第三章 オウゴンリツ

〈1〉逃げ出したんです

 他校での職員会議を終えた帰り、コンビニに寄って煙草を補充する。分煙の時流を汲んでめっきり少なくなった店頭灰皿で一服していると、スマホの通知音が鳴った。

 冬子からだ。医者の診断はやはり風邪で、今では熱も下がってきているという。今朝には私服のまま寝かせたせいで、皺になってしまうと恨めしそうにされていたこともあり、メッセージを送られて来たことに安心する。


 しかし、乙女心とやらは未だに解せない。朝まで部屋にいたことも、施錠しないまま帰ることを申し訳なく思ったからなのだが、やれ寝顔を見ただの、やれ起きたばかりの顔を見るなだの、その時点では熱が引いていなかったくせに姦しく騒ぐ力は残っている始末だ。二年間の授業では随分と控えめな子だという印象を抱いていたが、とんだじゃじゃ馬である。


 首を回すと、いやに骨が鳴った。週の頭から冬子に付き合い、明けた今日は他校のベテラン教員様との御付き合い。今日は、簡単な雑務を済ませて俺も休もうか。


 カフェラテのボトルを傾けながらエンジンをかける。ここからなら東根市を経由するより、庄内まで伸びる長い国道を山形方面に向かった方が時間効率がいい。

 ラーメン屋の看板を物色しながら信号を曲がったとき、目立たないようなところに建っている病院が目に入った。どうやらここは、精神科らしい。

 ウィンカーを挙げたのは気まぐれだった。


 学年主任へと電話をかけ、今日の簡単な報告と、直帰をする旨を伝え、車を降りる。

 入口や駐車場の狭さに比べると、建物自体は随分と大きいように見える。ガラス張りの向こうに見える受付と待合室も、やはり広くはない。個人の診療所レベルだ。


「こっち側は牢獄、ってわけか」


 言い方は悪いが。


 かつてアルコール依存者に片足を踏み込んだとき、心配した奈緒から精神科を勧められたことがある。あまりにしつこいものだから一度だけ大きい病院にかかった。あの時のことは今でも笑える。簡単なテストを受け、安い同情をされ、あっさりと薬を渡されただけで、帰されたのだ。『次は来月に』という首輪で繋がれた上で、だが。

 結局翌月の診察はボイコットをした。しかし、予約確認の電話も来なかった。だから基本的に精神科医は信じていない。カモを見つけては薬代を搾取し、鬱が治まったとでも主張すれば、今度は躁病の気があるとでも診断され、首輪を付け替えられるのがオチだろう。


 受付で、身内の異食症を相談する体を装うと、本人を連れてこいと一蹴されてしまった。まあ、元より気まぐれだったのだ、落胆することもない。

 駐車場に戻り、車に寄りかかってピースを吸う。

 ただ、期待は確かにしていなかったが、一縷の望みさえ与えられないのは癪だった。直帰を報告してしまった以上、手持無沙汰になったことも気怠い。さて、どうするか。


「えっ、長谷堂先生……」


 ふと、声をかけられた。隣接する調剤薬局から出てきたらしい、小さな袋を持った女性だ。

 ちゃんと飯を食っているのかと思うほどやつれている。まとめただけの髪も、およそ同じ表現を適用できる季咲とは打って変わって、乱れ放題だった。見た感じは二十代のようだが、白髪が目立つ。


「そうですが。どちら様でしょう」

「あ、ええっと、すみません。憶えていませんか、荒木です」


 名前を反芻して、記憶を辿る。やはり知らないなと諦めかけたとき、面影の近しい人物に行き当たった。


「ああ、荒木先生でしたか。すぐに出てきませんで面目ない」

「こちらこそ、すみません。もしかして、長谷堂先生も……ですか」

「ええっと。私も、とは」


 共通認識があるらしいが、その指し示すところが見えてこない。黙っていると、荒木は「お話があるんです」と言った。

 彼女は自宅が近いため、徒歩で通院しているのだという。立ち話という様子ではなさそうだったため、車に乗せ、近場の喫茶店へと向かった。


 行きつけなのだというその店は、アンティークの調度品で溢れていた。オールドノリタケなどの西洋アンティークもさることながら、糸巻や吹雪の種類別に並んだ切子グラスも美しい。

 席に着くと、ビスクドールの視線を感じるようで落ち着かなかった。とくに目つきの悪いようなものを睨み返すと、店主がサクラビスクなるものだと教えてくれた。マニア垂涎の和製ビスクドールらしい。コレに日本人形を超える恐怖を感じてしまう俺には、アンティークはまだ早かったようだ。

 苦笑しながら、氷温熟成のコーヒーと、クッキーを二人分注文する。


 メニューは他にいくつかのコーヒーがあるのみ。シンプルでいい。ソムリエを目指すわけでもないのだから、雰囲気を味わえて、コーヒーが美味ければ言うことはない。

 問題は、時間を共にする相手、なのだが。


 一口目を味わい、話を切り出そうとしたところで、荒木が頭を下げてきた。


「ごめんなさい。結婚して辞めるって話、嘘だったんです」

「ちょっと、顔を上げてくださいよ。どういうことか、さっぱり」

「す、すみません」


 よく謝る女だ。鬱陶しいが、この手合いは注意したところで直るものでもない。しかし、以前からこんなだっただろうか。

 彼女の言葉を待つも、一向に沙汰がない。


「説明をお願いします」

「あの。長谷堂先生は、どうしてあの病院に」

「少し思うところがありまして。まあ、身内で、ちょっと」

「ということは、先生ご自身が通院されているわけではないんですか」

「あ、はい。そうですね」


 何が言いたい。俺をも病人扱いしたいのか、単に、同じ病院に知った顔が通われることを懸念してのことなのか。

 暫くじっと俯いてから、荒木は口を開いた。


「私、鬱になって、逃げだしたんです。あの子から」

「あの子とは、誰でしょう」

「薄墨さん……です」


 ウツブシサン。それが一体誰のことを指しているのか理解したとき、全身が総毛立った。しかし、対象が分かっただけで、荒木の言っている意味はてんで分からない。

 あいつは、冬子は。飄々としてこそいるが、他人を追い詰めて遊ぶような趣味はない。最も近しい人間である親から突き放されているのだ。追いやられることの痛みは、あいつ自身が一番分かっている。


