〈3〉ひどく、悲しそうな顔をするんだね

 もつれる足で、酸素を求めて椅子から立ち上がる。ジャケットの裏でシャツが背中に張り付いているのが分かる。


「凄かったです。とても勉強になりました」


 笑顔のサクソフォニストが、手を差し出してきた。苦い握手で返す。


「また、ご一緒させてください。栄助さんと仰いましたか。え、あれっ。ピアニストで栄助って、まさか、長谷堂さんじゃあ……」


 彼女の顔に笑顔が咲いた。握られた手の力が強くなる。


「私、ファンなんです! わあ、日コンの頂点に立ったこともある山形の天才と共演できるなんて、夢みたい! 引退されていたとばかり。復帰されるんですか」

「いいや、すまないが。今宵限りだよ」


 夢みたい、か。確かに、悪夢に飛び起きた夜半の気分だ。そうであったらどれ程楽だろう。

 ステージを降り、通り過ぎるテーブル席から伸ばされたハイタッチの手たちに会釈で返す。


 酔っぱらったアーチをすり抜けるとき、不意に名前を呼ばれた。


「栄助くん、だよね」


 振り返って後悔した。例の若手社員御一行様の中に、見憶えのある顔があった。また、過去の悪夢だ。


「……香澄か」


 名を呼ぶと、角を跨いで両隣の女性が色めき立った。


「なになに、渡邊さん。この人と知り合いなの」

「紹介してよお。ねね、この人カノジョとかいるのかな」


 香澄は伏し目がちに「大学の同級生で。彼女は分からない」と声をくぐもらせた。


 渡邊という姓が耳に馴染まない。付き合っていた頃は富樫だった。あの色男はまた別の姓だったはずだ。何があったかは知らないが、これも運命というやつなのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい。今さらになって彼女を責めるつもりなど毛頭なかった。むしろ、おかげで冬子の闇に近づけたのだと考えれば、感謝をしてもいいくらいだ。 


「髪、伸びたな」

「あの時も、これくらいだったよ」

「そうか。……そうだったな」


 あの男との関係が終わっていることを悟った。

 こういう時、女の切り替えの早さというか、強さは眩しい。つい最近まで引きずっていた自分ごと振り切るように、背中を向ける。


「ピアノ、素敵だった」


 一瞬、脳が煮沸しかけた。


「そう見えたのなら見込み違いだよ」


 これではただの八つ当たりだ。過去最高に無様な演奏をしたのは、他でもない自分のせいだというのに。サクソフォニストに対してもそうだが、どれほどの真実であっても、口にする方法を間違えるとこうも皮肉に響くのか。

