〈4〉これでも、大切に思ってるんだぞ

 その日はどうやって家に帰ったか覚えていない。日を跨いで月曜日、学校で挨拶をしてみても、温度のない返事が返されるだけだった。


 いつだったか冬子が『栄助さんと長谷堂先生は別物』と話していたが、今がその『長谷堂先生』だから無視されているのだと思いたい。辛うじて、SNSへのメッセージが既読スルーであることが救いか。


 その日、旧校舎に来てくれないかと送ってみたが、結局、部活を終えた学生たちが帰る頃になっても冬子は現れなかった。

 これ以上は無理だろう。断念して、ツケの支払いがてら季咲を『ンダベナ』に呼び出す。


「あーはっはっは、ひぃっくくく、ふふふっ、あはははは!」


 事の顛末を話すと、季咲は憚ることなくカウンターに手を叩いて笑ってくれやがった。


「ひい、ひい。教え子にフラれて姉に慰めてもらう弟とか。傑作だわ」

「五月蠅えよ」


 いつ慰めてくれと頼んだのか小一時間問い詰めたいところだが、そうなると倍の言葉を払って大外刈りをかけられるのだから、たまったものじゃあない。


 物心ついてから、季咲に口で勝てたことはなかった。例えば、休日にどこかへ出かけるときのルート選び一つ取っても、である。こちらが提示したものに同意を示しているようで、いつの間にか空を仰がされている。揚げ足がとられているのに、やられた、と思わされては怒る気持ちも萎えていくのだ。

 将来、コレを嫁にする男がいるとすれば、新郎入場の際に万雷の喝采を送ろう。


「でも、ざーんねん」


 ひとしきり笑ったあとで、季咲は枡の酒をグラスに移しながら言った。


「せっかく栄慈と夏希をくっつける予定だったのに」

「誰だ、その夏希ってのは」

「冬子ちゃん」


 言葉を失った。

 そんなこちらをよそに酒を呷ると、季咲は店員を呼び、枡を指してお代わりを頼んだ。またか、と呆れた顔でマスターが顔を出す。


「バーに来て日本酒だけっつー客も珍しいなっすー」

「あれれー、嫌味が聞こえたわね。だったら置かなきゃいいのに」

「オンリーで行ぐなっつってんだべや。カクテルとか、ほら、季咲ちゃんに似合うのこさえてけっがらよ」

「サービスしてくれるなんて素敵ねマスター。じゃあサムライロック、栄助にもね」

「ほんって、この姉弟はよぉ!」


 持ってけドロボー、と物騒な泣き真似をしながら、マスターが奥へ引っ込んでいく。

 季咲は先に注がれた枡酒に一口付けて、ごめんね、と笑った。


「奈緒ちゃんにそれとなく、クラスに綺麗な子がいないかって訊いたら、薄墨冬子っていう名前が挙がったのよ。彼女でしょう、例の血を飲む子」

「……それで、何か。また勝手に人を投影したのか」

「だから夏希だって。別人。そもそも冬子ちゃんを見たことないし、それに私、実在の人ってモデルにできないのよ。どうしても人物像に齟齬が発生するから気持ち悪くなる。名前だけ借りて、中身は入れ替えるの。テセウスの船ね」

