〈2〉『灰かぶり』って、私にぴったりだよね
それから週末までは、スキマ時間を見つけては鍵盤を叩いていた。おそらく、現役時代にもこれほど胸を躍らせてピアノに向き合ったことはないように思う。奈緒が来る金曜も、予定が入ったという名目で断らせてもらい、その日の晩はカロリーメイトで済ませた。久々に口にすると、存外美味かった。
冬子とは夕方に霞城セントラルのロビーで待ち合わせ、そのまま『ンダベナ』へ向かう。
マスターには話を通していたし、レストランとしての側面も持っているため杞憂かもしれないが、彼女には用意していた帽子を被ってもらった。
まだ酒を飲むにも早い時間だ。
がらんとしたカウンター席に陣取ると、マスターがにたにたと顔を寄せてきた。
「おい、栄の字。どこでこだなめんこい子ば捕まえて来たんだず」
「捕まえたとか言うな、鬱陶しい。ピアノに興味があるうちの生徒だと言ったはずだろう」
一蹴するも、彼は「どうだかねえ」と上機嫌でフードメニューを二種類取り出した。レストランのものと、バー用のスナックのものだ。
「嬢ちゃん、何でも好きなもの頼めな。おじさん負けてけっがら」
「どうせなら全持ちしろよ。今弾いて帰ってもいいんだぞ」
「かーっ。
軽口を叩き合っていると、スーツの肘の辺りを引っ張られた。冬子が帽子のツバから送ってきた窺うような視線に、頷いて帰す。
「悪いな。ある程度客が入ってから弾くという約束なんだよ」
それが、今日この場を借りる条件だった。弾かないのならば季咲も呼んだ挙句に料金を倍、他を当たるにしても生徒を酒場に連れてくる教師がいると言いふらす、などと脅してくるのだから、抗えるはずもなかった。
「頼んでも弾いてくれねえくせに、彼女のお願いなら二つ返事ってんだから、こいつは」
「ほお、マスター。やっぱり今日は奢りにしてくれるのか」
「なんだず、ちょっとからかっただけだべしたや。愛の力はすげえってよ」
「
「ぐ、悪りがったから、そんな怒らねえでけろや」
彼の態度を見れば、あの脅し文句も冗談だろうことは分かる。
別にそれを分かっていてマスターに頼んだわけではないが、こちらとしても、どこか、ここで弾きたいという想いがあったのは本当だった。
きっかけが、欲しかったのかもしれない。そして、再びピアノを誰かのために弾くことを、見届けてくれるオーディエンスが。
「ねえ、マスターさん。ノンアルコールのカクテルで、甘めのものってありますか」
「ぴったりのがあるぜ。フルーツジュースを混ぜたヤツでな。その名も『シンデレラ』!」
「わあ、素敵」
明るい声を出した冬子は、手際よく準備を始めたマスターに聞こえないよう耳打ちしてくる。
「『灰かぶり』って、私にぴったりだよね」
「言っておくが、仮にマスターがお前のことを知っていても、皮肉を言える脳味噌はないぞ」
「ふふっ、だろうね。ちょっとムサい――こほん。もとい、温かい人だもの。栄助さんが通う理由も分かるよ」
本当に、こいつは。見透かされたのが悔しくなって、煙草に火を点ける。
「何か食べておけ。また風邪でも引かれたら敵わん」
「はあい。じゃあ、アボカドのミニピザと、ライチを二人分で」
「好きなのか。ライチ」
「うん。ちょっとえぐみのある甘さがいいよね」
栄助さんのみたいで、と要らぬ囁きが添えられた。誕生日であるせいか、場所が場所であるせいか、今日の冬子は浮足立っているように見える。
「なんだず、やっぱり美人はライチが好きなんだな。ほら、あれだ、楊貴妃。三大美女の。あいつもライチが好きだったって、テレビかなんかで見たぜ」
「む、失礼な。ちゃんと私は風に飛ばされますう」
「えっ、は、なにて?」
混乱したマスターが、視線で縋りついてきた。
「楊貴妃には豊満説があってな。彼女よりも前の時代に、趙飛燕という痩せぎすな女性がいたんだが。玄宗皇帝がそれを引き合いに、楊貴妃に対して『そなたならば風に飛ばされまい』とからかったという逸話のことだよ」
