(5)誰かに聞かれたら、困るもの

 随分と調子の悪い生理痛が来たような日が続いていた。自己嫌悪は自分史上最低。どのくらい酷いかって、母だった人に『食事』を見られた時よりやばい。


 うだうだしている間に、月末。夏休みが始まってしまった。最初は、栄助さんと顔を合わせなくて済むと安心した。五秒で、耐えられなくなった。一時間ごとに発作が起きるみたい。ホームルームと国語の時間だけでも彼の顔を見られることが、どれほど幸せだったか。


「あづー……」


 今では、部屋の真ん中で大の字に寝転びながら溶けている。

 夏は辛い。元々体温が低いせいか、冬はゆたんぽとホッカイロの山でなんとかなったりする。でも夏だけはだめ。低体温が仇になる。一度、扇風機を買ったことがあるけれど、熱風をかき回すばかりで、すぐにリサイクルショップへ持っていくハメになったから。


 家にいても気が滅入るだけなので、着替えて外へ出た。長袖の服を着ているのに、風を受けられるおかげか、いくらか涼しい。


 いつの間に、学校の前まで来ていた。いいえ。制服を着た時点で、多分、最初からそうするつもりだった。授業もないのに、しっかりカバンまで持ってきてさ。何がしたいのよ私、なんて問いかけても、その答えは分かっているだろう? とすげない返事。

 なぜ突き放してしまうんだろう。栄助さんだけでなく、自分自身さえも。


 旧校舎の裏手に回ると、秘密の入り口の鍵は開いていた。えっ、うそ。どうして。あれから一週間も経ったのに。

 あの日、栄助さんからの連絡をもらった私は、外からこっそり、喫煙室の明かりが点いたり消えたりするのを見ていた。彼が喫煙室から『食事』の部屋に移ったタイミングをばっちり計っていたクセに、ただ、一歩の勇気を出すことができなくて。

 SNSの画面を開くと、嘘つきのメッセージが残っている。『今行きます』だなんて。入力した時点から一週間。地球の裏側よりずっと遠い場所にでも向かうつもりなのかしら。


 胸を押さえる。『食事』の部屋の真ん中で、痛みに咽ぶ。

 どこに、なんて、決まっているでしょう。地球の裏側より遠い? その距離を作ったのは自分だってことくらい、はっきり分かっている。


 本当は、すぐにでも飛び込みたかったクセに、なんて、嫌な私が腕組みしてる。言われなくても、自分がひねくれ者だって、知ってる。前に本で読んだけれど、素直な人はサプライズに対して「ほんとう」と訊くんだそう。そして、私みたいなへそ曲がりは「うそ」と、本当は嬉しくて仕方がないくせに、それが現実だと信じる自信がなくって、言っちゃう。


 そうやって肝心な時に逃げ出して。そのくせ、そんな心さえエスパーみたいに見透かして抱き締めて欲しい、なんて、ワガママにも程がある。栄助さんは私を振り回したって言っていたけれど、初めての『食事』からずっと、振り回したのは私の方。


 謝らなきゃいけないのに。世間体だとか、エプロンの君についてだとか、そういったものを自分自身の不安と絡めて丸ごと放り出したのは、私。初恋に憧れて、毎日がきらきらして、いい気になっていたけれど。一つ皮を剥けば、単なるメンヘラな生娘しか残らないと気づいて、心底怖くなった。


 私は彼がいい。いいえ、栄助さんじゃないと嫌。けれど、彼という存在の対価に私が差し出せるものがない。クラスの恋バナを聞いていると、やたらと背が高くて小顔のイケメンで筋肉質で優しくて金も甲斐性も融通も全部利いて、ついでにエスパー、みたいな王子様が現れやしないかと瞳をキラッキラさせて話しているけれど。そんな人と実際に出遭ったら、どんな顔をすればいいの。そんな人に告白されたら、なんて応えればいいの。だれか、教えて欲しい。


 宝石の美しさを知れば知るほど、失う怖さに縮こまっていくんだ。手に入れてもいないのに、お宝の地図を放り投げて。それでも顔を上げられたのなら、まだいい。けれど、地図りそうとにらめっこしていた猫背がクセになってしまっていて、ぎゅっと肩を丸めたまま、足下ばかり気にしてしまう。

