〈6〉あんたも大概ビョーキだなって
季咲に連絡を入れると、さっそく翌日の夕方を指定された。書店を巡り歩き、山形駅の中の店舗で時間を潰していると、指定された時間からきっちり五分前にSNSの通知が来た。
エスカレーターを降り、駅に隣接しているランドマークタワー・霞城セントラルの前で待っていると、季咲は思いがけず駅の方からやってきた。普段はラフな服装で、髪にもろくに手櫛を入れることのない姉のことだから、稀少なスーツ姿は、危うく見逃すところだった。
「どこかへ出ていたのか」
「ええ、ちょっと『日帰り旅行』に行ってたのよ。肩揉んで」
「断る」
日帰り旅行とは、季咲がよく使う言葉で、つまるところ東京に出向いての仕事である。帰りに駅弁やらお土産やらを買うからとの由来らしいが、彼女のことだから、先方でも平気で口にして顰蹙を買ってやいないか心配になる。わずかに持ち合わせた弟の良心である。
二、三の冗句で茶を沸かした後。向かう先は、いつもの場所だ。地下を利用したジャズバー『ンダベナの娘』。元々はバーのみだったが、二十二時ともなれば眠りにつくほど山形の夜は早く、経営のために隠れ家系レストランも始めたのだそうだ。店名はフランク・シナトラの『イバネマの娘』の山形弁パロディ。夕涼みに最適なセンスだと言ったらマスターに殴られた。
マスターの趣味で集めたという楽器の弾き手もおらず、奥に設けられた小さなステージは飾り棚となっている。一応、マスターが定期的にメンテナンスをしているらしいが。
カウンターに座ると、奥で客の相手をしていたいかつい男が気付いた。
「おう、季咲ちゃんでねが。おまけに栄の字」
「客をおまけ扱いしてくれるな」
これでもこの店のマスターである。風貌は悪いが気前は良く、懐は広いが足は短い。頼りにもなるが、しっとりと飲みたい気分の時に隣にいられるのは至極迷惑という、困った男だ。
「おまけ扱いされたくねえなら、ピアノ弾いてけろや」
「六歌仙。ストレートで」
「ちっ」
「客の前で舌打ちするな」
「あ、私はサムライなんとかね。こないだ飲んだやつ」
「サムライロックだな。すぐに用意するぜ、季咲ちゃん」
どっと疲れた。客の注文はひと月前のものでも憶えているくせに、ピアノを弾かないという言葉だけは、いくら言っても記憶してくれないらしい。
「弾いてあげてもいいんじゃない」
「姉貴まで言うか」
「だって、練習は続けてるんでしょ。奈緒ちゃん言ってたわよ、自分の部屋の掃除もしないけれど、ピアノだけは埃が被ってないって」
舌打ちをした。この癖はマスターに似たか。
「趣味の範囲だ」
「あ、そ」
いやに淡白な返事と、含んだような笑みが癪に障る。
注文を待っている間に一服を始めると、季咲がポケットを叩き、鞄を開けてライターを見つけ出し、また戻ってポケットを漁った。案の定、申し訳なさそうに顔を出した手は二本の指が立っていたため、マルボロのケースごと、二人の間に置いてやる。
やがて届けられた酒に口を付け、話を切り出した。
「それで。顔を出せと聞いたが。仕事絡みか」
「ああうん、それがねえ。今あたし、『
「誰だそれは」
「あんたのクローン。未来が栄え、慈しまれると書いてエイジ」
「勝手にモデルにしたのか」
「じゃあ、あんたのムスコ」
「言い方を変えろと言っているんじゃない」
酒には一口しか口を付けていないというのに、もう頭痛がしてきた。
今は亡き我が両親の命名センスよりはマシだろうか。季咲は読みの通り妃から。季節ごとに美しく咲き、王妃のように男を手に入れろという余計なお世話の願いから。栄助という名は、長男として栄え親を助けろという鬱陶しい命令でもって名づけられた。
どちらも小学校の授業で名前の由来を発表した際にはとことん弄られたせいか、季咲などは早々に、
まったく。名づけたからには、もう十年ほどは生きて欲しかったものである。
「まあ、いい。それで、そいつは漫画の登場人物か」
「そそ。今日の打ち合わせも、この子についてなのよ。編集さんが和風伝奇で行きたいらしいのは前々から聞いてはいたんだけど、今回で方針確定、っと」
季咲は日本酒とライムのカクテルをぐいっと傾けた。酒豪のペースは恐ろしい。
「そこで、国語教師のあんたを見込んで相談。何かいい言葉ないかしら?」
