(3)私のために、弾いて……ください
外に出ると、夏本番一歩手前の夜風はまだ涼しく、やきもきする頬を冷やしてくれた。
「本当に、コンビニで構わないのか」
「やってみたかったんだ、深夜のコンビニデート。それに私、夜はコンビニ飯だから。勘当されているとはいえ、資金援助はされてるんだよ。ありがたいことにね」
「この先にはファミマとセブンがあるんだが、行きつけはあるか?」
「栄助さんの好きな方でいいよ。私はカロリーメイトと、何かプラスアルファがあれば、それで」
「お前は僧でも目指しているのか」
「瀬戸内寂聴さんって、いい女だよね」
「……俺が言えた義理じゃあないが、もう少しまともなものを食え」
栄助さんが苦い顔をする。栄養価は抜群だよ、なんておどけて見せると、呆れの色が加わった。確かに食物繊維の面では不安があるけれど、そんな顔することないじゃんか。
ウシガエルの合唱をバックにぶらぶらと歩く。さりげなく、手の触れそうなところまで近づいた。避けられてはいないようだけれど、彼がこちらを確認しておいて、手を握ってくれないことにはちょっと心がしぼむ。ただでさえ田舎の夜という味気ないムードなのに、ロマンを抜いたら畑の臭いしか残らないじゃないか。私は、田舎の香水、なんて呼び方は反対。まあ、そうは言っても、
「そういえば。今日も車でかけていたが、冬子はどうして、さだまさしが好きなんだ」
意外な質問だった。やっぱり、どんな本を読んだか、という辺りには触れてこないみたい。私があの本たちに目を付ける、という可能性自体、考えていないのかしら。だとすれば、彼の魂胆とやらは、完全なる善意となる。
「んー、暗さ、かな」
「今、適当に答えただろう」
「どうして?」
「姉貴が好きなんだよ、さだまさし。以前、暗いとからかったら、明るい曲調の恋の歌や、シンフォニックな応援歌、コメディソングの多さを酒の勢いで語られたことがある」
それぞれがどの曲たちを指すのか容易に想像できてしまって、おかしくなる。
「アレが言うには、『中島みゆきは芸術、さだまさしは教科書』ということらしい。からかったが最後、次の飲みの時には焼き増しのCDを渡されたよ。ラベルに『お姉ちゃんセレクト』とか書いてあるものを、五枚もだ」
「わかるわかる、軽くピックするだけで百曲超えちゃうもの。それで、お気に入りはあったの」
「『まほろば』や『修二会』なんかは好きだな。最近のところだと『おんまつり』か」
「おお、なかなか渋いチョイスですなあ」
さだ曲の中でも難解といわれるものだ。栄助さんとは気が合いそう。それに、お姉さんとも。
仕方ないことなのだけれど、みんな、テレビでやっていたような曲しか知らないから、さだまさしの歌は暗い、なんて決めつけてかかる。ただ無性に腹が立つのは、フルコーラスでちゃんと歌詞を聴いていないくせに『関白宣言は女性蔑視』なんて判を押してくる大馬鹿者たち。そんなだから、洋楽の別れの歌を結婚式の入場に使って顰蹙を買うんだ。伴侶どころか、愛し合うということさえ軽んじて。結婚式を盛り上げようとするばかりで、結婚という意義なんか見ようともしない。血を吸う中で愛を模索する私と、幸せとやらの
ああ、もちろん、『意見には個人差があります』けれども。
「それで、本当のところは」
「言葉がね、綺麗なんだ。一音一音、丁寧に乗せた日本語の美しさは、とてもね」
そう話すと、栄助さんは少し考えこむような顔をしてから、噛みしめるように言った。
「ああ、分かるよ」
「国語教師としてはシンパシー?」
「それもあるが、音楽に触れていた時期があってな」
「へえ。バンドとか」
「いいや、ピアノだ」
驚いた。けれど、作業用のBGMがピアノだったことも、どうりで。
そういえば、腰掛庵でもピアノを気にしていたっけ。てっきり、物珍しそうにしていただけかと思っていたから。ちょっぴり悪いことをしちゃったな。
『食事』のときも、抱きしめてくれる手の優しさが繊細だった。初めてのことだから、これが標準なのだろうと思っていたけれど。どうやら、私はかなりの当たりくじに出遭ってしまったみたい。自分を大凶に見せかけようとする、へそ曲がりさんだけれど。
「……似合わないと思っているだろう」
私がにまにましていると、彼が眉を顰めた。
「ううん、逆。ピアニストの栄助さんを想像して、きゅんときた」
「からかうな」
そっぽを向いてしまう肩を逃がさないように、くるりと回り込む。けれど、栄助さんの顔は往生際の悪いことに、明後日の方へ逃げてしまった。照れちゃって、かーわーいーい。
