〈2〉お嫁さんになる権利をください

 二学期の終業式を終え、クラスでのホームルームもつつがなく済ませて職員室へ戻ると、計ったかのようにスマートフォンが震えた。


 通知には冬子の名前で、『旧校舎へ』とあった。懐かしい四文字に笑みが零れる。あれからというもの、彼女と会うのに旧校舎を使うことはなくなっていたからだ。

 成程。奈緒が気付くくらいに染み付いた、ということも合点がいく。


「あら、長谷堂クン。カノジョさんと連絡かしら」


 工藤から声をかけられ、肝が冷えた。私もカレシが欲しいわあ、などと伸びをしてのバストアピールからは目を逸らす。先日の忘年会では体育教師のセクハラにブチ切れていたのに、自分からの主張は憚らないとは。


「いや――まあ、そんなところです」


 彼女、というところを誤魔化すのが癪で、曖昧に頷いておいた。

 話を切り上げたつもりだったが、工藤はまだ放してくれなかった。


「誰かいいメンズ紹介してよ」

「はは……俺、トモダチいないんで、すいません」


 事実だった。酒に溺れていた頃に、ほとんどの仲間と疎遠になっている。

 高校時代の同級生辺りを探せばいないこともないが、成人式の後の同窓会の時点で、半数近くが結婚していたことには驚いた。パッと浮かんだ余り物の顔と言えば、作家志望だとかいう髪の薄いデブと、未だに日曜の朝は特撮ヒーローと魔法少女アニメに噛り付いているオタクのメガネくらい。否、その二つは同一人物だったかもしれない。存外憶えていないものである。

 つまり今現在知己で、かつフリーの男といえば、専ら『ンダベナ』のマスターくらいなものだが。それを工藤に紹介するなど、想像するだけで怖気がした。


「ていうか、聞いてえ。最後の冬休みだからって、生徒たちが恋愛相談乗ってーって、来るのよ。ほんと、受験勉強もしないで、独り身の女捕まえて、ヒドイと思わない?」

「そ、っすね……」


 知ったことじゃあない。その歳でチヤホヤされてるだけ、喜んで欲しいものだ。

 付き合っていては日が暮れる。早々に愛想笑いで受け流し、職員室を抜け出した。











 旧校舎に着くと、冬子が教卓の上に何やら並べて唸っていた。


「何をしているんだ」

「ん、実験」


 ハンカチを敷いた上に、ステンレスのシェーカーと、紙パックのジュースが三種類。いずれの口も開いていた。


「調べたらさ、『シンデレラ』はオレンジ、レモン、パイナップルのジュースが混ぜられてるみたいなんだけれど。やっぱり市販のじゃ、あの味は再現できないみたい」


 半端ななんちゃってカクテルを飲み干した彼女は、悪戯のバレた子供のように舌を出した。


「またいつか、行こうか」

「ん。でも、その時はやっぱり、堂々と行きたいから」


 そう言って振り返り、手近な机から椅子を下した冬子に手を引かれる。冷たさに驚いたが、すぐに芯の温もりを感じた。


「だから、卒業してから、改めて。ちゃんと、栄助さんの彼女として連れて行って」

「ああ。もちろんだ」


 笑いかけると、冬子が目を閉じた。

 出会った頃よりも少し伸びた髪を、そっと掻き分けてキスをする。


「シンデレラの味がする」

「それは、どっちの意味でかしら」


 瞳がすうっと深くなった。


 あの日から、分かってきたことがある。はじめこそ戸惑っていたが、冬子のシニカルめいた口ぶりは、すべて、素直なところの裏返しだった。自分の欲しいものを言外に伝えるべく、うんと背伸びをして導いてくれようとしている。

