(2)浸るのは、また、こんど

 嫉妬のモヤモヤは取り除けず、彼にとっての一生徒という枠からも抜け出せないまま、気がつけば夏がやってきた。


 日中は退屈だった。特に、国語の授業は。


 ひとたび長谷堂先生になると、まるでジキルとハイドのように、彼は巧妙に素を隠してしまう。何よりも皮肉なのは、周囲のみんなが求めているのはハイド氏だということ。たしかに人は、他人の前では何かしらの自分を演じているものだけれど、一切の愛を持ち合わせない表面だけのナニカを賛美するのは、見ていて気味が悪い。まあ、暴力を振るったり態度の悪い教師よりはよっぽど好ましいことには激しく同意。ただ、そうやって心地のいいぬるま湯に浸かっていて、いつか立ち止まったときに気がつくんだ。ああ、自分の周りには愛がない、って。


 特に、栄助さんというものを知ってしまった私は、なおさらだった。目の前で催されている仮面舞踏会からは目を逸らし、窓の外をぼうっと眺める。生徒会で育てている花壇の色たちも、退屈に褪せていた。


 幸いなことは三つあった。ひとつは、窓際の席を得ているから退屈しのぎができること。二つ目は、夏のおかげで、とくとくと汗ばむ心も誤魔化せること。そしてもう一つは、時折顔を覗かせた栄助さんが、ちらちらとこちらを見てくれること。まあ、そこは知らんふりをさせていただきますが。

 窓の外ばかりを見ているのに、注意さえしてくれない。『食事』の時もこの話題に触れてきたことがなかった。ここまでノータッチを決め込まれるのも、それはそれで露骨だと思うのだけれど、いかがかしら。ん、ああいや、私が言えたことではないか。


 他の授業も、さして面白いと思うこともなく、私の癒しは金曜の放課後だけ。


「ねえ、栄助さんの家に行ってみたい」

「駄目だ」


 ピロートークでのおねだりは、ばっさり切られてしまった。なにゆえ。カーディガンに袖を通しながらだったのがいけないのだろうか。下着は買ってくれたくせに。


「実家暮らしとか? けれど、別に山形では恥ずかしいことでもないよ」

「そういうことじゃあない」

「じゃあ、どうしてさ。そもそも、実家なの、一人暮らしなの」

「実家で、一人暮らしだ」


 私が支度を済ませていることを確認してから、栄助さんは、さも今着たところという風にベルトを締めた。私はそのあとに付いていって、彼が『喫煙室』と呼ぶ教室に入る。


 未成年わたしがこの場にいることもそうだけれど、何よりも、『食事』のあとでタバコをくゆらせる栄助さんを見るのが好きだった。一般的に、終わってすぐタバコに手を伸ばす男性は嫌がられるらしいと聞いたし、多分、私もそう。けれど、この瞬間の彼の横顔は、ああ、今は事後ってやつなんだ、彼もそういうことをしたと思っていてくれているんだ、と思えてきて、普段より二回りくらいセクシーに見える。

