〈4〉桜の下が怖ろしいから
思いがけず清々しくなったドライブが行きついた先は、数年前にできたばかりの、大手スーパーのショッピングモール。開店セールをしていた頃に冷やかしに来たきりだ。
制服姿もちらほら見受けられるが、今のところ、その中に吉字高校のものは見受けられない。
ほっとして、車を降りる。
ぶらぶらと歩く店内は、引きこもり気質を自称する身には眩しかった。店頭でハンドメイドの石鹸を泡立てているところなど、県内では見たことがない。自分のような男が入らないだけで、山形駅周辺を、七日町通りでも散策すれば専門店はあるのだろうが。
立ち眩んでしまわぬよう、冬子の手元を見失わないようにして歩く。これではどちらが子供なのだか分かったものじゃない。それが可笑しくて、つい、笑ってしまった。
「どうしたの」
「いや、賑やかだなと」
「まだまだ。週末の半分も人いないよ」
ああ、と呻いた。これ以上の人でごった返すのか。想像するだけで酔ってしまいそうだ。
そんなことを考えていて、ふと気が付けば、本当に酔ってしまいそうな、パステルカラーの空間に迷い込んでいた。
そこが下着店であることを理解し、離れようとすると、冬子の指に袖を摘ままれる。
「どうして逃げるのさ」
「居辛いだろう。そこのベンチで待っているから、選んで来るといい」
「ふうん、恥ずかしいんだ?」
「やかましい」
「大丈夫だって。私と一緒にいれば、連れなんだってスルーしてもらえるから。むしろ、そうして挙動不審にしている方が、よっぽど変態チックだよ」
「そういうものなのか」
「うん。ほら、仙台駅と繋がってるお店、あるでしょ。ああいうところに行ったときも、エスカレーター上がってすぐの柱の所で待っている男の人とかいると、ちょっと怖いよ、あれ」
あの辺りはフロア全域が女性物だったから、存在の認識はあっても、足を踏み入れたことがなかった。だが、なるほど。言われてみればそうなのかもしれない。
深呼吸をして、逃げ腰の度胸を鎮める。冬子はくすくすと笑って手を離した。
しかし、据えかけた腹も、数分後には浮足立つ破目になる。冬子という北極星を見失った船は、試着室の前で呆然と、いたたまれなさに凍えるしかないのだ。
少しでも視線を上げれば、周囲にある華やかな下着の園が目に入ってしまう。目を逸らせば、そこで鉢合わせしてしまった店員の目線が好奇の色を含んでいるように感じて、背を向ける。
止むを得ず凝視する形となったカーテンからも、正直言えば逃げ出したいくらいだが、
「栄助さん、ちゃんといるよね?」
試着室にいる姫君が数十秒おきに確認してくるのだから、そうもいかなかった。こういうところで先生と呼ばないようにするという気遣いが、絶妙に引け目を逆撫でしてくれる。
「ああ。ここにいる」
これまた何度目になるか分からない返事を返して、目を瞑る。暗闇の方がまだ居心地がいい。
「たまにはフロントホックにしてみようかな。でも、寄せて上げた時に痛くないものがいいよね。いっそ透けているのをチョイスして、大きさ以外で勝負するのもアリ、かも」
聞えよがしの独り言は努めて無視をし、じっと、天の岩戸の中で息を殺す。外界との隔たりは薄い瞼という、何とも頼りないものではあるが。
「ねえ、栄助さん。今、二つで悩んでるのだけれど。どっちがいいかな」
パステルカラーの世界に引き戻された。候補をピックアップしている間、男性物の下着との値段の解離に衝撃を受けたものだが、二つ程度ならお安い御用である。
「言っておくけれど、両方買う、は禁止だからね」
立ち惑った。よもや冬子は、カーテン越しにも心を読めるのだろうか。
「好きな方でいいんじゃないか」
苦し紛れに言葉を絞り出すと、むくれたような溜め息が返ってきた。
「私は、買うお金を頂戴、じゃなくて、新しいのを買って、って言ったはずだよ」
やはりか、とポケットに入れかけた手を戻す。
冬子の『お願い』についても、彼女が選んだ新しい下着――それも、少し奮発した値段のものを――に財布を渡すだけで済むと思っていたのだが。
「どうしても、選ばなければいけないか」
「当然。言うでしょう、プレゼントは気持ちが大事だって。何をくれたかも大切だけれど、それ以上に、栄助さんが選んでくれた、という過程の方が嬉しいものだよ」
「さいでございますか」
質より量、過程より結果の即物野郎には、中々のカルチャーショックである。
「どうすればいい」
「簡単だよ。ちょっと見比べてくれればいいの」
カーテンの隙間から伸びてきた細腕に捕獲され、試着室へと引き摺り込まれた。間近に迫った彼女に息を呑む。薄暗い旧校舎と、明るいムードの下では随分と印象が変わる。
可愛らしいと、思った。
「それで。どっちがいいかな?」