 計算づくの駆け引きなどではない、じゃれあいの一種だろう。


 だからこそ、からかってみたくなる。彼女の猫パンチを受けてみたくなる。


「さあ。どうだろうな」

「もう、もうっ、イジワル」


 唇を尖らせながら、飛び込んでくるのを受け止める。


「……寒いね」

「もっとくっつけばいい」


 そう言うと、首に回された腕がきゅっと締まった。

 ふと耳元に、不満そうな吐息が触れる。


「服の上からじゃ足りない」

「脱ぐか」

「やだ。今、シャツにホッカイロいっぱい貼ってるから。見られたくない。絶対ブスだし」


 ねだったかと思えば、嫌だと言う。一体どっちなんだと苦笑しながらブレザーの裾に手を入れると、間もなく締め出されてしまった。


「だーめ。また、後で」


 そう言って、彼女は体を起こし、一度だけキスをしに戻ってから、名残惜しそうにまた体を起こした。

 揺りかごのように向かい合い、繋いだ部分の熱を確かめる。


「今日はね、報告があるんだ」


 桜桃のように頬を熟して、額をすり寄せるように、笑った。


「すぐに話したかったけれど、でも。話すなら、ここでが良かったから」

「そうか。聞かせてくれ」

「うん。ヘアメイクの専門学校。通ったよ。昨夜、合格通知が届いてた」

「そうか、おめでとう。冬子」

「うん。うんっ」


 打ち震える肩を抱き寄せて、そっとあやす。冬子はやがて、腕の中で静かに嗚咽を漏らした。

 髪を撫でる。不安だったことだろう。


 進路指導の担当からも様子を聞いてはいたが、担任としても、彼女に何ら問題はないという判断だった。専門学校ということもあり、学業成績の出願条件も然程ハードルは高くなく、平素の授業態度を鑑みても、容易に特待生の枠は勝ち取れた。

 ただ、壁はあった。未知数の受験者たちだ。全国規模の学生技術大会に上位入賞を果たすほどの実績を持つ学校。そんな場所の特待生枠を争う中に、大学を外して専門学校に逃げてきました、などというタイプがいるはずもなく。


「本当に、おめでとう」


 顔を上げ、涙を指で拭う。

 ふと、冬子の瞳が窓の向こうを捉えて、嬉しそうに綻んだ。


「あ、雪! 冬の子だよ、私だよっ」

「分かった、分かったから。その叩くのを止めてくれ」


 ぺちぺちとせわしない手のひらから逃げつつ、ようやく首を後ろへ向ける。

 粉雪が舞う様子は、いつ見ても美しい。もっともこの後、積もることへの憂いに襲われるのが山形県民の性なのだが。

 今だけは、目を瞑ろう。


 吹奏楽部の奏でる、往年のクリスマスメドレーが聴こえた。春先よりも全体の足並みが揃っている。一人残らず浮足立っている、という奇妙な揃い方だったが。


「もうすぐクリスマスだな」

「うん。栄助さんと過ごす、初めてのクリスマス、だよ」


 分かってる? と窺うような視線が、シャツの上をなぞってきた。


「ねえ。合格祝いも兼ねて、さ。欲しいものがあるんだけれど」


 胸元でのの字を書くためらいに、頷いてやる。

 冬子は二、三の深呼吸をしてから、じっと見つめてきて、言った。


「私に、栄助さんのお嫁さんになる権利をください」

「ああ、分かった」

「えっ、や、ちょっと、待って。だって、ええっ。いやさ、言った私が狼狽えるのも変なんだけどねっ?」


 呆れる。こういうところも含めて、彼女のすべてが愛おしい。


「考えてはいたんだ。卒業したら、お前は俺の家から仙台に通えばいい」

「それ、って」

「一緒に暮らそう」


 唇がうそ、と動く前に塞ぎ、本当だ、と囁く。


「嬉しい。そんなこと、言われたら――」


 言葉の続きを紡ぐのも待ち遠しくなったのか、冬子から口づけをし、どちらからともなく、相手の服に指をかけた。


「カイロ、見られたくないんじゃなかったのか」

「ほんとう、こういうときにイジワル言うよね」


 冬子のブラウスを脱がそうとしたとき、だった。

 廊下の方で音がした。


「栄助さん、鍵は」

「かけてきている」


 冬子がぱっと身を翻し、死角へと逸れる。しかし、それはもう遅いことは、二人とも分かっていた。

 立ち尽くしていた、青白い顔の奈緒と目が合ったから。


 扉を開けると、ぱくぱくと震えていた彼女のか細い声が聞こえるようになった。


「ごめ……なさ……見る……つもりじゃ」

「奈緒、お前。どうやってここへ」

「窓……です。薄墨さんが入るの見えて……」


 ごめんなさい、と駆け出した背中を捕まえ損ねる。


「すまないが、俺はあいつを追う。冬子は先に帰っていてくれ」


 頷いたのを横目に確認し、走り出す。

 正面玄関のカギを開けたところで、しまった、と苛立った。奈緒は出る時にも窓を使ったらしい。下手すれば見失う。電話で彼女の番号を呼び出しながら、急き立てられるように旧校舎を飛び出した。


 しかし、その必要はもう、なくなった。


 泣きじゃくる奈緒を先に見つけたのは、よりにもよって工藤だった。さらに、工藤は目ざとくも、血眼で飛び出したこちらの姿にも気付いた。


――二つの乙女心を壊すかもしれないんだ、そのくらいの罰はあって然るべきよ。


 今がまさに、その時らしい。


 人生には、分かれ道というものがあるらしいが。その全てが死者の国に繋がる六道の辻ともなれば、お手上げだった。

 どちらか、では済まなさそうだ。腹を括るしかないだろう。


 このまま、閻魔の前に引き立てられるのならば。死者になろうと。

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