(6)鐘が鳴るまで、三時間しかないんだから

 旧校舎の正面玄関は閉ざされていた。職員室――は避けて、職員用の駐車場へ向かう。栄助さんの車は、もう、ない。


 スマートフォンを取り出した。書きかけのメッセージはもういらない。消し去って、通話ボタンをタップ。コール音を聞きながらカバンを漁って、最悪な事実に気づく。『追い風用意』の用意を忘れてきた。ああ、そうだ。あの日家に帰ってから、もう付ける資格がないだろうと、押し入れに仕舞っていたんだっけ。


 コール音はまだ止まない。もどかしくなって学校を飛び出す。どうあれ、先ずは家に戻らなければ。あれがないと、ドレスコードで弾かれてしまう。


「今どこっ!」


 音が切れた瞬間に叫ぶ。けれど、返事をしたのは留守番電話のサービス。舌打ちをして切る。

 もう一度かける。刹那、踏切を電車が横切った。足止めをしてくれた挙句にコールをかき消すとは、まったく、どうなっているの、公共交通機関! かぼちゃの馬車は急いでいるんだ!


『……した』


 逸りすぎて、大好きな声さえも聴き逃すところだった。


「栄助さんっ? 良かった、栄助さん!」

『どうした、何があった!』

「何にもない! いやっ、あるんだけれどっ! とにかく今っ……どこっ!」


 走りながら、最後の角を曲がる。


『本屋。八文字屋だ』

「ああ、映画館のところの」


 玄関の鍵にもたつきながら、息を整える。


「じゃあ今から、そっちに行くから。ニ十分くらい待っていて」

『近くにいる、という訳ではなさそうだが。どこにいるんだ』

「家に帰ってきたところっ!」


 浴室からバスタオルをかっぱらいながら、ぶーたれてやる。


「学校にいたと思ったのに。誰かさん、いなくなってるんだもの」

『はっ……? まさか、お前』

「そのまさか。昨日の扉の締め忘れなんかじゃああーりーまーせーんーっ!」


 電話口で、なっが~い溜め息が聞こえた。それはどっち。理不尽に怒られていることへの抗議か、それとも、私と連絡がついたことへの安堵かしら。個人的には、後者であれば嬉しいのだけれど。けれどそもそも、告白してくれるくらい好きなんだったら、あの時点で私がいることに気づいてくれたっていいんじゃなくって? とも思う。


『分かった。今、家なんだな。そっちに行くから待っていろ』


 そう言って、電話が切れた。嬉しい。まさかまさか、王子様の方からのお出迎えだなんて。

 早く来て。ん、やっぱり、少しゆっくり。困った。バスタオルで殴りつけるように汗を拭ったせいか、頭の中もぐちゃぐちゃで。考えがまとまらない。


 制服を脱ぎ散らかし、下着もその辺に放り投げて、カバンをひっくり返して。一瞬、何を探していたのかを忘れかけて、ボディシートを拾い上げる。今日ばかりは、我ながらズボラなところに感謝したい。無香料のシートなら香水とケンカしない。

 ほとんど買ったばかりのそれが空っぽになるくらい使ってから、バスルームに戻る。洗面台で髪を整えて、リビングへ。忙しい忙しい。けれど、嫌じゃあない。


 ケースの一番上に眠るピンクの下着をつけて、香水を纏う。全身、栄助さん。もう震えてしまいそう。いっそこのまま、ワンピースすらナシで行ってしまいたい、なんて。そんなことをしたら本当に嫌われてしまうかしら。

 仕方がないから、いそいそと服を着る。


 家を出て、通りの見えるところまで出たけれど、栄助さんの運転する白馬はまだお見えになっていなかった。ちょっぴりはしゃぎすぎたかも。

 空いた時間を使って、スマホでシンデレラ城もくてきちの場所を調べる。本来王子様の居る場所なのにシンデレラ城とはこれいかに。もっとも、これから彼を誘い出す場所は、どちらの家でもないのだけれど。


