第四章 ロクドウツジ

〈1〉染み付いているって、いいわね

 秋も暮れる頃。季咲に呼び出されて『ンダベナ』へと来ていた。

 店に入ったときには、まだ呼び出し主の姿はなかった。カウンターに座り、日本酒――を頼もうとしたところでマスターの視線を感じ、ため息をついてシングルのストレートに変更する。


「月見酒ならば、日本酒の方が適切だろうに」

「なーに言ってんだず。地下で月見もへったくれもねえべしたや」


 御尤も。肩を竦めて、久方ぶりのウィスキーを口にした。

 元々、ハイボールさえ苦手だった。ゼミの打ち上げで初めて飲んだとき、煙草をギリギリまで吸い、フィルター部まで焼いてしまったような咽る臭いが鼻についたからだ。燻製は美味いが、いぶす煙はクソ程不味い。これが大人の味とやらならば、理解できなくとも構わないとさえ思ったくらいだ。


 今では……否。まだ気取る程にはないか。

 いつか、冬子を誘ってビスクドールのカフェにでも行ってみようかと思った。大人とやらになる道ならば、彼女と共に歩むのが相応しい。


 すっかり常連となっていたサクソフォニストのアニメソング・メドレーをバックに、別のテイストのウィスキーを頼んでみた。振り返る。やはり、ソプラノサックスの音色はゆったりと耳に馴染む。歌詞がないことも相まってか、バーという空間に、本来異質であるはずのアニメソングも溶け込んでいた。


 ふと思えば、大人とは何か、とまで考えさせられる。以前冬子は、世が世なら十四で元服なのに、とむくれていたか。そんな風に、誰かが決めた尺度で子供だ大人だと区分けされているだけなのかもしれない。落伍者はガキと呼ばれ、成功者は永遠の少年などと評される。


 そんなものだ。きっと、そんなもの。


「待ち人来たらず、って顔してる」

「……お気遣いどうも。今来たところだよ」


 肩に乗せられた手を払う。珍しくスーツ姿の季咲は、けらけらと笑って隣に座った。


「今日も、『日帰り旅行』だったのか」

「一泊二日。さすがに忙しくってね。編集長が変わったとかで、危うく半年がおじゃんになるところだったのよ。個人事業主の辛いところよね、ほんと」


 やっぱり都心に住んだ方がいいかしら、と肩を回しながら、彼女は日本酒を注文する。

 コレは窘めないのかとマスターに半眼を向ければ、わざとらしい口笛が返された。


「ああそうだ。はい、これ。忘れないうちに」


 そう言って、季咲が一つの封筒をカウンターに置いた。中には数十枚、コマ割りされた絵の描かれた紙が入っていた。


「漫画か」

「いえす。あんたの息子が活躍するお話の、第一稿のコピー。ありがたく受け取りなさい」

「アイアイ、マム」


 努めて慇懃に頂戴する。

 これまでにもサンプルを貰うことはあったが、一話単位で渡されたのは初めてだった。帰ったらまた、親父たちの仏壇に供えてやろう。


「今、読んでくれないんだ」


 季咲がからかうような視線を向けてきた。


「酒が入っているからな」

「へえ、そう」

「未来が栄え、慈しまれる、だったか」

「ええ、そう」

「見たいな。そんな未来」


 懐からピースを取り出し、火を点ける。


 最近、こちらを吸うことが多くなった。マルボロとどう吸い分けているのか訊ねてきた冬子に話したら、照れたように「じゃあ、もっと増やさなきゃだ」とはにかんだ。毎日が記念日というものが憧れらしい。

 さすがに休肝日くらいは設けて欲しいものだと言ったら、拗ねられた。一週間口を聞いてもらえないのは、中々に堪える。


 季咲も自分の煙草を咥えて、カチカチとライターに苦戦してから、一服した。


「やっぱり。上手く行ってはいるのね」

「その『やっぱり』はどこから出てきたんだ……」

「今月の頭くらいだったかな。奈緒ちゃんがね、ご飯作りに行ったとき、あんたの部屋から女性の匂いがしたって。栄助くんに彼女ができたかも、って。それを聞いたとき、ああ、冬子ちゃんだってピンと来た」


 思わず顔を顰める。煙とウィスキーの苦味が舌にこびりつく。


「抜かったな。気にならないと思っていたが」

「煙草やお酒の匂いみたいなものよ。それだけあんたの中で、馴染んでるんでしょう」

「奈緒は、相手が冬子だってことを」

「知らないと思う。多分」


 そうか、と生返事をして、水で口の中をリセットする。いつもの日本酒をオーダーした。


 冬子と初めて身体を重ねた日の後、一度だけ、奈緒に来なくていいと話したことがあった。しかし、その理由を説明することができず、結局なあなあのままで数か月が過ぎた。彼女が親戚であると知っていた冬子の言葉に甘えていた部分もある。


