(5)おーじーやー!

 アパートまで送ってもらって、ねぐらのドアを開けた時には、もうフラフラだった。

 けったいな恋敵の煤落としをするように、靴を脱ぎ捨てる。今日は幸せだったのに、ふて寝をしたくもあって、複雑。布団を出すのも面倒くさいな。フローリングの上でいいか。


 リビングの扉を開けて、気がついたら、本当にフローリングに突っ伏していた。私はいかれてしまったのだろうか。や、冗談だって、冗談。

 起き上がろうとしたけれど、腕に力が入らない。やばい、頭痛もしてきた。仰向けになっておでこを触っても、熱があるのかどうか分からなかった。そりゃそうだ。同じ体温だもの。


 薬、押し入れのどこだっけ。ああ、その前に何か口に入れなきゃか。カロリーメイト、買って来ないと。ゼリータイプの方って、あそこに売ってたかな。だるい、眠い、動きたくない。

 まして暗い中、押し入れまで辿り着いて薬を探すとか。ホラーゲームじゃないんだから。けれど存外、本当に頭の上にいたりしてね。私を連れていこうとする死神とか。


 ぼうっとしてきた。今日、何をしたんだっけ。


「そうだ、香水」


 闇の中、フローリングの上に指を滑らせる。けれど、袋がない。もぞもぞと足も動かして探すけれど、やっぱり、ない。手に残っているはずの香りを確かめようとしても、頭にかかったモヤは鼻まで覆ってしまっているらしく、彼との想い出をかけらも見せてはくれない。


