、姉に目を向ける。それから、コート掛けの下で上着を脱いでいる男にも。黒いサスペンダーへ男は神経質に指を絡める。俺は手を重ねた。手は震えているようだった。恐ろしいのだろうな、と思う。それは恐ろしいだろう。ベルを鳴らすのはあのカレンだ。

「……あの、なにか……」

「……いいや、大丈夫だ。怖がることは何もない」

『許す』ときの声で囁けば、男は青い目を潤ませる。馬鹿だな、と俺は思った。『寝させようとする』姉も、従うこの男も。それに付き合う自分もだ。馬鹿だな、と俺は言った。自分より五は上に見える男は、俺の作る影の中で怯えたようにびくりと身を竦ませた。

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