「どういうことか説明してくれ」

「ひっ、すみません。また怒らせてしまって、すみません」

「説明しろと言っているんだ。困惑こそしているが、怒っているわけじゃない」

「で、でも。すごい、声が怖いですし」


 縮こまった体を見て、自分がテーブル越しに迫っていたことに気付き、腰を落ち着ける。


「すまない。こっちが素なもんでね」

「あ、そうなんですか。ごめんなさい」


 また謝った。重症だな。

 しかし、抜かった。今さら仮面を取り繕うのも面倒で、そのまま先を促す。


「薄墨さんの腕を、見たことがありますか」

「腕、か」


 会えば必ずと言っていいほど目にしてはいるが。


「いや、あいつは常に長袖だからな。それがどうした」

「以前、学園祭前に学年で大掃除をした時、見てしまったんです。雑巾を絞るために、バケツの中で少しだけ捲った袖の下に……リストカットの痕が」

「そうか。それが――」


 嫌な予感がして、言葉をためらう。

 クッキーを齧り、コーヒーで流し込み、無理やり腹を据えさせた。


「君の鬱と関係が?」


 荒木は、小さく頷いてから、すぐに首を振った。


「いえ、彼女のせいだと言うつもりはないんです。ただ。あんなに優しくて頭もいい子が、心の問題を抱えていたことに驚いてしまって。どうしていいか分からなくなって……新潟のご実家に、電話をしたんです」


 カップを持ちかけた手を止めた。


「ご両親は、どんな話を」

「話さえ、させてもらえませんでした。はじめはお母さまが出て『手続き上名前を貸しているだけで、あの子と関わるつもりはありません。二度と電話をしないでください』と。夜に改めてお父さまからお電話いただいて、同じような話を……」


 だろうな。改めてコーヒーを口にする。

 真偽を疑っていたわけではないが、本当に、冬子は勘当状態にあるようだ。しかし、仮にも実の娘を預けている教師に対しても憚ることがないとは。余程忌まわしいらしい。


「他の誰かに相談は」

「できませんでした。私が変に蒸し返すことで、薄墨さんの学園生活を壊すんじゃないかって」

「だが悩みは募り、自分の方が壊れてしまったと」

「……はい」


 負のループに堕ちた、ということか。去っていく香澄の背中を思い出す。自分一人で抱え込むことがろくな結果にならないことは、身を以て知っていた。だが、同情はしない。


「ある時、一組の工藤先生が気付いてくださって。校長先生たちを交えて、お話して。それで、寿退職ということにして、一旦教職から離れることになったんです」


 荒木は騙していてすみません、とテーブルに額を擦り付けた。


「顔を上げてくれ。周囲を騙しているといえば、俺の態度も同じだよ」

「そっ、それとこれとは、全然っ」

「同じだ。いいな」


 首を縦に振らせる。煙草を吸いたいが、ビスクドールの前じゃあ無理か。


「それじゃあ、校長と工藤は、冬――薄墨のことを知っているんだな」

「いいえ。校長先生たちは、梅津さんたちのことだと思っているようです」

「ああ。確かにあいつのグループは、授業を聞かないところがあった」


 梅津。冬子がよく下世話な知識の情報源として挙げる女子生徒。そういえば、奈緒は苦手だと話していたか。冬子くらいならば黙っていても放っておかれるが、そういうタイプでない以上、表面的には付き合っていかなければならないらしい。女子社会とやらがあるんだそうな。


「腕を見られたことを、あいつ自身は」

「それも、知らないと思います」

「そうか」


 もしかしたら、本人は気付いているかもしれないが。

 春に冬子と初めての『食事』をしてからも、彼女の授業態度は自然だった。そんな姿は、闇を知ってしまった荒木にとって、至極不自然に映ったのだろう。

 『かわいそうな子』は、普通の子でいられるように頑張っている。

 だが、頑張りすぎた。溶け込む努力をするほど、浮いていく。

 酷く空回りした、悲しいサイクルだ。


「話してくれて助かった」


 飲み干したカップの底に浮かぶ芸者の絵を見るともなく、ポケットを探る。


「俺は帰るよ。いつか、荒木先生の復帰を待っている」

「通院の経過次第、で、改めて校長先生とお話させていただこうと思っています」


 今にも泣きそうなくしゃくしゃの顔だったが、まだ、本人に復職の意思があるようならば、これ以上は余計な世話になるだろう。

 財布から二人分の金額を出し、席を立つ。


「その、私が言えたことではないですが。頑張って、ください」

「大丈夫。俺は壊れんさ」


 笑いかけて、店を出る。


 俺は壊れることはないだろう。残骸を掻き集めて粉々にすることくらいはできるだろうが、元から壊れているのだ、今更の話である。

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