冬子は小首を傾げ、自身の白い下着を挟むように、薄緑と、ピンクのものとを掲げて見せる。
「どうしても、選ばなければならないのか」
「まだ言うか。もしかして、どっちも似合わないかな」
「そういうことではない。ああ、分かった、そんな目をするな。選ぶ、選ぶから」
捨てられた子犬のように揺れ始めた瞳に白旗を上げた。
これまでファッションなどいうハイカラな言葉を避け続けてきた頭を振り絞る。さすがにここで「冬子はどちらが好みだ」などと逃げてはいけないことくらいは分かっていた。
もうすぐ夏になるという季節を考えれば、ライトグリーンも涼しげだが。しかし、個人的には、ピンクの方が彼女の柔らかさに似合う気がする。
純粋に、陶器のように清廉な容姿の彼女が女の子らしさとやらを纏ったとき、どのようになるのかという興味もあった。
「俺は、こっちの方が似合うと思う」
「ん、そっか」
正直に告げると、冬子はふにゃり、と微笑んで。
「それじゃ、これにする。着替えるから、栄助さんは出てて」
いともあっさりと追い出されてしまう。すぐに、やられた、と思った。彼女の目に涙など溜まっていなかった。ポケットから煙草を出しかけて、舌打ちをする。
試着室から出てきた冬子と会計を済ませ、店員の目の前で脱ぎたてのものが欲しいかなどと茶化されるという拷問を強いられたところで、ようやくワンダーランドから解放された。
立ち並ぶテナントの軒先を冷やかしながら、店から出て横断歩道を渡ろうとした冬子の向こうから、スピードを落とす気配のない車が来ているのを見て、肩を引き寄せる。
「わっ」
「あまり離れるな。危ないだろう」
「はあい。じゃあ、しばらくこのままで」
悪いのはあの車とはいえ、不注意を反省をする気はないらしい。
絡めてくる腕に顔を顰めると、冬子の頬が膨らんだ。
「だって、手は塞がっているから繋げないんだよ」
「荷物持ちを断ったのはお前だ」
「そりゃあ、生徒に劣情を抱くような変態さんには渡せませんから」
「言ってろ」
そんな、溜め息を仲裁するかのように。
ひとひらの桜の花弁が降りてきて、長い黒髪にちょこんと座った。
「髪に桜の花びらが付いた」
あれま、と一人ごちて払おうとするのを止める。
「いや、暫くこのままで」
「どうして」
「似合っているからだ」
どうやらピンクの下着を選択したことは正解だったらしい。彼女に柔らかな色はよく映える。
「ありがとう。でも桜は嫌い。花の下が怖ろしいから」
「坂口安吾か」
「さすが国語教師」
渾身のクイズを出した子供のように、無邪気な笑顔が咲いた。
改めて、冬子に桜が似合うと思った。美しいものほど、人を狂わせる気を孕んでいるが、最もどうにかなってしまっているのは、桜本人なのかもしれない。
人は時にそれを、経験によって培ったものだとか、修羅場を潜ったからだとか評するが、目の前の純な笑顔の裏に、果たしてどのような経験や修羅場があったことか、知る人は少ない。
だからこそ、彼女のことを知りたいと思うのだろう。
「読むのか」
「ううん。気取ってみただけ。ほんとうは春も桜も好きだよ」
はにかんで、冬子はキーの開いたドアに滑り込む。桜はいつの間にか去っていた。
「私の実家、新潟なのだけれど。先生は『SLばんえつ物語号』って知ってるかしら」
「ああ、聞いた事はある。阿賀野川沿いの紅葉で有名だな」
「そうそれ。私、あのSLに乗って見る桜が好きなんだ」
キーを回そうとした手を止める。
「山には雪の残滓があって、でも麓には春の芽吹きがあって。それを、SLが走り出す瞬間に、もくもくと立ち込めた黒煙で覆ってしまうんだよ。ああ、穢してしまうんだって、ゾクゾクするんだけど。ぱっと煙が晴れると、そこにはまた美しい景色が待っていてくれてる。それがとても嬉しくって、でも無性に腹が立って。大好き」
「……わかるよ」
向かい側で暖気中の車のマフラーの前を通った花弁に重ねて見ながら、エンジンをかけた。
「何か、軽く食べて行くか」
「いいのっ」
冬子が手のひらを合わせてはしゃぐ。やはり、笑い顔の方が似合っている。
闇に触れているのも艶があって扇情的ではあるが。彼女が一人で背負うには早すぎる。それだけの荷物があるのだ、あの伽藍洞の部屋でも窮屈だろうに。
「ええっとね、待って、今思い出す。……うん、腰掛庵のわらび餅が食べたい」
「仰せのままに」
「うむ、苦しゅうない」
あごを威張らせてから、冬子は堪えきれなくなったのか「うふふっ、あはははっ」と腹を抱え出した。ぱたぱたと足を振る度に、つられて揺れた髪から彼女の香りがする。
ああ、やはり。薄墨冬子には笑い顔の方が似合っている。
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