「本当なのになあ。だって、ピアニストって、燕尾服とかタキシードを着るんでしょう」
「いつの時代の話をしているんだ。普通のスーツで十分だよ」
「あらま。でも、それはそれで、いいかも」
「何でもいいんじゃないか」
「そんなことないよ。栄助さんだから、だもん」
唇をタコさんにしての抗議は、速足で躱されてしまった。もう。
仕方なく、広い背中を追いかける。すぐに足を緩めてくれる辺り、やっぱり優しい。
二十一時半ともなると、辺りは寝静まっていた。多分、ちらほら見える部屋明かりは、学生とか、社会人の方のもの。それでも、基本的に二世帯以上が同居している家が多いから、茶の間やリビングのあるだろう一階は暗くなっている。ぼやっとした光が上から注いでくる闇の中を歩いていると、世界を二人で独占しているような気がして、わくわくしてくる。レッドカーペットのような華やかさはないけれど、十分、魅惑的な漆黒。今だけは、畑の臭いも田舎の香水と思ってあげなくもない。
「ねえ。触れていた、ってことは、やめちゃったの」
「ああ。趣味程度には弾いているが、追いかけるのはやめたよ」
ふと、栄助さんが空を仰いだ。一緒になって想いを馳せていると、彼は、ぽつりぽつりと、星屑を零していく。
「歴史に名を刻む音楽家たちの、名前くらいは知っているだろう」
声色が、遥か空の向こうのように、深く濃くなった。
「うん。ベートーヴェンとか、モーツァルトとか」
「彼らは、その恋模様を追うだけで、本が作れるくらいに。そうだな、ロマンとやらに溢れているんだよ」
彼が遠い目をする。まだ知らない一面に、吸い込まれそうになる。
「なあ、冬子。演奏は、弾き手によって異なることを知っているか」
「単に個人の力量の差、っていうわけじゃあないんだよね」
「ああ。解釈の問題なんだよ。その曲はどんな背景に生まれて、どんな想いで書かれて、どんな物語を描いているのか。そうしたセンスを磨いていくのがプロの世界だ。技巧を競うだけなら、作曲もできない演奏家なんて、楽器ごとに必要人数がいれば済む。さだまさしだってそうだろう。彼より巧い演奏をするヴァイオリニストもギタリストもいるだろうし、彼よりも善く愛を描く詩人がいるかもしれない。それでも、さだまさしは唯一無二。その意味が分かるか」
「ん、わかるよ」
感性、と一言で括ってしまえば、陳腐で、曖昧で、つまらないものに成り下がってしまうけれど。そうした漠然とした、ただただ巨大ということだけが分かっている霞の城に立ち向かっているのが、彼らアーティストと呼ばれる人たち。
「まっさんもテレビで言ってた。小さい頃、ヴァイオリンの神童と呼ばれていたけれど、弾いても巧いのが当たり前の世界だったって」
「だろうな」
栄助さんは少し、もどかしそうに笑った。
「まあ、つまるところ俺は落伍者だ。そうした感性の世界に付いていけなくなったんだよ」
そんなことない、と否定することは、とても無責任だと思った。彼はこんなにも優しくて、温かい人なのに。感性なんて、人並み以上に持ち合わせているはずなのに。それでも、否定してあげられない自分が悔しかった。私は、親身になってくれる栄助さんに甘えながら、それでも、のうのうと『食事』を続けている極悪人で。楽観的で。愚か者。言葉にしてしまえばそれだけしか残らない、文字通り『かわいそうな子』だ。
けれど彼は、きっと、元カノさんと別れたあの日から、自分の心が見えなくなっている。自分はメンヘラなんだろうなあ、なんて自覚しながら生きながらえている私とは、大違い。
本当に病んでいるのはどちらなのだろう。本当に救いが必要なのは、どちらだろう。
輝くことを忘れても、星は星。手を差し伸べたくても、私の手のひらは届かない。
「でも、まだ弾いてはいるんでしょう」
「誰かを想えなくても、自分のためには弾けるからな」
ああ。なんて、私は。
見えてきたコンビニのLEDから、あざけられているようにさえ思える。カロリーメイトもチーズ味しか残っていないし、肉まんの什器が出ているくせにホットドリンクはないしで、散々だった。夏の入りだから仕方ないのかもだけれど、チーズ味の方は許すまじ。
駐車場の縁石に腰かけて、袋の中をかき回す。栄助さんの方からはプルタブの音しかしないことに顔を上げると、彼の手にあるのは、ブラックの缶コーヒー一本だけだった。
「夜にそんなものを飲んだら、眠れなくなるよ」
「お前こそ、こんな時間に肉まんを食べていいのか」
「イジワル。まともなものを食べろと言ったかと思えば、食べていいのか、だなんて。それに、この時期にこういうの見つけたら、つい買っちゃうって」