 いつか、本当にそういう瞬間を迎えたいと思っているのだけれど、そういう視線を送ると、彼はさりげなく目を逸らす。授業中、私がしているように。


「親父たちは三年前、関山を越えて仙台に向かう途中で事故にあってな。子供ながらに仲が良い夫婦だとは思っていたが、まさか、逝くときまで一緒とは思わなかったよ」

「兄弟とかはいないの」

「姉が、山形駅の西口当たりに住んでる。ほら、テルサの向かいにマンションがあるだろう」


 栄助さんは煙をふうっと吐いた。その口元が、笑っているように見えた。


「仲が良いんだね。優しい顔してる」

「よく言われるが、認めたくはないな。人使いの荒いアラサー飲んべえだぞ」


 弱点発見。心の片隅にメモをしておく。よろしくお願いします、未来の小姑さん。

 ため息と一緒に煙を吐いている栄助さんは、まるで本当にお姉さんが苦手で口から魂が抜け出てしまっているようで、笑ってしまう。


「どうした」

「ああいや、ごめんなさい。一人暮らしなら彼女さんを連れ込み放題だなあ、と思って」


 誤魔化そうとして、思いがけず自分にダメージ。その枠にいたいのは自分なのに。


「いないと言っただろう。作るつもりもない」

「じゃあ、私は。私もだめなのかしら」

「そのつもりなら、とっくに押し倒している」


 この頑固者! と叫びたくなる。こちらが何を欲しているか見抜いていて、それを取り上げるなんて。三か月も経ったのだから、そろそろデートの次をご所望したい。


「そういう風にムチで打つなら、アメをくれたっていいじゃない。私の部屋、見たでしょう。エアコンがないんだよ?」

「まさか、夏のあいだじゅう入り浸るつもりか」

「んー、そういうのも楽しそうだれけど」


 それは本当に仲良しになってから。今はまだ、外堀を埋めていく段階だから。栄助さんとの隙間を埋めるように、日曜大工に見せかけて、毎日ちょっとずつパテを塗っていくのだ。


「栄助さんに浸るのは、また、こんど」


 それに。栄助さんは元カノさんとのことがあるから、こういう言い方をしたら嫌がれるだろうけど。好きな男性の家に通うというのも、憧れなんだよ。ウェディングドレスには及ばないけれど。次の次の次くらい。


「いずれは入り浸るつもりなんだな……」


 だから違うんだってば。ん、いや、合ってるのかな。まあいっか。


「彼氏に迷惑なんじゃないか」

「何をいまさら。それに、それこそ、私の方がそのつもりはないよ。こんな手首を見せたらどうなるかなんて想像つくでしょう」


 カーディガンの袖を捲ると、彼はタバコを咥えたまま、ああ、と唸った。


「部屋に行ったとき、あまりに生活感がなかったものでな。どこか別に寝泊まりしている家があるのかとばかり」

「まさか。あれが私のねぐらだよ。あ、もしかして、嫉妬してるんだ」


 やたっ、私とおんなじ。


「本当にいないよ。肌を見せたのも、栄助さんが初めてなんだから」


 だから光栄に思って、と茶化すと、彼はタバコの火を消した。黙っちゃって、可愛い。

 それから旧校舎の戸締りを手伝いながら、施錠のひとつを確認する毎に、連れてって、ダメなの、と繰り返した結果、栄助さんはようやく根負けしてくれた。


 いつもの酒屋さんの裏で落ち合い、彼の車に乗り込む。


「もしかして、先約を蹴らせちゃったかな」

「何故、そう思う」

「だって栄助さん、職員室に戻るとき、誰かに連絡してたでしょう。いつもはそんなことしないもの」


 そういうことなら今日じゃなくても良かったのに、と言うと、栄助さんは髪を掻きむしって、気にするな、と笑った。


「姉がいると言ったろう。あいつから飲みに誘われていただけだ」

「ふうん」


 困り顔を見せないような固い表情はどことなく嘘の香りがするけれど。いいというなら、そうさせてもらおう。

 数分のドライブを経て、栄助さんの家へ着いた。小さな遺跡公園が点在する地域で、少し車を走らせれば映画館やドン・キホーテなんかもある。それでいて家自体は閑散としたところに建っているのだから、便利で静かで、好い立地。

 私の住むアパートからも存外近いところにあった。これなら歩いてこれるかな。でも、来ちゃった、なんて言ったら重い女だと思われてしまうかしら。


 我がアパートの鋼板とは大違いな、木造りの一軒家ならではの温もりがある戸口をくぐり、ふと、違和感を抱いた。

 かすかに、ほんのちょびっとだけど。これ、香水の匂い。シトラスとセボン。クラスの子も付けているやつだ。女の子が来てる。それも、多分、例のお姉さんではない。キレイ系よりカワイイ系。可愛げのない私にはない要素。ん、まあ、綺麗さにも自信がないけれど。


 台所を通って、確信に変わった。シンク側の椅子にピンクのエプロンがかけられている。

 彼女はいないはずではなかったか。だからこそ、踏み込ませてもらっているのだけど。いや、まあ、いいか。彼女がいても。今は私に目をかけてくれるのでしょう。それなら、そこからは私のお仕事。その目を釘づけにできるよう頑張るだけ。