 俯いた想い出に別れを告げて、カウンター席へと帰る。


 冬子はただ、おかえりなさい、と言っただけで、黙り込んだ。視線はカウンターの向こうで用意されているビールの泡を追っている。


 それらが運ばれていったところで、彼女は口を開いた。


「演奏、届いたよ」

「そうか」

「うん。だからさ――」


 冬子に被せた帽子のツバから、その表情が現れる。


「そんな顔しないでよ」


 お前こそ、という言葉を飲み込んだ。徒に触れようものなら、どちらからともなく堤防が決壊してしまいそうだったから。


「『食事』、やめるよ。もう、やめる」

「違う。お前のせいじゃあない」


 魚の小骨が喉に引っかかっても、調理した人物には何ら罪はない。問題は、骨があると知っていながら、注意を怠った俺なのだから。


「ひどく、悲しそうな顔をするんだね。どうして。止めさせたかったんでしょう」


 正論の真綿が首を絞めてくる。


「……もう一つの約束はどうするんだ」

「ん。先生の思う恋を教えてってやつ、だよね」


 先生という単語が、堤防に穴を開けた。その小さな穴を隠すかのように、冬子は帽子を目深に被った。


「そうだね。考えておくよ」


 足早に店を出ていくのを追って立ち上がる。ちょうど給仕から戻ってきたところのマスターに、ツケといてくれと告げて後を追った。











 地上に上がる階段を駆け上がったところで、すっかり深くなっていた夜の色に立ち惑う。

 駅へと続く階段には冬子の姿が見当たらない。振り返ると、そこに彼女の背中があった。すれ違うタクシーのライトに目が眩み、そのわずかな時間で見失う。角を曲がったか。


 霞城公園を突っ切って帰るつもりらしい。

 距離こそ容易に縮まっていくものの、亀を追うアキレスのように、まるで無限の時間に感じられる。あの細い脚に、どれほどの力があるのか。


 だが離してはいけない。彼女が壊れてしまう。

 否、違う――壊れてしまいそうなのは、他でもない俺自身だ。


「冬子!」


 霞城セントラルのロビーから漏れる明かりの前を通り過ぎたところで、ようやく腕を掴む。

 袖越しにさえすべての指が反対側まで届いてしまう程、華奢だった。

 彼女は振りほどかず、止まってくれた。


「……離していいよ」


 こちらを向かないままで絞り出された声に、手の力を強める。


「大丈夫、逃げないから。本当だよ」

「断る。別に、疑って掴んでいるわけじゃあない」

「じゃあ、どうして」


 肩に手をかけて、向き直らせる。

 伏せた表情は帽子のせいで隠されていたが、唇を引き結んでいることは分かった。


「俺が冬子を離したくないからだ」


 はっと、唇が緩んだ。少し震えたように。何かを堪えるように。


「お前が必要だ、冬子」

「……この間のフリの続きなら、もういらないよ」

「フリじゃあない。心の底から想っている」

「まさか。嘘だよ。ああ、そうか、体目的なんでしょう。私が『食事』を止めれば、うら若き生徒のハダカを見られなくなっちゃうものね」

「いいや、捧げているからじゃあない」

「じゃあ、先生の心を埋めるためだ。私がいることで、抜けるものね。ガスとか、色々」

「奉げられているからでもない」

「じゃあ一体なんだって言うのさ!」


 悲痛な声が地面に叩きつけられた。


「私は……っ! 私は、最低なんだよ! 栄助さんが避けていたピアノをせがんだくせに、その音を傷つけてしまったのは他でもない私なの! 私が『食事』なんてしていなければ、こんなことにはならなかった!

 『かわいそうな子』なんて言葉じゃあ甘すぎる。栄助さんの大切なものを踏みにじった。呪わしくて! 忌まわしくて! 穢らわしくて――」

「もう、いい」


 肩を抱き寄せる。帽子越しに、震える小さな頭をあやす。


「俺が悪かった。お前を振り回してしまった」

「そんなこと……」

「ある。逆なんだよ、冬子。お前が『食事』をしたからでも、お前がピアノを弾かせたわけでも、お前がミスをさせた訳でもない。俺が『食事』をさせて、俺がピアノを弾くことを決めて、ミスをしたのも、俺だ」


 思い返せば、から回っていたと思っていただけで、最初から成立はしていた。

 こうして冬子が自分を責めているのも、俺の所為だ。そうやって彼女を傷つけたのだと俺が傷つき、それを見た冬子が、そうさせてしまったのは自分だとまた傷く。


 ただ、それだけ。ただそれだけのこと。

 そのまますれ違ってしまわなかっただけ、マシだったかもしれない。


「そんな。詭弁だよ」

「だが、事実だ」


 そして、その原因はこちらにある。教師と生徒という関係が念頭にあって、最後の一線を超えない距離で彼女の『食事』に向き合っているつもりだった。だが、それを保っているつもりだったのはこちらだけで、それは冬子との共通認識ではなかったのだ。

 もっと深いところまで踏み込んでいるのだと、正直になれれば良かっただけだった。それを許さない社会や風潮が悪なのか。


 笑い飛ばす。くだらない。彼女の涙を見た以上、些末な事。

 悪なのは、一欠片の勇気も持てなかった自分だ。


――あんたは最悪、不逞教師としてクビになることも覚悟しなさい。


 季咲の言葉を思い出す。クビ程度、甘すぎる。そうさな、陳腐だが、俺は。世界を敵に回すことになっても、冬子のためにあることを誓おう。


「なあ、冬子。お前は、成り行きで俺を食ったのか」

「……ううん。そんな理由じゃあないよ」

「なら、俺のもそんな理由じゃあないと言わないと、分からないか」


 腕のなかで、鼻を啜りながら頭が動く。横に、二回。


「今、理由があるとすれば、それはお前だ。薄墨冬子のすべてが欲しい」


 肩が跳ねるのを押さえつけるように、一度強く抱きしめた後で、そっと体を離す。


「好きだ、冬子」


 おずおずと、たどたどしい視線が見上げてきた。

 初めて目があったのかと思うくらいに、背筋が痺れるのを感じる。

 これが、この瞳が、彼女の素の色。今にも壊れそうに、美しかった。


 冬子へと歩み寄る。彼女の肩は震えていた。

 帽子が脱げ、ほどけた髪が月夜に溶ける。そうはさせない。


 腰に手を回し、確かに繋ぎ止める。冬子しか知らない俺を注ぎ、俺だけが知っている彼女を、ノンアルコールカクテルの甘さごと吸い尽くす。

 まるでこの世の終わりに際して貪っているようで、滑稽にさえ思えたが、悪くない。冬子と心を繋いだ状態で終焉を迎えるのならば構わないとさえ感じた。


 背後で広場の噴水が上がった。打ち水を兼ねたもので、子供が遊べる程度の高さしかなく、ドラマのようなそれとは程遠い。しかし、場末の小心者には十分すぎる恵みだ。


 奥の方へ滑り込んだとき、冬子がはっと息を吸った。


「ごめん……なさい、私。そういうつもりじゃ」


 彼女は自分が突き放したのだと気付いて、子供のようにいやいやと首を振る。

 拙い。捕まえようと手を伸ばしたが、その手は空を切った。


「どうしていいのか、わからないよ。だってこれは、赦されたら、いけないことでしょう。どんな顔をして栄助さんの心を受け止めたらいいのかなんて、わからないんだよ」

「冬子」

「ごめんなさい。今は……来ないで」


 一度だけ振り返った彼女は、涙声を残して去っていった。


 霞城公園へと消える後ろ姿を茫然と見送って、ようやく我に返り、手近な壁に拳を叩きつける。通りかかったサラリーマンの驚いた顔に、舌打ちをして背を向けた。

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