「置き換えたのだから許せと?」


 半眼を向けると、てへぺろ、とわざわざ声に出された。


「栄慈だって、あんたでもないんだからね。どちらかっていうと、あんたは父親?」


 季咲は鞄からタブレット端末を取り出し、ほらこれ、とラフデザインを開いた。確かに、似ているようで、似つかないような。そんな優男である。


「俺は、こんな細い奴の父親なのか……」

「別に、奥さん次第じゃないの。奈緒ちゃんが憧れてたわよ。すっごいモデル体型らしいわね、彼女」


 サムライロックのグラスを傾けたところで固まる。完全に遊ばれているらしい。睨み返すと、季咲はまたごめんって、と片手で拝みながらも、さらに追い打ちをかけてきた。


「ねえ、冬子ちゃんとの子供には何て名前つけるの」


 酒を噴いた。グラスの中のものまでが飛散し、顔がアルコールで火照る。

 一方の季咲はちゃっかり避難を済ませており、ニヤニヤとおしぼりを差し出してくれた。


「姉貴」

「うん」

「死ね」

「やだ」


 舌打ちをする。


「いーじゃんさあ。闇を抱えた二人の未来が栄え、慈しむべき素敵なものになるように。父親から名前の一文字をもらうってのも、よくあることだし、ね」

「何が、ね、だ」


 腹立たしいが、これも姉貴なりの励ましなのだと知っているのだから何も言えない。

 あの時もそうだったと思い返し、酒を口に運ぶ手が止まる。


「そういえば、香澄に会ったよ」

「お。元気してるんだ」

「そうらしい」


 知らない姓になっていたことは言わなかった。話したところでどうなるものでもないし、どうしてもらいたいという希望もない。

 さしずめ、報告のようなものだ。あの件を自ら口にできるくらいには踏ん切りがついた、世は事も無し、と。


 それは季咲も分かっていたようで、カウンターの飾り瓶を指で叩いて見せる。お言葉に甘えることにしよう。


「姉貴の好きな銘柄で構わない」

「そ。じゃあ――あ、すみません。『くどき上手』って、置いてるかしら。できれば黒ばくれんがあると嬉しいんですが」


 声をかけられた店員が、気さくに返事をして踵を返す。すぐに彼が美人画の描かれた黒ラベルの瓶を持ってきて、改めて去った後で、季咲に向かってため息を吐いてやる。

 くどき上手。山形は庄内地方の地酒である。


「ガキか、お前は」

「永遠のオトメでーす。話を逸らそうったって、そうは問屋が卸しませんよ、っと」

「手の込んだ嫌がらせをしやがって」

「ノンノン。単純なことだよエレメンタリー、ワトソン君」

「俺がいつ姉貴の助手に……ああ、アシスタントの真似事はしたことあったか」


 頭を抱えると、けらけらと「大切なお抱えだからねえ」と背中を叩かれた。大切ならば叩かず、お抱えならば給料を払ってほしいものだ。


 仕方なく、現物支給の地酒をグラスに注ぐ。

 ラベルの見た目からある程度身構えていたが、予想以上の辛口だった。喉を焼くような感覚が臓腑まで落ちたことが分かると、複雑な気分だった。


 酒のせいではない。かつては浴びるほど飲んでも空っぽだった。だが、今は飲んだ分だけの自覚はある。この違いは一体。


「あんた今、自分が薄情だと思っているでしょう」

「……何故」

「目」


 そう言って、季咲はグラスを置いた。


「お酒を飲めていることで、冬子ちゃんに罪悪感でも感じているのかしら」

「罪悪感、か。……少し、違う気がする」

「おっ、そもさん」


 説破に詰まる。直情的ではないつもりではいたし、以前との対比に肩透かしを食らったような気がしているだけで、冬子への感情が薄れているというわけでもない。むしろ、これ以上踏み込もうとする自分の勇み足に怯える程には、関係を守りたいと思っていた。


「姉貴の言う通り、自分のことを薄情だと思っていたよ。勿論、告白を断られた以上、手を伸ばし続けるのは女々しいだけだろうさ。だが、かといって、あいつが手を伸ばしてきた時にそれを取ってやることさえ放棄しようとしていたことが、自分で許せなかった。それだけだよ」


 そうでなければ、冬子を『かわいそうな子』と切り捨てた者の末席に座ることになってしまう。自惚れるわけではないが、それでも。

 季咲は酒のグラスを置くと、追加で注いだ一杯を飲み干してから、残った瓶の方を差し出してきた。


「いいのか」

「ええ。背中を押して欲しいだけの、女の子みたいな相談でもされていたら金玉蹴っ飛ばしていたところだけど。全部あんた自身の腑に落ちていて、単なる自棄酒だってことが分かったからね。あとは一人で飲みな。その代わり、次は遠慮なく集らせてもらうんでヨロシク」


 微笑んで、財布を片手に席を立つ。会計を済ませてから、一度、何かを思い出したように振り返った。


「何かあったらちゃんと言いなよ。力になるから」


 明日は雨だろうか。そんなことを考えていると、その予想は斜め上に裏切られた。


「父さんたちが死んで、あんただけなんだ。これでも、大切に思ってるんだぞ」


 肩越しに手を振っていく背中を見送る。

 明日は雪が降るに違いない。


 ……姉の意を酌んだ酒は、やはり辛口だった。

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