 人生は冒険だと誰かが言っていたけれど。冒険ならば、怖がり、そして勇気を奮って立ち向かおうとする相手は、その道に対してであるべきで。宝石に怯える人生など、なんの価値もない。そんなの、分かっているんだよ、頭では。


 きっと、栄助さんの方がずっとずっと、震える足での一歩だったはず、ってことも。


 一階で、開錠の音がした。

 反射的に逃げ出す。階段を滑り降りて、防火扉の陰に隠れた。だめ。まだ、心の準備なんてできてない。息を殺して、彼が踊り場で振り返る前に、階段の手すりの死角へと移動する。心臓の音が痛いくらいにうるさくて、強く握って黙らせる。


「冬子?」


 心臓が破裂するかと思った。


「……いや。昨日閉め忘れただけか」


 朽ちた扉の軋む音がした。どうやら、私がここにいることまでは気づかれていないみたい。


 けれど、今、彼はなんて言った? 昨日、閉め忘れた?


「(まだ、待っていてくれてるんだ)」


 最低だ。彼はこんなにも辛抱強いのに、私はまた逃げた。

 顔を合わせないよう、職員室からも教室から旧校舎からも遠いところへと、敷地内をぶらつく。それでいて、学校から出ようとしないんだから、ばかみたい。

 ほんとう、何がしたいんだろう。


 旧校舎の対角に位置するというだけで、用もないのに、剣道場の方まで来てしまった。

 玄関は開いているみたいだけれど、人の気配はない。烈しい気声や、竹刀と防具の撃ち合う音もないから、気が紛れることもない。帰ろう、と踵を返したとき、声をかけられた。


「あれっ、薄墨さん」


 振り返ると、竹刀の束を抱えた、剣道着姿の本間奈緒さんと目が合った。


「剣道部はお休みだよー、入部届は明日まで待ってねえ。なんて、違うか」


 からからと笑って、古臭いノリの小ボケをかましてくれる。

 少し、気が楽になった。


「本間さんこそ。剣道部がお休みなのに、どうして」

「備品の点検。部室に、歴代の先輩たちが置いていった防具や竹刀なんかが溜まってるんだよ。初心者が入部したりすると、そこから使うんだけどさ。いつでも使えるように毎年点検をするのが、引退した三年生の最後のお仕事なのですよ」


 竹刀をガチャガチャさせながら、ふふん、と胸を逸らす彼女は誇らしげで。


「入る? というか、暇なら入ってよ。話し相手がいなくてさ」

「でも、神聖な道場、ってやつなんでしょう」

「あはは、だね。うん、半分正解。でも、保護者だってだけで我が物顔で歩き回る親御さんよりは、そう思ってるだけマシだよ」


 そう言ってから、本間さんは「今のオフレコね」と口に指を当てようとして、危うく竹刀を取り落としそうになっていた。


「ふふっ、大丈夫?」

「もち、大丈夫っす、はい。もし心配なら、外をぐるっと回ってきなよ」


 竹刀を抱えたままの謎のボディランゲージでは方向が分からず、とりあえず、本間さんの消えた方向へと向かった。

 洗剤の匂いがした。そこは道場の中から直接外に出るところ。石段に所狭しと防具が並べられ、砂利の上に置かれた物干しには、汗で色褪せた道着たちがかけられている。

 こっちこっちと手を招く彼女の隣に腰かけた。


「他の三年生はいないんだ」

「いえあ。そもそも剣道人口が減ってきているし、自分で言うのもなんだけれど、うち、弱小校だからね。二年生は四人も入ってくれたけど、万年人手不足なのですよ」


 手早く竹刀の状態をチェックしながら、本間さんは苦笑いをした。これから、ささくれの出来ている箇所を削り、一気にツル――竹刀を張る弦を締めていくらしい。


「んで、薄墨さんはどしたの。補講するような成績じゃあないでしょ」

「うん、ちょっと。忘れ物を」


 胸が締まる。削り落とされたささくれが全部刺さってしまったみたいで、ありふれた嘘にすらチクチク反応する。

 私は、忘れ物をどうしたかったんだろう。拾い上げて持ち帰る……のは、逃げた。じゃあ、それを捨てようとしていたのかしら。ん、もしかしたら、多分、そう。私では釣り合わないんだって、捨てあきらめようとして。