「和風ねえ。ともなれば、古語の方がいいだろうか」
「ぜひぜひ」
おなしゃーす、という軽いお願いには、もう抗議するのも飽いていたので大人しく従った。
店内に流れるジャズのインストに耳を傾けながら、手のひらでグラスをもてあそぶ。視界の端で、季咲がこっそり店員に日本酒の追加を頼んでいるのが見えた。律儀なものだ。
仕方がない。少し真面目に考えてやろう。
「斎場に、垣根と書いて『
「響きはいいわね。でも斎場の垣根って、何か悪い意味だったりするんじゃないの」
「いいや。元々『斎』の字は『いつき』と読んで、身を清めて神に仕えることを指すんだ。つまり、そうやって神に仕える場所で、垣根が巡らせてあるものといえば」
「ああ、神社」
「正解だ」
よくできましたと茶化してやろうかとも思ったが、先にほめてほめてと頭を出されたため、何だか腹が立ってきて、やめた。
「へえ、じゃあ斎藤って苗字の人、実は凄いのかも」
「かもな。続けるぞ」
「あいあい先生」
「漫画で有名になった『唐紅』の『ちはやぶる』とは別に、『ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 今はわが名は惜しけくも無し』という歌がある。
噂などいくら立っても構わない、神域への境をも越えてしまおう、というほどの恋心を宣誓しているのと同時に、その相手が神域の向こう側――つまり、本来恋心を抱くことさえ許されない者だということを表しているんだ」
「なーる。恋は秘め事。秘めてこそ
季咲は己に取り込むように、酒と一緒にゆっくりと流し込んだ。
「素敵。気に入ったわ。あんたの口から、恋なんて言葉を聞くのも久し振りだし」
「冷やかすつもりなら帰るぞ」
「わー、わー、ごめんって」
昨夜奈緒が買い物したものと、今宵の一杯目分の金を置いて席を立つフリをすると、季咲が腰にわっしと絡んできた。鬱陶しい。抜け目なく金の回収はしているのだから手に負えない。
少しの間、無言でジャズの空気に浸っていると、ふと、季咲が口を開いた。
「まだ、泣けないままなのね」
「干物女に心配されるほどじゃあない」
「ふうん」
「なんだよ」
「いつもなら『ほっとけ』で済ますのに、今日はリアクション違うなあって」
舌打ちをした。季咲といい、冬子といい、どうしてこうも察しがいいのだろう。少しは奈緒を見習ってほしいものだ。
「ほれほれ、お姉ちゃんに言ってみ」
「うぜえ……」
無視を決め込んで酒を呷ると、グラスが空いた。店員を呼ぶと、季咲が肩から身を乗り出して「栄助に雪漫々ね」と声を上げた。
マスターが目を丸くして振り向く。
「おい、出羽桜さんとこの大吟醸だろう。珍しいんねが」
「ふふ、お姉ちゃんの奢りよ。ちょっと、弟と腹を割って話がしたくってね」
「普通のと、氷点下五年熟成っつーのがあるんだが、どうする」
「氷点下なんちゃらって、瓶で何リットルなの」
「一リットルねえよ。七百くらいだべな」
「じゃあ、それ瓶で」
「あいよ」
ほくほく顔のマスターが、気前よく返事をして奥の酒蔵に入って行った。それだけでも、その値段を窺い知れる。
「いいのか」
「こうでもしないと、あんたまた溜め込むでしょ。香純ちゃんの時みたいに」
その話を出されると、何も言えなくなる。
香純とは、前の彼女の名前だ。自分の心さえ疑うようになったあの日から、酒に溺れ、単位さえ落としかけるほどに荒れていた。ぽっかりと空いてしまった穴は、ザルどころか、タガが外れてすっぽ抜けたような空間で、いくら飲んでも酔うことさえなく、しかし体はボロボロになっていく一方だった。
そこに手を尽くしてくれたのが、他でもない季咲である。
香純のバイト先に行き、相手の男とやらの顔を見てこいと指図したのも姉で、今、こうして人間として生き恥を晒すことができているのは、彼女のおかげといってもいい。きっと、この先もずっと頭が上がらないのだろう。
マスターが出してきた黒の瓶を開けると、奥深い甘さが漏れ出した。グラスの底に、少しだけ注いでみる。値段の予想もしているからだろうが、素人の舌にも上等と分かるまろやかさだ。
「そんで、誰が気になってるの」
「気になるといっても、姉貴が言う意味合いとは違うぞ」
そう前置きして、酒気とともに冬子のことを吐き出した。名前と、下着のくだりは伏せて。