 きょろきょろと家の中を眺めて振り返ると、エプロンが隠されていた。ファインプレー。

 なあんかそれ、やらしい。私に対しても、その『エプロンの君』に対しても。でも、そうしてくれるんなら、遠慮はしないよ。存分に甘えさせてもらうんだから。


「こっちだ。散らかっていてすまないが」


 そう言って、襖を開けてもらった部屋に通される。


「ううん、全然」


 素敵な部屋だった。


「嫌味じゃないよ、ほんとうに」

「そりゃあ、お前の部屋と比べれば、どんな部屋も雑多だろうさ」


 苦笑する栄助さんにつられて、私も笑ってしまう。

 もう一歩踏み入れて、鼻で思いっきり空気を吸った。彼の匂いだ。

 十二畳くらいの部屋はほとんど、壁際の本棚から溢れたらしい本で埋められていた。他はパソコンの置かれたデスクと、反対の隅にあるベッドくらいで、それなのに足の踏み場が少ない。


 散らかり方にも流儀がある。洋館の書庫みたいなスタイリッシュさはないけれど、決して乱れているわけでもなく、追及された雑多感がオシャレ。この部屋に漂っているのは、栄助さんを形作るすべて。彼の頭の中を覗き見ているようで、ドキドキする。ああ、これが、好きな人の部屋に来るって言うことなのだろう。そりゃあ、みんな憧れるわけだよ。

 なんだ。みんな、私と同じなんだ。自分だけが知る味を探してる。











 彼の部屋に入ってからは、ひたすら本を物色した。ちょっとした図書館だった。

 まず気づいたのは、小説の類は少ないこと。「桜の下」といえば「死体が埋まっている」ってフレーズの方が有名だから、そんな中で坂口安吾とすぐに出てきた栄助さんなら、太宰治とか、石川淳あたりは読んでそうだと思ったのだけれど。端のほうに寄せられた映画の原作小説たちは……多分、長谷堂先生の仮面を作る材料だから、これは無視していい。

 本の多くは実用書や哲学書だった。アリストテレスだけで何冊あるんだろう、コレ。あと、地味に多いのがサブカル系。都市伝説とか興味あるんだ。底の見えない彼の頭をぱらぱらと捲っては、一旦戻す。キープの本だけちょっと背表紙を引いておく。ちょっと引きで眺めると、凹凸が脳の皺みたい。


 栄助さんがパソコンの前に座ると、しばらくして、部屋にクラシックが流れた。音のする方に振り向くと、いつの間に開けられていた押し入れの中に大きなスピーカーがあった。


「五月蠅かったら言ってくれ」

「ううん、全然。お気になさらず」


 彼はそうか、とだけ言って、タバコに火を点けた。パソコンのディスプレイには何かの文書が開かれている。本の海で、クラシックを聴きながらお仕事をするなんて、なんて贅沢。ここで、美少女が傍らに、なんて言えないところが、我ながら芋ったい。


 クラシックといっても、オーケストラよりピアノのソロが多くて、旋律は耳に心地いい。

 BGMに気を取られていて、つま先をぶつけてしまった。他とは違って、付箋が貼られた本たちだ。その下に、この辺りでは聞き馴染みのない書店の袋がある。セロハンの風は切られていて、ぶつかった拍子に中の本が顔を出していた。


 付箋の貼ってあった本の一冊を拾い上げると、精神疾患の学術書だった。日本の精神神経学会がちゃんと監修した翻訳版のようで、帯には十九年ぶりの全面改訂と書いてある。他の付箋本も、臨床のガイドラインだとか、そういうものばかりで、彼に対する先生という呼び方の意味が変わってきそうな顔ぶれだ。