「はは……ああ、そうか」


 これは夢なんだ。どこまでが本当で、どこからが妄想なんだろう。


「ピアノ……聴きたかった、な……」


 願望。つまり、これは妄想の可能性大。けれど、待って、そうなると、直前に栄助さんがピアノをしていたと話してくれたことさえ嘘になるわけで。

 じゃあ、その前は? 彼の部屋に行ったことは? そうだったら、エプロンの君のことなんて、皮肉どころか、バカみたいな話じゃあないの。


「クールー……病」


 あれは、どうなんだ。おぼつかない手でスマホを引っ張り出し、眩しいディスプレイに目を細めながら、ブラウザを起動する。

 検索すると、ヒットした。やっぱり、食人族に取り憑いた呪い。

 これは、本当。昔、どこかで情報を得ていて、深層意識下にあるそれを、今になって死神が拾い上げてきたというわけでもなければ、多分。


 スクロールしていく。病状には三段階あるらしい。第一ステージは、歩行が不安定になり、震えや発音障害が現れる、とのこと。

 まるで、今の私だった。立つことさえままならず、歯がかちかちと鳴って、舌がもつれる。


「栄助、さん……っく」


 初めて血液を口にした幼い頃から、そろそろ、ちょうど十年が経つ。

 堕ちる。沈んでいく。

 そんなの嫌だと泣き喚く私の隣で、分かっていたことだろう、と嘲笑う私がいる。

 自分同士の喧嘩なんて、滑稽な幻覚まで見始めて。見たくなくって、気力を振り絞り、壁の方まで逃げる。背をもたれると、頭の血が下がったおかげか、少しだけ楽になった。


「助け、て……っ、ひっく……助けて、栄助さん!」


 叫ぶと、ばん! と音を立てて、ナニカが突入してきた。ねえ、死神さんや、せめてピンポンくらいしてくれてもいいんじゃないかしら。


「冬子、大丈夫か!」


 大丈夫かって、変なことを訊くのね。手にかける者の状態を気にかけるなんて、優しいんだ。

 次の瞬間、ぱっと明かりが点けられた。ああ、鎌を振るうにも見えなければ仕方がないのか。


「冬子! おい、分かるか。しっかりしろ」

「…………えっ」


 肩を揺すられて、私を覗き込む瞳が、人間のものだと気がついた。

 タバコの臭いのする吐息で、それが、彼のものだと分かった。


「栄助、さん……?」


 うそ。ほんと。や、うそ。

 彼は私の額に手を当てて、舌打ちをしてから、「ここ、開けるぞ」と押し入れの取っ手に手をかけた。手早く布団を敷いて、その上に運んでくれる。

 人生初のお姫様抱っこは、頭がぐちゃぐちゃで、噛みしめる余裕もなかった。


「な、んで」

「車にこいつを忘れて行ったろ」


 そう言って掲げてくれたのは、妄想だと諦めていた香水のお店の袋だった。


「Uターンして来てみれば、電気は消えているわ。チャイムを押そうとしたところで、穏やかじゃない声が聴こえてくるわ。ったく、不審者でも押し入ったのかと焦ったよ」


 お前が無事で良かった、とキスをして、「体温計、あるか」と訊いてきた。


「ん、下着のケースの陰の小箱。でも、無駄だと思うよ」

「何故」

「だって、クールー病だから」


 私がそう言うと、栄助さんは大きなため息をついた。ほんとうに、大きなため息。


「俺の部屋にあったものを読んだんだろうが、読むならきちんと読め、馬鹿野郎」

「ば、ばかやろう……」

「アレは風土病だと書いてあったはずだ。まあ、プリオン自体はどの人間にも備わっちゃいるが、原因となるのは変異性の細胞だし、そもそも血中にはそのタンパク質が含まれてはいない」


 苛立たしげに捲し立てながら、体温計を持ってきた。なんでだろう、馬鹿野郎、なんて酷いコトを言われているのに。泣きそうになるのは、嬉しいからだなんて。


「大丈夫、お前はただの風邪だよ」


 渡された体温計を咥える。頭を撫でられているうちに計測が終わり、モニターを見た彼が、渋い顔をした。


「平熱はどのくらいだ」

「五度四分」


 彼は、じゃあ少し高いな、とぼやいて、


「飯は食えそうか」

「少しなら。でも、何もないよ」

「普段はどうして……ああ、そういえばカロリーメイト族だったな」


 頭をガシガシと掻き回したあとで、脱いだ上着を私にかけて、部屋を出ていった。

 一人、残された私は、布団の上で丸くなって、栄助さんの匂いに籠った。すごく、落ち着く。


 しばらくして、彼はワイシャツ姿のままで戻ってきた。右手にはお鍋を、左手にはまな板やら葱やら小分けのお米やら、色んなものを入れた大きな袋をぶら下げて。まるでサンタクロース。もしかして、わざわざ自宅から取って来てくれたんだ。

 レトルトとか、出来合いのもので良かったのだけれど。だって、すべてが過去にちゃんとあったと実感できた今、これ以上栄助さんに優しくされたら、今度は幸せ過ぎて死んでしまいそうだから。死神ではなく、天使に連れられて。


 そういえば、黄泉戸喫ヨモツヘグイにも天国版ってあるのかしら。日本神話で、死んで黄泉の国に行ってしまったイザナミを、イザナギが迎えにいったところ、彼女は黄泉のモノを食べてしまったから帰れないのだと追い返される時のキーワード。その、逆ヴァージョン。

 一般的に、美味しいものを食べた人が「天にも昇る気持ち」とか「死ぬほど美味しい」とか表現することがあるけれど。口にすることで、魂が昇華されるものが本当に在るのなら。


 きっと、私にとって、それが栄助さんだったのかもしれない。


「お粥でいいか」

「味薄いから、や」

「カロリーメイトで済ませる奴が、どの口で言うんだ」

「おーじーやー!」

「へいへい、仰せのままに」


 栄助さんはコンロに鍋を置いて、私が滅多に使わないガスの栓を開けた。

 トントントン、と小気味いい包丁の音に耳を傾けて、私はというと、ただただ栄助さんのジャケットという、至高の前菜を貪っていた。


 自分の家で料理をしてもらうのって素敵かもしれない。パーソナルな領域をかき回されて、味付けされて。彼はじっくりと火加減を見ながら、その時、を待っている。惜しむらくは、それが私の家に元からある食材ではないこと。こんど、小さな冷蔵庫でも買おうかしら。