 まあ、それもできなかったんだけどさ。


「本間さんも、補講は受けないんだ」

「うん。私、実家がお菓子屋さんだから。卒業後のルートは決まってるんだよ」

「素敵。行ってみてもいいかな。どこなの」

「東根。サクランボは終わっちゃったけど、夏が終わる頃にはラフランスを使った大福とか出し始めるから、時期においでよ。孫娘フィルター抜きに、美味しいよ、けっこう」

「今、ちょっと日和ったね」

「あちゃあ、バレた」


 向日葵のように気持ちよく笑う子だった。それでいて、竹刀を見つめる瞳は真剣で。ああ、これが、青春ってやつの魅力なんだなあ、と思い知らされる。私には縁のないもの。

 一度、本間さんが個室の方に引っ込んでいって、紙パックのオレンジジュースをくれた。ストローでべっこんべっこん遊ぶのが面白いよねえ、なんて、また気持ちいい笑顔で。


 ジュースを飲んで、ふと、栄助さんを感じたような気がした。あの時飲んだ『シンデレラ』の味を思い出したから。甘酸っぱい思い出、なんて。本当は、甘くなんてないけれど。


「もしかして薄墨さん、何か悩んでる?」

「えっ、どうして」


 ハッとして髪を直すと、本間さんはまた笑った。


「私のよく知っている人に似てたんだ。じっと黙って考えて、図星を突かれると、今の薄墨さんみたいに『何故』って訊くの。そっくりでさ、ちょっと笑っちゃった」

「……私の知っている人にも、そんな感じの人がいる。ん、多分、うつったのかも」

「それが原因かあ!」


 笑い声は、やがて、セミの鳴き声にバトンタッチしていく。


 竹刀を削る音も止み、本間さんの作業は組み直しに入っていた。先端にゴムのパーツを嵌めて、白い筒を被せて、そこから伸びる弦を柄に通して締め上げる。力も繊細さも必要そうな作業は、こういう整備の一つとっても、武の道なんだと思わせる。

 少しのあいだ、彼女の横顔に憧れていた。


「その人のこと?」


 唐突に、そんなことを訊かれた。

 頷いて、乾いた舌をジュースで潤す。つぶつぶが少し邪魔。


「告白。された」

「おおっ! それで、オッケーしたの」

「ううん。その人は、ちょっと理由があって、好きになっちゃいけない人だから」


 口にしてから、しまった、と思った。学生がそんなことを言ったら、その相手の素性をバラしているようなものだから。


「だ、誰にも言わないでね」

「もちろん。っていうか、薄墨さん、そんな顔もするんだね。知らなかった。クールな感じかと思ってたから」

「むう」


 ジュースを吸い上げる。こんなとき、栄助さんが相手なら文句の一つでも言ってやれるのに。

 本間さんが竹刀を置いて、手ぬぐいで汗を拭った。


「私も好きな人がいるんだ」

「どんな人なの」

「八つ上の従兄なんだけどさ、超文系で、本のムシ。普段はぶっきらぼうで、屁理屈で、だらしなくて、部屋は私が掃除しないと散らかし放題なんだけど、でも、ちゃんと優しい。そんなところがあるから、周りの皆にも好感をもたれている人」


 途中まで似ていて、ドキッとした。年齢も、性格も、ぴったり。後半も、どうだろう。その部分だけ『長谷堂先生』だと考えれば、ありえない話ではない。

 一瞬、思考がつまづいた。小石の正体は、前に垣間見た本間さんの愛想笑い。まさか、と鼓動が警鐘を打ち鳴らす。


「素敵な人、なんだね」

「うん。もう十年くらい片想いしてるかなあ」


 下唇を噛んだ。もし、そうなら。なんか、やだ。


「最近は、ほら。その人と会う時にだけ付けてる香水があるんだけどさ。なかなか効果が見られないのですよ。似合わないとか思われてるのかも」

「それってもしかして、シトラス系の?」

「なんで分かるのっ? あちゃあ、やっちゃった。そうか、定番過ぎてダメだったのかあ」


 勝手に自己完結してくれたおかげで、難を免れた。けれど。

 状況証拠だったところに、決定的なピースが填まってしまった。

 多分、間違いなく。


 エプロンの君は、本間さんだ。


「もう少し、二人でいる時にも優しくしてくれたっていいのにな……」


 それは違うと、偉そうにも叫びたくなったのを堪える。外で見せている『長谷堂先生』は偽善だから。アレと同じ優しさなんて求めても、これっぽっちも、面白くなんてない。


 彼女は、仮面の方を好きになっているだけ。同じ人を見ているはずなのに、見ているところがまるで違うなんて。けれど、本当にそうかしら。本間さんは栄助さん十年生。私より九年も先輩。もしかしたら、一周回って、長谷堂先生が魅力的と受け止められることがオトナの懐ってやつなのかも。