 付箋が貼られているところを開くと、どの本も、異食症という病気に関する記述があった。


 まさかと思って、袋の中の本をひっくり返す。どれも吸血鬼や人肉嗜食カニバリズム、食人族といったものについての考察がなされたもの。

 彼に気づかれないように持っていた本を戻し、一冊ずつ、こっそり引き抜いてページをめくる。


 初めて、自分の『食事』の病名を知った。カニバリズムの殺人鬼をまとめた本で、自分が感じていた味は、彼らの表現する『少しの苦味』『豚肉に似た甘さ』という言葉に置き換えられてしまった。食人族の本では、宗教的に遺体を食べていた部族がクールーという病に感染し、やがて脳がスポンジ状になって死に至っていることが分かった。手が震えた。潜伏機関こそ十年ほどあるけれど、ひとたび発症してしまえば、一年以内に命を落とす。呪いだ。

 私はどうやら、オートカニバリズムというものの延長上にいるらしい。これは鼻血や口内炎を通して誰もが行っているもの。しかし、稀に自ら欲して血を飲むケースがあるのだという。


 一方で、中世ヨーロッパでは人肉を加工したものを薬として利用していたという記述もあった。中国の漢方薬にも紫河車シカシャという、胎盤を乾燥させたものがあり、結核の軽減や脂肪を付きにくくする効能の他、二次性徴の促進や、果ては強精や不妊にまで力を及ぼしたとのこと。


 病を齎し死に至る禁忌かと思えば、今度は命を生かし生殖にも働く妙薬と言われる。私は、いったいどちらを信じればいいのだろう。


 首を振る。言い聞かせる。食人族が病にかかったのは、プリオンというたんぱく質が集中する脳を食べていたから。きっと、血を飲むだけなら問題ないはず。だって、そうでなきゃ、ケガをした指先を舐めたりするいちゃいちゃカップルとか、人体の一部を薬として服用していた人たちとか。そのうちの誰かがクールー病に罹っているはずだもの。


 そうであってほしいと願う。もし、このまま私が死に至ったとすれば、それは栄助さんの血を飲んだからということになってしまうから。食すことで冥府に取り残される『黄泉戸喫ヨモツヘグイ』の原因が、彼になってしまうから。もちろん私から、貴方のせいで、なんて詰め寄ることはないのだけれど、これらの本を買ったのは、他でもない栄助さん。私から責めなくても、彼は自分で自分を責めるに違いない。そうやって、元カノと別れた時のように、闇へ堕ちてしまう。私にとって、それは自分が死ぬことよりもずっと、ずっと怖い。


 付箋が貼ってあるということは、彼もこれを読んでいるはず。そんなこと、一度もお首に出されたことがなかった。まるでここだけ、長谷堂先生の仮面が付いているみたいに、思惑が見えてこない。彼のことだから、嫌がらせだとか、そういう理由ではきっとない。だって、何重にもオブラートに包んだ挙句、渡し方を失敗して見透かされるような不器用さんだから。


 どういう気持ちでいるのだろうと、横顔を盗み見ようとしたとき、栄助さんが伸びをした。


「もう、こんな時間か」


 慌てて本を戻し、カーディガンの裾とスカートを直す。

 素知らぬ顔で本棚に向かおうとすると、こっちを向いた彼と目が合ってしまった。


「すっかり遅い時間だな。すまない、腹が減っただろう」

「う、ううん、大丈夫。平気」


 スマートフォンの画面を見ると、もう二十一時を過ぎていた。


「この時間だと、飯屋に行くにも絶望的だろうな」

「ん、それじゃあ、コンビニに行こうよ」


 提案すると、彼は「待っていろ」と言って、部屋を出ていく。すぐに戻ってきた彼の手には、夜半に制服姿を連れ歩くことをカモフラージュする魔法のマントが握られていた。カーキのロングパーカー。薄手だから初夏にも着られるけれど、ピンクが好きそうなエプロンの君とは趣味が違いそうな感じ。尋ねると、お姉さんのものらしい。やはり彼女は候補から除外。


 一度、お手洗いを借りたのだけれど、個室の中にサニタリーボックスは見当たらなかった。エプロンの君と同棲はしていないみたい。あるいは、そういうものを置かないタイプの人。

 カーディガンを脱ぎ、パーカーをお借りすると、やはり来た時に感じた香りとは別の匂いがした。


 ほんとう、エプロンの君は一体何者なのかしら。

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