じっと黙って酒を傾けながら聞いていた季咲が、薄目を開けて、一瞥をくれた。
「うん、話は分かった。それで、その子の『食事』を止めさせたいのは、教師としての答えなの? それとも、男としてのもの?」
「それは、どう違うんだ」
「全っ然違うわよ。やめるべきだと諭したいのか、やめてほしいと願っているのか」
改めて問われても、やはり分からなかった。なまじ、教師と男とを入れ替えても文章は違和感なく成立してしまうのだから性質が悪い。
「まあ、今はいいわ。あんたなら追々分かるだろうし。ただ一つ、これだけは頭の隅に置いておいて。少なくとも今、彼女の血液嗜好を止めることができるのは、あんただけだよ」
「俺に、だけ……」
すっかり参ってしまう。
元々、自分の手に余る問題かもしれないと思ってはいた。しかし季咲によって輪郭をなぞられ、その中身を掬い上げられると、混沌としたものの深さに改めて気付き、眩暈がする。
「少し、言葉遊びをしよっか」
季咲は酒を注ぎながら、悪戯を思いついたように笑った。思わず居住まいを正す。彼女がこの眼をするときは決まって、先生と生徒という立場が入れ替わる。
「異食症はメンタルの病気なんでしょう。病とは『やめまい』。自分では止められないものよ」
「いや、待て、語源は逆だ。字の成り立ちは、人が臥せり、止まり居つくことから来ているはず。読みの由来は知らないが、せいぜい『
「けれど、そうだったらと思えば、そんな風に聴こえるわよね」
禅問答のようだ。季咲が何を伝えようとしているのか、思考を追い縋らせる。
「前にあんた、『元気』の語源は『減気』だ、って教えてくれたでしょ」
「ああ」
「体に満ちる『病の気』が減るから元気でいられる。『健康な気』が満ちたからじゃあない。まるで、健全な状態が異常のような言い方じゃないの」
「かつては風邪でさえ命取りだったんだ。それほど重要視されていたんだろうよ」
「そうかもね。じゃあ、
けれど、やる気って大事よね。だったら、何千年という歴史の中で、どんどん基準値が高くなっていてもいいはず。でなきゃ、高地に住む民族の子は、産まれた直後に亡くなっているわ」
「待った。肉体の環境適応と精神の昇華を一緒くたにするから滅茶苦茶に――」
なるんだ。そう言いかけて、ハッとした。大吟醸の口当たりの良さがはっきり分かった。鼻に抜ける香りの芳しさに脳が包まれた。流れているのはマイルス・デイヴィス。遠くでロックピックで氷を砕く音が、マスターの鼻歌のおまけつきで踊っている。
一気に処理がなされていく情報の中から、今いちばん必要なものを掴む。
「つまり、なんだ、姉貴は。教師としてのあるべき生態と、俺の彼女への感情、どちらを主とするか。そう言いたいんだな」
「グッボーイ。いい子にはおつまみを追加してあげましょう」
したり顔で、季咲は店員に生ハムのサラダとピザを注文した。
料理を待っていると、一人の若い女性がステージに立って、ソプラノサックスのソロを始めた。トランペットとの合の子のような小振りな楽器で、通常のサックスよりも高い音色でありながら、その芯は残している。オリエンタルな吟遊詩人を想わせるそれは、ピアノとのデュオも映える。好きな音だった。
「綺麗な音ね。でも珍しいじゃない、マスター。ここでの演奏なんて初めて聞いたわよ」
「んだべ。普段は仙台で勉強してて、こっちさ帰ってきたときには駅前で路上やってるんだど」
「へえ」
料理を運んできたマスターの説明には生返事で返し、演奏に耳を傾ける。鳥の鳴くようなビブラートが心地いい。知らない曲だったが、聴衆の中から漏れてきた声によると、何かのアニメの曲のアレンジらしい。雪の降る夜に恋を語るような、淑やかなメロディだった。
不意に、季咲が噴き出した。
「あ、いや、ごめん。あんたも大概ビョーキだなって」
「謝ったそばから貶すとは、いかがなものかと思うが」
「だって、あんた。あれだけ断っといて、弾いているんだもの」
指摘されて気が付いた。カウンターテーブルの上でリズムを刻む指づかいは、無意識に伴奏になっていたらしい。
「ていうかあんた、これ、原曲はアイドルアニメの劇中歌なんだけれど。観てんの?」
「いいや。観たことはないし、この曲も初めて聴いた」