にいっ、と悪い顔をしてくる栄助さんを頑張って睨み返しながら、一計を案じた。
「はい、半分こ!」
たじろいだのを見逃してあげない。猫を噛んで調子に乗ったネズミは、ほれほれ、あーん、と肉まんを突き出してやる。
しかし、意外や意外。彼はあっさり、身を乗り出してきた。
「ならば、いただこう」
抱き寄せるように肩に手を置いてきて、一瞬、キスされるのかと思って縮こまったのが運の尽き。あろうことか、私の手元の方をかじられた。ちゃっかり差し出したものは持ってってるし。これは想定外。どうするの、これ。間接キスしちゃうじゃん。
栄助さんのクセに。
もう頭に来た。したり顔の栄助さんに見せつけるように、肉まんにかぶりついてやる。一気に食べたらぱさぱさの生地が喉に張り付いて、むせ返った。それを笑ってくるイジワルな人をぽかぽか叩いて追いかけまわすと、彼は「悪い、悪かった」とひいひい言いながら、ジャケットのポケットから小さいペットボトルのお茶を出して、キャップを開けて渡してくれた。
「飲み物、買ってなかったろ」
「もしかして、それを知ってて、わざわざ」
「いいや、偶然だ。帰ってから飲もうと思ってたものだよ」
今度はこちらがそっぽを向く番だった。格好つけちゃって。私のためだ、って言ってくれたなら、お礼の一つもしたけれど。そうじゃないって言うなら、いいもん。私が感謝をするのは、あなたの言う、小さなハッピーをくれた偶然とやらに対してだけなんだから。
駐車場に車がやってきて、バカみたいにはしゃぐ私たちを尻目に、二十代前半くらいのカップルが店に入っていった。
「今の彼氏の方、冬子に見惚れていたな」
「まさか」
笑い飛ばす。そんなことよりも、私にとっては、彼女さんの反応の方が嬉しかった。
栄助さんに向けていた視線と、ほんのちょっとだけ垣間見せた険しい目つき。あれは、嫉妬。ふふん、どうだ、とガッツポーズをしてやりたくなった。ちゃらちゃらしていて猫背でガニ股歩きのノータリンと比べたら、うちの栄助さんはおつむの出来がまるで違う。顔も、うん、多分、勝っている、と、思う。おそらく、メイビー、色眼鏡補正を抜きにして。けれどそんなもの、事実でしかないから。好みってものは否定しないけれど、二十年も経てばみいんな立派なオジサンになっている。いーっ、だ。
好きな男性が、他の女性からも良く見られているのは、最高。その中で一番に選ばれて、ついでに私だけが知る彼の一面があったりすれば、女としての誉れ。なんて、強がってみるけれど、性格悪いくせに、肝心なところは弱気になってくる。
さっきのカップルからのものではなく、栄助さんの言葉が聴きたい。
「ねえ、先生。私たち、恋人同士に見えるかな」
彼は無言で、肩を竦めて見せるだけだった。ズルい人。
けれど、それじゃあ嫌だから。追い縋る。コンビニの明かりから離れて心細いのを堪えて。
「あのね。お願いがあるのだけれど」
「何だ」
「栄助さんがピアノを弾く理由。そこに、一人、追加してほしい」
彼の目が見開かれた。夜闇のせいで大きくなった瞳に、下唇を噛んだ私が映っている。
肩越しに見上げる空は綺麗で。今宵は、満月だった。
「私のために、弾いて……ください」
栄助さんは睫毛を伏せて、少し迷ってから、泣き出しそうな私の肩を引き寄せた。
「ああ。喜んで」
「えっ、いいの」
訊いておいてなんだけれど、不安なものは不安だ。胸板に耳を澄ませても、彼のリズムがどっしりと構えすぎていて。もどかしくなって、顔をずり上げる。
「来週末、冬子の誕生日だろう。そこで贈らせてもらうよ」
「どうして、知って……」
「担任だぞ。職権濫用ってやつだ」
いけない人だ。悪びれもせずに微笑んでいるなんて、本当、いけない人。
けれど、それがどうしようもなく嬉しかった。勝手にパーソナルデータを調べたことは、ちょっぴりストーカーちっくだけれど。これまでの、私の『食事』に身を任せるだけのものではなく、初めて、彼の方からこっち側に踏み入れてくれたことだから。
「ありがとう、栄助さん」
腕に寄り添って、帰り道を辿る。歩幅を合わせてくれるのをいいことに、ゆっくりと歩いた。
きっと、満月の夜が素敵なんじゃなくて、素敵なことがあったときに、そこに満月があることが印象に残るのかもしれない。
つまり、私の言いたいことは。月がきれいですね、ということ。
創作説なんて知らない。意味が通じればよし、だ。
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