 車が見えてきた! 衝動的に、いいえ、計画づくで飛び出す。


 運転席で栄助さんがぎょっとしたのが分かった。別に、私の目の前に止まろうと減速していたでしょうに。それがちょっと手前にずれただけ。そんなにハザードランプをかりかりさせなくてもいいじゃない。


「冬子、お前。一体何を考えて――」


 運転席の窓から顔を出したお小言をキスで塞ぎ、助手席に乗り込む。


「出して」


 急かすと、彼は大袈裟にため息を吐いてハンドルを切った。

 お澄ましな横顔。本当、イジワルな人。若干の補正はかかっているかもだけれど、旧校舎で私の名前を呼んだときには、嬉しそうな声をしていたくせに。


「どこに向かうんだ」


 どこに向かうんだ、だって。そのくらい、言わなくても察して欲しい。じゃあ一体、さっきのキスはなんだと思っているの、って話。


 まったくもう、今回だけ、開きっぱなしのサイトを参考にナビゲートをしてあげる。助手席でちゃんと助手を務めさせていただくのって、楽しいかもしれない。うふふ、地図の読める女です、私。あの夜は見ることにさえ臆病だったけれど、今なら、ちゃんと。

 だからいつか、栄助さんの宝の地図を読ませてもらえたら、幸い。なんていうんだっけ、こういうの。ブレーキランプ五回踏むやつ。ん、あれは地図とは別ものなのかしら。まあいいや。


 国道13号線に乗って、天童市まで向かう。目的を達成する場所は山形市にもあるんだけれど、やっぱり駅前に集中しているから。それじゃあ、さすがに拙いことは分かっているつもり。


 道の駅を過ぎたところを目印に左折。一度ぐるっと温泉宿の通りを回ったところで、とうとう何かに気が付いたらしい栄助さんが路肩に停車した。眉間に指を当てて。放っておいたらエアバッグが作動してしまうんじゃないかと思うくらい、頭が重く垂れていく。


「私のすべてが欲しいって言ってくれたでしょう。証明してよ」


 ちょっと卑怯な言葉を使わせてもらう。我ながらどんな立場から言っているんだと、声が震えたのは、バレていませんように。

 栄助さんは顔を上げると、ウィンカーを出して道に戻った。老舗の宿を曲がれば、さあ、おいでませ。温泉街には似つかわしくない、都市的なデザインの建物が迎えてくれた。


 ここが私の一夜城。や、もちろん私は木下藤吉郎じゃあないけれど。まあ、とりあえず。ファッションホテル、ブティックホテル、ラブホテル。いかようにでもお呼びくださいな。名前になっている花の花言葉は、尊敬、知恵、良い家庭、アンドモア。わあ、栄助さんを連想できるワードが奇遇にも並んでいるなあ、なんて。空々しいかしら。

 当初の予定では、ここで、渋る栄助さんを引っ張ってでも美濃攻略へと乗り出すつもりだったのだけれど。意外というか、願ったりというか。彼は車を降りると、私がシートベルトを外している間に回り込み、丁重にドアを開けてくれた。それでもう、満足だった。


 次の関門も、うん。どうやら平静を保てそう。

 フロントでの受け答えをぎこちなく済ませた肩に並ぶ。


「栄助さんも初めてなんだ。こういうところに来るの」

「当たり前だ。お前は俺を何だと思っているんだ」


 そんなの、生徒に告白しちゃうイケナイ教師に決まっているじゃない。違う?