 だが、そろそろ潮時だろう。


――二つの乙女心を壊すかもしれないんだ、そのくらいの罰はあって然るべきよ。


 片方の心を壊すという、ケジメを付ける時が近づいている。

 運ばれてきたグラスに、季咲がそっと自分のグラスを打ち当てた。


「染み付いているって、いいわね」

「そうなのか」

「ほら。他所様の家にお邪魔したときの、ああ、この人の家だ、って感覚、あるでしょう。女の子の部屋とか」

「ああ、香澄なんかはそうだったな。姉貴の部屋からは感じたことがないが」


 冬子の部屋からも。だが、あれは少々例外な気もする。


「私、天然由来成分だから」

「ほざいてろ。ドライなわけだよ、干物め」

「ほお、ちょっと先を越したからってマウントを取る気かね」


 枡の角でぐりぐりと頬をいびられた。至極、鬱陶しい。

 ひとしきり遊んで満足したらしい季咲は、二本目の煙草に手を伸ばしながら、言った。


「でも、あったかいでしょう?」


 舌打ちをする。

 そんなことは――自分の部屋の中に冬子の痕跡があると聞いただけで満たされたような心地でいることは、言われなくとも、噛みしめている。


「んで、経過はどうなの」

「……どっちのだよ」

「えっ、何、どこまでヤっているか訊いたら教えてくれんの?」

「テメエなら訊きかねないから確認してるんだ、クソ姉貴」


 顔に思い切り煙を吹きかけてやる。

 一瞬、背後でサックスの音が乱れた。驚かせてしまったらしい。居住まいを正し、酒を呷る。


「吸血衝動も鎮まって、腕の傷跡も随分薄くなってきた。今では、夢を追って頑張っているよ」

「おお、何。漫画家だと嬉しいなー」

「心にもないことを。それに、俺が認めると思うか」

「じゃあ、霊媒師」

「それは『夏希』の職業だろうが」


 そろそろ頬を抓ってやろうかと思ったが、サックスのことを思い出して止める。


「美容師を目指してる。きずが治って、綺麗な手になったら、次に刃物を握るのは誰かのために。そう話してくれたよ」

「大人ねえ。私たちの高校時代なんて、バカばっかりで、そんな大層なこと考えている子、いなかったわよね」


 今でも馬鹿かもしれない、という言葉は飲み込んだ。

 大学を出る時も、どこか決められたレールにいたような感覚だったことを思い出す。職業選択の自由を与えられたような気になって、その実、見ているのは金の入り口の多寡だった。自分が何をしたいか、その就職先で何をするか、そんなことは履歴書と面接の自己PRの中だけの、短い命。くだらないと吐き捨てながら、自分も同じ列に並んでいた。

 もっとも、個々人の腹の内まで覗くことができたのなら、どうだったかは分からない。


 現在休職中の荒木が、冬子の腕の傷を見て、心を病むまでに戸惑ったように。バカだと思っていた連中にも、何かしらの胸の内があったかもしれない。他者から見れば小さいかもしれないが、ただ、芽生えたばかりで懸命に燃え上がろうとしている最中なだけで。

 そんな、吹けば飛びそうな儚い夢を、冬子も大切に抱えようとしている。


 また、特別ピースの量が増えそうだ。胸が膨らむのは喜ばしいことだが、そのスピードが速すぎると懐が痛い。できることならば、減らしていきたいところだが。

 二人の間のホメオスタシスが高まれば、それらの特別が、普通のものになってくれるだろうか。それとも、何でもないようなことだと気に留めないようになってしまうことを恐れるべきなのだろうか。


 分からない。


 灰皿で煙草の火を揉み消す。グズグズした不安の一条が立ち上って、どこかへ溶けた。

 明日からは、こちらの値を基準に銭勘定をすることにしよう。


「姉貴。頼みがあるんだが」

「うん? 何々、お姉ちゃんに言ってみ」

「まだ、冬子には話していないが。あいつが卒業したら式を挙げようと思う。来てくれるか」


 季咲が目を見開き、んあ、と奇怪な声を出して固まった。

 これまでに一度しか見たことがない表情だ。あれは、病院からの電話で知らされた親父たちの急を、茶の間でこたつに潜っていた彼女に告げた時だったか。


 固まっていた季咲は、やがて、可笑しそうに笑う。


「断る理由なんてないわ。文句を付けるとすれば、来てくれるかー、なんて、引け目に感じてること」


 男ならしゃきっとしろと、背中に一発もらった。理不尽である。


「……奈緒ちゃんには、あんたの口から言いなさいよ」

「ああ」


 最後に二人で熱燗を頼み、店を出る。

 季咲が手を擦り合わせながら、「出た、漫画家の敵」とぼやいた。寒がりな彼女は毎年、冬が近づくと『凍えて手元が滞るのは災害同然だから保険をかけたい』などと仰る。もっと売れてからほざけと茶化すのは、二年で止めた。餅ならばともかく、みかんで窒息する思いをするなど、こりごりである。


「来週から雪が降るってね」

「もう、そんな時期か」

「ほんと。桜は遅いくせに、冬はどんどん早くなる。そのくせ、初雪だけ贈っといて、ホワイトクリスマスは焦らすってんだから。神様ってのは絶対性格悪いわよね」


 そんなことを言ってから、握り拳を作った季咲が、胸の辺りを小突いてきた。


「あまりイチャコラしすぎて、風邪でも引くんじゃないよ。ああ、温めあうから心配ないかー」

「……言ってろ」


 されもしない反撃を怖がるようにおどける背中を見送って、歩き出す。

 季咲が去っただけで、ふと、闇が深くなったような気がした。そう感じたのも無理はない。夜も更けていて、山形の街は眠りについているからだ。


 駅の照明と、街路灯から逃げるように、霞城公園の中へと入る。これから家まで、寒空の下十数分の散歩と洒落込まねばならないことに息を吐くと、存外、暗い中にあってもはっきりと白んでいくのが見えた。


 薄れながら肩越しにすれ違う息を追うように、星空を振り仰ぐ。

 気温の低下で際立った星空が美しく、ふと、電話をかけたくなった。

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