「中国の四字熟語には『痩燕環肥』というものがあるんです。趙飛燕のようにスレンダーで、出るところは玉環――つまり楊貴妃のように。って。
ああでも、まあ、傾国の、って意味では合っているかもね。栄助さんを傾けさせる女だもの、私」
「言ってろ」
マスターは唖然と声を漏らした。
「なんつーか、季咲ちゃんみたいな子だな」
「ふざけろ。アレと一緒にするな、アレと」
「ねえ、その季咲ちゃんっていうのは、どちら様?」
「前に話したろ。姉貴だ」
「んだのよ。こいづら本当に仲良ぐってなあ――」
勢いを取り戻したマスターの思い出語りは聞くともなく、炭酸水で喉を潤してから、気もそぞろに指のストレッチを行う。
もし。俺のピアノを楽しみにしてくれていたのならば。必ず、応えてやりたい。
軽くナッツをつまんでいるうちに、客も集まってきた。カウンターの個人客が二人、テーブル席には家族連れと、団体様御一行が二組。
団体の一方は自分と同年代くらいの連中の集まりだった。上司の悪口で盛り上がっているのを聞く分に、どこかの会社の若手の集いらしい。老害連中とつるむのが嫌なだけで、飲みニケーションとやらは健在か。
そろそろ頃合いだと、腰を上げる。
「冬子、リクエストはあるか」
「そうだね、アメイジング・グレイスとかどう」
「なるほど。『風に立つライオン』か」
アメイジング・グレイスがメロディに取り入れられているさだまさしの楽曲を挙げると、冬子はカクテルグラスに挿したストローを咥えたまま満足そうに笑った。
「さすが、分かってるね。話が早くて嬉しいよ、栄助さん」
「じゃあ、俺はルパン三世のテーマな」
「それは請け合わん。茶々ではなく酒を淹れていろ」
渋々と引き下がった中年を尻目に、いつかは、とすまなく思う。
「今から演奏されるんですか」
ピアノ席へ向かおうとしたところで、カウンターの端に座っていた女性から呼び止められた。
「君は、確か。サックスの」
記憶にある顔だった。春にここで見かけて以来、アニメソングもイケる口だということで、季咲がいたく気に入っていた。
「その、差し支えなければ。ご一緒させていただいても構いませんか」
「ああいや。申し訳ないが――」
「いいよ」
答えたのは冬子だった。
「安心してよ。栄助さんのピアノ、聴き逃さないから」
そう言って、腕を軽く叩いて見せる。
「上等だ」
足下からサックスのケースを抱え上げた女性と共に、ステージへ向かう。
「せっかくだ。ジャズアレンジと洒落込もう」
「わかりました。胸をお借りします」
それはこちらの台詞だった。こちとら、腕には現役を退いて六年もの鈍りがある上、胸にも先約が居る。貸してやれる空きなどないのだから。まして、目の前にあるのはグランドピアノ。家にあるのはアップライトのため、今回に向けたリハビリを始めるまではご無沙汰だった。
席に着く前にピアノの屋根を上げる。使わないが、ついでに気分で譜面台を起こす。
鍵盤を二オクターブ分ほど確認すると、中々どうして、急な頼みだったというのに調律に支障はない。マスターは伊達や酔狂で音楽を愛しているわけではないと、改めて思い知る。
宴もたけなわの客席に一礼する。マスターと冬子以外はろくに意識を向けていないが、それでいい。大仰で格式ばった舞台を用意するような代物じゃあない。
「よろしく頼むよ」
一人と一台に声をかけ、深呼吸。鍵盤に指をかける。
シフトペダルを踏んで祈りを込めた。元々ピアノは三本の弦を叩いて一音を出す。鍵盤ごとハンマーをずらすことで叩かれる弦が減り、音量の減少と音色の変化が与えられるペダルだ。
アメイジング・グレイス。かつて黒人奴隷で富を成していたジョン・ニュートンが、嵐の航海で自らの生命の危機に瀕し、神に祈ることを理解したきっかけから芽吹いた懺悔と感謝の詩。
客席の誰かがそれに気付いた。一瞬、ざわめいたかと思うと、酔いの喧騒が波のように引いていく。まるで、ニュートンの貨物船の穴が塞がれた時のように。
客席の様子を耳で確認して、ペダルから足を離す。それを合図に、ソプラノサックスが産声を上げた。