 そう考えると、目の前の青春真っ盛りな剣道少女が突然、いい女に見えてきて。どうしよう、苦しい。


――いい男だったよ。ああ、敗けたと思った。


 やだ。いやだ。私は、誰にだって敗けたくない。


「……本間さんは、その人に想いを伝えたりはしないの」

「うん、勇気が出ないんだ」

「勇気、か」


 奇遇。私も。


「その人が元カノさんと別れたとき、凄く傷ついててさ。それをいいことに、親戚の立場を利用して潜り込んだの。慰めてくれた人と付き合う、とかってあるじゃない。まあ、現在絶賛連敗中なんだけどね」


 それも作戦だと思うから、何も言わない。

 私には、彼の過去を聞いても、慰めることすらできなかった。ただ、彼の苦しみの深さを思い知っただけ。それで理解した気になっただけ。


「そうして、ずるずるずるずる、来ちゃった。あと一歩が踏み出せない。卑怯者の分際で、嫌なやつだよね、私」


 初めて向日葵の翳るところを見た。

 首を振る。彼女が蔑まれるべき存在なら、私は大罪人だ。


「でもやっぱり、香水作戦は失敗かなあ」

「付けすぎたり、とか」

「かも。最近ね、彼、ヘアファッション系の本を読んでるんだ。だから、そういうことにも興味を示してくれていると思ったんだけどさ。あれも季咲お姉ちゃんのお仕事かなあ」

「季咲、お姉ちゃん……」

「そそ、彼のお姉さん。漫画家さんなんだ。たまに彼も、お手伝いみたいなことしてるんだけどさ。今は和風でん……でん、なんとかを描いているって」

「和風伝奇?」

「そう、それそれ! だから、美容師について調べているのは個人的なものだと思っていたんだけどねえ」


 ああ、ダメかあ、とぐでーってした彼女をよそに、私は浮足立っていた。

 そんな素振り、一度も見せたことないくせに。目指してみようか、なんて冗談半分くらいで言ったものに対して、残りの半分に本気を注がれたりなんかしたら。こんな裏話、聞かされたりなんかしたら。そんなの、落ちるに決まっている。


 ああ、今なら胸を張って言える。

 私は、恋に落ちた。


 そりゃあ、どん詰まりにもなるわけだ。これから栄助さんのところへダイビングすることになるのだろうと準備をしていたら、実はそんな段階とっくに過ぎていて、今必要なのは、彼という大きな壁を探っていくためのボルダリング技術なんです、なんて。


 目を閉じる。ん、ちゃんと感じてる。彼がしてくれた告白が、赤い命綱いととして胸の奥のところから伸びている。支えてくれているのだから、ちゃんと支えられるのが、やるべきこと。難しいなあ。褒められたり甘やかされたりするのって、慣れていないから。


 けれど。彼を調略するのに前途多難なことくらい、知っていたでしょう。


「ありがとう、なんて、変な言い方だけれど」


 立ち上がって、スカートの裾を払う。


「勇気を出すよ、私」


 一方的な宣戦布告だ。

 それに気づいているのか分からないけれど、彼女はにぱっと笑って見せて、


「ファイトだよ。結果、教えてね」


 そう言ってのけた。分かってやっているなら、相当に手ごわい恋敵ライバルだ。


「ん、やだ」

「何でよお」

「だって。誰かに聞かれたら、困るもの」


 これは、秘密にしなければならない恋なのだから。けれど、それはあくまで対外的なものであって、私から彼への糸は、別に可視化していたって構わないはず。二人だけの時間というゴーグルを着けた時だけ、昂ったものがサーモグラフィに反応して、それが世界でただ二人だけの、秘密の暗号になる。一つ一つ解いていくことではじめて、ボルダリングするためのホールドが現れるって寸法。

 暗号を解読したいなら、まずは暗号そのものを手に入れなければならない。その時点に駆け引きなんていらない。私は――


「絶対に、掴んで見せるから」


 ゴミ箱にジュースの容器を捨てながら、聞こえないように呟く。助走をつけて、だんだんと速くなるにつれて、おかしくなる。


 やっぱり私は、最低だ。

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