「場所は知っていたクセに」

「帰るぞ」

「ごめんなさーい」


 睨まれたけれど、気分は最高だった。今、私は、エプロンの君も、元カノさんさえも経験していない思い出を作ろうとしている。


 選んだのは、和室風のお部屋。入ってみてびっくり。エッチなビデオで見ていたような風景とは大違い。耳年魔――目年増、かも――な私をからかうように、普通に旅館のお座敷。

 畳の上なのに、座布団じゃあなくて、ソファなのが難点だけれど。それも、一人掛け用のものが並んでいるって。どうも、くつろいでいる場合じゃねえだろと言われているみたい。まったくもって、仰る通り。


 小洒落た赤塗の格子で仕切られた先に、褥があった。ぼんやりと照らすブラケットが可愛い。

 ふと、栄助さんの気配が遠くなった気がして、振り返る。いいよ、もう、変なところで気を遣わなくても。電気とかそういうの、今さらでしょうに。


 もどかしい腕を引っぱって、もつれるようにベッドへと倒れ込む。

 ぼふっ、とふかふかなところに体が沈んだ。棺の中から王子様を見上げる白雪姫が、もし薄目を開けていたら、景色はきっとこんな感じ。おおよそ自分のものじゃない感覚に、今さらながら羞恥心が込み上げてくる。


「キス、して」


 じっと目を見て、おねだりをする。返事を一週間も待たせてしまったお寝坊な私を、起こして欲しいから。


 そっと触れるだけの優しさを、逃がさない。幼稚園の頃から不思議だったもの。王子様のキスでお姫様が目覚めて、幸せに暮らしました。はいほー、はいほー。ってさ。起きたところで、王子様にお礼のキスをしないのかな、って。はい、そこの嫌な私。オリジナルではキスさえしていないなんて、無粋なことは黙っていて。


 唾液の糸が引いた。壁の色が透けて、赤い糸に見える。二人がもう繋がっているような気がして、素敵。もう一度舌を絡めて、輪っかを作って通して、蝶々結びにできたなら、カンペキ。


「いいんだな。止まれないぞ」


 真剣な顔してそんなことを訊くものだから、思わず、笑いそうになった。


「何それ、様式美? 何にもカッコよくないよ」


 頬を膨らませてやる。まったく、こうだから困る。私はここにいるぞー、って、おでこをノックしながら呼びかけてやりたい。もう、舞踏会の場にいるんだから。浜辺で追いかけっこをしたいなら、外に行っているというもの。


「ほら。鐘が鳴るまで、三時間しかないんだから」


 腕を拡げて、ホールドの姿勢を取る。身を委ねる覚悟まで示したのだから、さっさとそっちも枠を作って迎えて欲しい。

 まあ、正直。舞踏会にどれくらいの時間がかかるのかなんて知らない。けれど、かの王子様とは違って、貴方はタイムリミットを知っているでしょう。


「だから、栄助さんの思うままに――」


 もう音楽は始まっているのだから。16ビートで、振り付けコレオグラフィはご自由に。あとは、シャル・ウィ・ダンス? という貴方の囁きだけ。これが本当の様式美だよ、栄助さん。


 後になってガラスの靴を片手にうろうろしなくていいように。そう、そうやって、しっかりと指を絡めて、離さないでいて。


「私を、灰かぶりを、シンデレラにしてください」


 そう言うと、彼は髪を梳いてくれてから、綺麗だ、と言った。ああもう、今度はラプンツェルだなんて。ただでさえ、頭の中がお姫様で渋滞中だっていうのに。

 小鳥のついばむようなキスで、イメージを引き寄せられる。色々なものが混じりあって、最後に残ったのは、彼のためのプリンセス。そうであって欲しい。ん、まだちょっと、不安。