信心も碌に持ち合わせていない俺が祈ったところで、神を困らせてしまうだけかもしれないが。それでも、今だけは、神に祈ってみようと思う。
「(なあ、神よ。あの日、道を踏み外して彷徨っていた俺は、救い上げてくれたんだろう)」
簡単なことだ。それと同じ恵みを施してくれればいい。
誰もが皆、傷を負っている。ニュートンも、嵐の航海を転機として行動を改めていったが、それでも以降六年もの間、奴隷貿易に関わっていた。そんなことを、ここにいる客席の皆は知っているだろうか。世界中の、祈りを捧げる人々は知っているのだろうか。そして、それを知ることで、評価を変えるだろうか。ニュートンは奴隷貿易を断ち切れなかった悪人なのだから、この詩も欺瞞と罵るのか。あるいはこの詩を以て、彼の心の痛みを赦すのか。
どちらが正解などとは断ずることができない。かといって、そこで思考を放棄してしまえば、心はたちまちに死んでいくだろう。
テーブル席の若い社会人たちを思い出す。
理不尽な扱いはされたくないと願いながら、自分たちは悪口三昧だ。では、彼らは悪なのか。それとも『自分たちも苦労してきた』などという御立派な大義名分を振りかざして、部下の苦しみに手を差し伸べる努力を放棄している老害の方だろうか。どちらの言い分も理解できる。未熟ならば邁進するべきだし、社会に出れば楽なことばかりではないということも真実だろう。
恋や愛もそうだ。ひいては、人間関係も同じこと。
初めて『社会人としての笑顔』で顔を覆ったとき、季咲はこちらを指さして大笑いしていた。気持ち悪いと。しかし実際、仮面を被っていた方が効率も良ければ評価も高くなる。そう反論すれば、彼女は『薄利多売を目指すなら、せめて売りなさいよ』とまた笑い転げた。
一体、何が正しいのだろう。手首の傷を隠している冬子が悪いのか。それとも、それを見てしまって逃げ出した荒木が悪いのか。あるいは、冬子を勘当した両親か。もしかしたら、冬子に血の味を教えた過去なのかもしれない。
恨むだけなら簡単だ。人生が歪められたことを、運命だとか、サダメだとかいう言葉を口にして逃避すればいい。だが、その中にあって、手を伸ばそうと藻掻く者もいる。
これから先、未来に何が待っているかも分からない。そんな恐れから、彼女を解き放つことができるのなら。喜びと安らぎのベールに包まれるのなら。
それが、たとえ仮初のものだとしても。
祈りを込める。ラウドペダルを踏んで弦からダンパーを離し、
マスターには茶化されたが、愛おしい女ただ一人のために鍵盤を叩くのも悪くない。
賞レースの勝敗や技巧的な優劣のプレッシャーから解き放たれ、己の持てる感受性のありったけを指先に込める。鍵盤を愛撫する。彼女に伝われと切に願いながら。
ささやかでいい。俺たちにとっては、それが
大サビのところで、一瞬、音が跳ねた。
左手の和音の着地点がずれて、歪に重なった。複雑な和音のフィギュレーションを弾くわけでもないのに指がもつれたか。否、これは。
「(……ちぃっ)」
もつれたのは腕だ。神の試練とやらは厄介なことをしてくれる。練習では一度も発生しえなかったアクシデントが襲う、本番の悪魔を送り付けてくるとは。ああ、これも逃避か畜生!
視界の端でカウンターを窺う。冬子の指からストローが落ちた。
最悪だ。譜面も読めず、今のミスもアレンジの一つに見えている素人の目は誤魔化せただろうが。こいつにだけは、目一杯に伸ばした手の歯切れが悪くなったことは見抜かれてしまった。
当然だ。彼女は薄墨冬子なのだから。おそらく、その理由さえも。
気を取り直す。祈りのための指を組む。天を仰ぎ、剥がれてしまった左腕の瘡蓋は意識の外に追いやる。
頼む。拙い手なりに作り上げた蝋の翼なんだ。どうか、焼かないでくれ。
しかし懺悔室の扉は、演奏終了という名の神父によって閉ざされた。
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