 完成したおじやの鍋は、まな板を敷物代わりにして、布団のそばに供えられた。

 茶碗によそって、ふう、ふうってして。からの、あーん。こういうとき、栄助さんの照れ屋さんはどこかへ行ってしまう。正真正銘の、カッコいい人になる。


「いただきます。あーん」


 はふはふとレンゲにしゃぶりついて、彼が作ってくれたものを漏らさず堪能した。

 彼は安っぽいもので悪いが、とか頬を掻いているけれど。これほど温かくて、美味しい食事を私は知らない。涙が出てくる。


 たっぷりと時間をかけて、専属介護士さんからの献身的なあーんを受けた私は、洗い物に立とうとする袖を引っ張り、さらに駄々をこねた。

 栄助さんは呆れながらも布団に座って、膝の上に抱っこしてくれた。首から回している腕が、少し強張ってるのが分かる。


 ふと、クールー病を検索した画面のまま転がっているスマホを見つけた。あなたはもういらない。タブを削除。代わりに呼び出したのは、カメラアプリ。


「はい、ちーず」

「はあっ、ちょっと待て、何を――」


 撮れたのは、二人とも変ちくりんな顔をしたツーショット。栄助さんはあっぱ口を開けていて、私は髪もぼさぼさで、血色なんか、熱のせいで気持ち悪いくらい、見ていられない。

 画像一覧を開くと、そこには今仕入れたばかりのものと、かつて撮った脅迫写真の二つだけがあった。迷うことなく、古いものを消してしまう。あんな写真はもういらないから。


 改めてのツーショットの方が、私は好きだ。体じゃなく、心が丸裸の、臆病な二人。幽霊が写り込むみたいに、奥底にうごめいていた正体が、ここにはある。別に、誰に見せるわけでもないんだから、写真うつりなんてどうでもいい。誰がなんと言おうと、これは私の宝石。


「ねえ、栄助さん。好きって言って」


 髪の毛を胸板にこすりつけてマーキングしながら、彼の目を見上げる。


「嘘でもいいから、さ。付き合っているつもりで」


 すると、くるりと頭を下に向けられた。抱き締める腕が男らしくなった。

 耳たぶを甘噛みされるみたいに、まず、吐息がかかって。熱が出ている顔よりも、ずっと熱くて。好きだ、って。全身が、びくんって、栄助さんに反応した。


 これ、やばい。病人特権、最高。


 今はまだ、不安が強いけれど。でも、女の子が彼に「好き」を求めるのは、確認のためでも、安心を求めてのことでもないって、栄助さんは知っているかしら。言うなれば、映画の撮影でかけられる『アクション!』のようなスイッチ。俺のために女であれと指示してくれたら。愛していると髪を梳いてくれたなら。私は私の全力で以て、最上の女として貴方に尽くす。もちろん、カメラを回した以上、貴方の瞳が私以外を撮ることは許されませんのであしからず。

 あの日も話したとおり、女の子は、いいえ、私は。主席の座が欲しいだけ。男性は複雑だっていうけれど、言葉にすると、けっこう単純でしょう。


 絶妙な力加減でハグされたまま、首筋に栄助さんの息遣いが触れるのを感じていた。

 なんにもない伽藍洞の部屋だけれど、子供が意味もなく何度もカレイドスコープをのぞくように、私にとっては、ここが彼の視界を体験できる特等席っていうだけで、遍く全てがプリズム加工を施されて見える。嬉し涙が滲んで、薄いモザイクみたい。ちょっぴり、えっち。

 栄助さんから私はどう映っているのだろう。このまま溶けてひとつになって、貴方のカメラが追う景色を、ライブで見てみたい。


 ふと、彼がもぞもぞと姿勢を気にしていることに気づく。悪くない提案だけれど、そういうことじゃないんだよ、栄助さん。というか、私、病人なんだから。ほらほら、我慢して。


 けれど、貴方のことをもっと知りたいのは、ほんとう。


「ねえ、栄助さん」

「なんだ」

「ピアノの約束、忘れないでね」

「その前に、お前はまず風邪を治せ。明日は欠席にしておくから」

「ん。そうする」


 色々と熱に浮かされすぎた心が、ぽやーっと温かくなってくる。腕の中に抱かれる赤子のように、まどろみに囚われていく。栄助さんの奥に沈んでいく。


「おやすみ、冬子」

「おやすみなさい、栄助さん」


 ささやきを合図に、私は眠りに落ちていった。彼は催眠術師だ。だから、どうか、そのまま。

 私をときめかせたまま、ほどかないでください。

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