「そんなにゆっくりしていて、いいのかしら」


 首筋への優しい手つきにじれったくなって、王子様を急かす。


「俺の思うままで、いいんじゃあなかったのか」


 イジワルな王子様は、ふっ、と歯を見せて、モジモジと擦り合わせる私の脚を撫でてきた。

 多分、震えているのが、バレてる。栄助さんのくせに。にぶちんのくせに。ほんとう、こういうときだけ超能力者になるんだから。ズルい。

 けれど、彼が私のことを考えてくれているおかげで肝が据わった。もう、遠慮なんてしないって、素直になることができて、泣けた。


 一つ、思い出したことがある。

 栄助さんが担任として初めてクラスにきた日。古文の授業で『追い風用意』の話をする前、一瞬だけ黒板に書いて、すぐに消してしまった『斎垣』という言葉。


 ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 今はわが名は 惜しけくも無し


 あれは、きっと。私を意識して、隠してしまった言葉。だから、今日まで話すこともしなかったけれど。あれを一番に書いてくれたんだと分かったとき、すごく嬉しかった。

 今も抱き締められる度に、囁かれる度に、進行形で募っていく。


 自分自身ですら、リストカットに血液嗜好症だなんてメンタルのやばい子、関わりたくないのに。それでも、真摯に向き合ってくれる人がいるんだって、伝わってるから。

 教師と生徒っていう、現実的な問題を考えれば無理なんだろうけれど。私の方は、いつだって、準備万端。我が名は惜しけくも無し、です。


 不意に、耳を押さえられた。視線がかち合う。金縛りにあったみたいに動けなくなる。かあっと顔が熱くなって、こめかみの辺りの脈が、脳の芯の方まで蕩かしていく。


「だめ。耳たぶ、熱くて、くっついちゃうよ」

「そのまま溶かしてしまえばいい」


 初めて、彼の前で一糸まとわぬ姿になった。腕の中に強く包み込まれると、体温の優しさの向こうに、やらしい鼓動が聴こえる。彼の中でも私の音がしている。


 ああ、やっぱり。この人が好き。大好き。


 すべてのリズムが一つになって。世界一息の合ったダンスを踊るカップルになる。ジャッジの評価なんてどうだっていい。私が微笑んで、彼が頷いてくれたら、それで満点だ。


「――冬子」


 こういう風に、彼が名前を囁いてくれたのなら。こんどは、私が頷く番。


「うん、いいよ。来て」


 高鳴っている胸の、真ん中の甘いところに、白い砂糖をたっぷり注いでコーティングしてほしい。掻き回して、メレンゲみたいに泡立ててから、貪るように飲み干してくれたなら。それが、こういう行為ぎしきを『食べる』って表現することの意味だと思うから。


 揺さぶられる勢いに振り落とされないように、暴れ馬にしがみつく。彼が動きづらそうにしているのは感じているけれど、こっちだって無我夢中なのだ。彼の吐息の中の一滴さえも零したくなくって、正気を保つので必死。許して欲しい。


 じっくりと、大人の味を教え込まれる。ブラックのコーヒーだとか、ものすごく辛いスープだとか、ミョウガのえぐみだとか、飲んだことはないけれど、もう二年もすれば飲めるビールのような苦味だとか。そういうものとは多分、大違いで。


 よく、歳を取ったら甘いものが食べられなくなる、なんて言われる。うっそだあ、って思いながら聞いていたけれど、今ならわかる。誰かに愛されているという、もっと甘美な天然モノを知ってしまったから、人工甘味料じゃあ胃もたれするようになってしまうんだ。


 だからさ、栄助さん。このままだと私は、黙っていても貴方の色に染まってしまうから。ちゃんと、貴方との恋を教えてもらっているから。


 もう、大丈夫。

 貴方はただ、私を求めてくれるだけでいい。


 ああ、そういえば。汗拭きシートを塗りたくった上に、念入りに追い風の用意をしたから、ちょこおっと雑味が入っているかもしれないのは、ごめんなさいだけど。

 私の味で、貴方の奥底にある苦いところを、全て上書きして。私も、そうなれるよう、がんばって尽くすから。それに気づいたときに、優しく見つめてくれて、ついでに頭をいい子、いい子、ってしてくれたりなんかしたら、それだけでもう、死んじゃうくらい幸せだから。


 存分に、召し上がれ。


 私の異食症が解決するとか、栄助さんが心の傷から真の意味で救われるだとか、そういう、どっちか、じゃあなくって。


 二人で一緒に。同じ色に溶けてしまおう。

 ねえ、栄助さん。

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