素直に吐くと、季咲は愉快そうに太腿を叩いた。
「即興でやってのけたと。やっぱり、腕は鈍らせていないのね。病は気から。その気は既に憑りついていて、自分じゃ制御できないのかしら」
「マスターには言うなよ。無理矢理のデュエットは、あのサクソフォニストにも失礼だ」
「うーい、おっけ」
季咲は気取って、ピザを上から垂らすように頬張り、また真剣な瞳をする。
「私は、手を伸ばしたんだと思ってるよ」
「……あいつが、俺にか」
「ええ。聞いた限り、その子は聡い。もし周りにバレて、自殺未遂あるいは自傷癖のある内気な子として扱われても、巧妙に順応して猫を被れるはず。あんたが彼女に気付いた段階じゃあ手首も切ってなかったんだし、別に血を欲する姿までは見せなくてもよかったじゃない」
「わざわざ見せたのは、止めてほしいから、だとでも」
「あるいは、食事を邪魔されてお冠だったか。万一にもあんたのことが好きで、自分の本当のところを知って欲しかったのか」
「仮に後者ならば、こうした癖は隠すものだろう」
「その子がいいカッコしいブリッ子しいなら、そうなんでしょうよ」
季咲はサラダに箸を伸ばし、大吟醸で流し込んだ。そこまでするならサラダを頼まなければいいだろうに。
ハムをつまみながら、彼女の言葉も咀嚼する。
なるほど、冬子の態度を考えてみれば、何か媚びるだとか、アピールしようという素振りはあまりなかった。むしろ、冷静になって振り返ると、数少ないそれらも、どこか背伸びをしているようにさえ思う。
大人の恋を教えてくれと、彼女は言っていた。何故、大人に拘るのか。シンプルに、恋、では駄目なのか。そして、
「何故、俺なんだ」
別の酒を注文していた季咲が、さあね、と返事をした。
「手を染めたのに、止めるときは足を洗うくらいだから。そんなものよ。人のきっかけなんて、そんなもの。あんたがその子について悩むきっかけも、別に大層なものじゃないでしょ」
面と向かって言い切られると、釈然としないものはある。しかし、概ねその通りだった。冬子の深い瞳を見たから、などと口を滑らせようものなら、向こう数年はイジられるだろう。
「ただ、中途半端にだけは関わっちゃダメよ。もし、万が一、億が一。その子があんたに好意を持っているのならば、あんたは最悪、不逞教師としてクビになることも覚悟しなさい。二つの乙女心を壊すかもしれないんだ、そのくらいの罰はあって然るべきよ」
「あいつと、もう一つは」
「奈緒ちゃん。気付いていないとは言わせないわよ」
軽く睨んできてから、すぐに、季咲はんあー、と変な声を上げた。
「ああ、いい、やっぱいい。助太刀無用って言われてるんだったわ。あんたも立場上、口にはできないでしょうし。摘んじゃいけない花園なんて、アイドル並みの禁止令よね、ほんと」
聖職者様は大変だあ、と苦笑しながら、彼女はやってきたカクテルを飲んだ。
「聖職者って名前も、アレよね。『斎垣』に似てるかも。越えてはいけないってやつ」
「それを解っていて、焚きつけているのか」
「あんたがそうしたいなら、って言っているだけよ。別に、投げやりや無責任で言っているんじゃないからね」
昔からこうだった。必要な情報だけを並べてみせ、最後のカードは本人の手で切らせる。季咲流教育術と自ら名付けていることだけは、少々いただけないが。
「むしろ興味深々なのよ。栄慈の父親たる栄助は、なんという答えを出すのか、ってね」
「ほんと、姉貴はいい母親になるよ」
「おう、お姉ちゃんに向かって皮肉とな。さっきの大吟醸、持ってもらおうかなあ」
「……勘弁してくれ」
それからは最近気になっている漫画だの、ドラマだの、俳優だのといった他愛もない話を肴に飲み続け、気が付けば、日付の変わる閉店間際までくだを巻いていた。
日曜は二日酔いで無為に潰し、翌日、まだ気だるい体で布団から這い出て支度をした。車の暖気をしながら、バックミラーで仮面のチェックを行う。
教育実習以来である朝のホームルームは、肩透かしなほどつつがなく終了した。授業は担当していたために自己紹介の類も省けたのだから、こんなものかもしれない。
冬子は窓際の席にいる。連絡事項を読み上げながら何度か様子を窺ったが、彼女はこちらを見つめ返すでもなく、普段通りだった。まるで、先週のことが嘘だったかのようだ。
小休止を挟んで、そのまま国語の授業に入る。
「今日からこの時間、現代文が古文に変わります。教科書、持ってきていない人はいますか」
訊ねると、パッと一つの手が挙がった。
「センセ、月曜日の一時限目から古文はきついですっ」
盛大にスベッてくれたのは、奈緒だった。頭が痛い。何かあればアシストが欲しいとは思っていたが、そういうことじゃあない。古文だって初めてではないだろう。
反応に困っていると、その空気感で笑いが起きた。結果論だが、仕方ない。今週末は甘いものでも用意しておいてやろう。
「確かに、本間さんの気持ちも分かります。それでは、皆さんに古文の魅力を知っていただけるよう、私が気に入っている、綺麗な言葉をご紹介しましょう」
無意識で黒板に『斎垣』と書きかけて、消す。代わりに『追い風用意』と書いた。
「追い風用意。この言葉は、当時の女性の身だしなみや心遣いとして、衣服に香を焚いておくことを意味するものです」
ふと、冬子が目に入った。柔らかな薔薇の香りを思い出す。悲しいかな、結局は冬子から離れられない自分がいた。
「センセー。香を焚いたんなら、残り香用意、とかじゃないんですかあ」
「お、梅津さん、いい質問ですね。ここでいう『追い風』とは、残り香をもたらす風のことではなく、想いを寄せる男性の心、あるいは、自分の恋心そのものに対する追い風だと、先生は考えています」
何人かの女子生徒がほうっと頬を染めて、顔を見合わせる。重畳。手応えはあったか。
しかし冬子は、奈緒の小ボケに頬を多少緩ませたくらいで、他の女子と一緒になって色めき立つでもなく、普段通りだった。女子の細やかな変化にも気付かない系男子を自称する身ではあるが、それでも。ごく自然体に見える。
そんなモヤモヤを抱えたまま、一週間が過ぎた。SNSのIDは交換していたから、何度も連絡を入れてみようかと迷ったが、たまたま目にした新聞の隅に、警察官が女子校生にメッセージを送り続けた末に逮捕へ至った記事などを見てしまったのだから、間が悪い。
自分は、彼女を想うことができるのだろうか。愛することができるのだろうか。そうでなくとも、異食症という闇から救うことができるだろうか。
わからない。
放課後の雑処理をしながら考える。事前の引き継ぎがスムーズだったおかげか、クラス担任という肩書になっても仕事は然程増えていなかった。オメデタ女に少しは感謝しておこう。
「桜、散っちゃったねえ」
不意に、隣のデスクから話しかけられて、ビクッとする。
「そ、そうですね」
一組担任の工藤は苦手だった。自分を美人だと思っているタイプで、五十に迫ろうかというのに化粧は念入りで、歩くときの腰の振り方が尋常ではない。人当り自体は良く、目をかけてくれていることは有り難いし、事実生徒からも慕われているが、以前別の学校で生徒を喰いまくったために飛ばされてきたのだとか、実は今も我らがハゲ教頭とイケナイ関係だとか、黒い噂の尽きない人物である。まあ、今となっては、自分も人のことを言えないが。
「はっきりしない態度ね。あ、長谷堂クンは若いから、春は散る気配もないかしら」
「ははは、まさか。散るどころか、咲きすらしませんよ」
「あら、そうなの。誰か紹介しましょうか」
「い、いえ、お気持ちだけで」
どうにかこの場を逃れる言葉を探していると、デスクの上でスマートフォンが震えた。
画面に初めて通知された名前に、心臓が跳ねる。
『旧校舎で』
たった四文字のそっけない文面。それだけでも、歯車が動いたような気がした。
彼女が自分を求めているということが、自惚れだったとしても。我ながら情けないが、ようやく、決心がついた。
そういえば今日は金曜日だったか。また奈緒を待たせてしまうだろうが、構わない。冷蔵庫にシュークリームが入っているから食べてくれとメッセージを入れ、スマホの電源を切った。
鞄を引っかけ、机から煙草を取り出し、工藤にはお先に失礼しますと告げた。
「あら、仕事早いのね。若い人はエネルギッシュで羨ましいわ」
「いえ、荒木さんの引き継ぎがしっかりしていたおかげです。助かりますよ、ホント」
愛想笑いは、職員室を出たところで消した。
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