〈3〉そっちは許したくない

 慣れた手つきで包帯を巻いてくれた冬子は、ブラウスを羽織ったところで、手を止めた。


「どうかしたのか」

「血。垂れてたみたい」


 ほらここ、とブラウスの前を開けて胸を突き出してくる。なるほどたしかに、ブラジャーの裾野の部分に赤黒くなりかけた染みがあった。


「薄墨が怪我をしているんじゃないか」


 捲ろうと指をかけた瞬間、冬子がぱっと身を翻した。

 耳元まで真っ赤に染めた彼女の唇が引き結ばれているのに、自分が何をしようとしていたのか気付く。頭が痛い。あれほど自ら手を出さぬよう戒めていたというのに。


「すまない」

「許さない。と言いたいところだけど、うん、まあ、気にかけてくれたんだものね。ふふっ、でも良かった。先生もおっぱいに興味があるんだ」

「本っ当に君は」


 何か一つ茶化さないと気が済まないのかと声を上げてしまいたかったが、僅かなしこり程度、口にするだけ野暮だろうと思い留まる。

 しかし、その反応はお気に召さなかったらしく、今度は冬子が顔を顰めた。


「そっちは許したくない」

「はあ……何が」

「さっきから私のこと、薄墨、とか、君、とか。何か余所余所しくてやだ。こういうの、男性が気を利かせて、自然に切り替えてくれるんじゃないの」

「君こそ、先生先生と呼んでくるじゃないか」


 冬子はしばし固まったようになって、ぷっと噴き出した。


「なあに、呼んでほしいんだ? 『先生』って枷が外れちゃうんじゃない。それとも、外したいのかな」


 耳をねぶられるような、甘美な囁き。体の神経が総動員し、彼女の喉の鳴りさえも逃さないよう、じっとそばだてる。


「え、い、す、け、さん」


 震える。脳を蕩かせるような声は、鳥肌が立つほどに心地良かった。

 忘れて久しい感覚に屈しかける。多分今の俺は、最低の教師である前に、男としても相当なグズだろう。自分より七つか八つも下の少女に主導権を握られっぱなしなのだから。


 そんな自嘲を知ってか知らずか、冬子は満足そうに微笑むと、さっとブラウスのボタンを閉めた。リボンを直し、無造作に髪を梳きながら、艶やかな流し目を向けてくる。


「お願いがあるのだけれど」

「何だ」

「汚れてしまったから、買ってほしいな。新しいの」


 頭を抱えた。厄日だ。しかし望むものに応えると言った手前、無下に扱うのも癪である。


「先生の好きなもの、選んでいいよ」

「……支度をしてくるから、踏切を超えたところの路地を曲がって待っていてくれ」

「やたっ」


 言ってみるもんだねと鼻歌混じりに、鞄を拾い上げて冬子が出ていく。ふと、廊下に出たところで振り返った。


「酒屋さんの裏、だよね」

「ああ」


 今度こそ離れていく薔薇の香りを見送りながら、ぼうっと、廊下の窓から空を見る。

 桜はひとひらも舞っていなかった。


 中途半端に満たされてしまった下心を引き摺るように、気だるい足取りで職員室に戻る。鍵を返す気配をハゲ教頭に見とがめられないよう息を殺しつつ、鞄にいくつかの書類を詰め込んで、明日から世話になる一組の担任に挨拶を二、三交わしてから、真面目だねえ、などという黄色い社交辞令を尻目に職員用玄関をすり抜けた。


 車に乗り込む。教頭の行きつけらしい酒屋を目印に路地を曲がると、鞄を抱えて手持無沙汰そうにしていた冬子が、ぱっと笑顔になった。


「待たせたか」

「ううん、今来たとこ」


 ちゃっかり助手席に乗り込んでから、足下に鞄を置いた姿勢のまま、彼女は小さな肩をくつくつと震わせた。


「どうした」

「ああ、いや、ごめんなさい。今来たとこって、言ってみたかったんだ」

「そんなものか」

「そんなものだよ」


 曖昧に相槌を打って、アクセルを踏んだ。

 自分は待ち合わせには早めに着いて暇を潰している性質だったから尚更、その台詞を女性が言うところは想像がつかなかった。もし、次に彼女ができることがあれば、言わせてみようか。


 そういえば、冬子はどうなのだろう。彼氏と出かける際に、機会はなかったのだろうか。

 ふと、嫉妬めいた心が首をもたげるのを感じて。くだらないと、胸の内で吐き捨てる。


 どこへ向かうのかと訊ねると、冬子は二つ先の信号で曲がるように言った。


「そこのアパートに寄って。適当なところへ停めちゃっていいから」

「店には見えないが?」

「すけべ。そんなに下着に興味があるのかな」


 からかうように頬を指で突っついて、シートベルトを外す。


「私の家だよ。さすがに、制服のままじゃあ拙いでしょう」


 成程、そこまでの気は回らなかった。

 着替えるつもりならば、それなりに時間があるだろう。ダッシュボードの携帯灰皿を探っていると、いつの間に運転席側へ回り込んでいた冬子に窓をノックされた。


「何してるの。上がってよ」


 トントンと靴の踵を跳ねさせた催促に、観念して車を降りる。

 簡素な外観のアパートの、一階二号室が冬子の部屋だった。


 彼女の後に続いてキッチンを抜けたところで、伽藍洞のリビングにハッとした。

 振り返る。洗濯機や冷蔵庫もない。よく見れば、キッチンも小綺麗だった。

 部屋の角に積まれた何冊かの文庫本と、コンセントに挿したままのスマートフォンの充電器だけの風景は、生活感がまるでない。


 押入れの下段に、ようやく畳まれた布団を見つける。スウェットもセットで仕舞われていた。

 上段をクローゼットとして代用しているらしい。カラーボックスに詰められた下着類の単色っぷりにも驚いたが、突っかえ棒に掛けられていた彼女の服が三種類しかないことにもまた驚いた。制服、学校指定のジャージ、そして私服らしきもの。それぞれ同じものが数着ずつ。


 冬子はそこから制服でないものを選び取った。ワンピースにライダースジャケットと、シンプルな組み合わせだ。

 彼女は制服を脱いだっきり、そのままワンピースに足を通そうとしている。


「下着はそのままでいいのか」

「だめかな」

「血が付いているんだろう」

「新しいの、買ってくれるんでしょう?」

「そこまでの間は」


 冬子は袖を通した珍妙な姿勢のまま、何やら考え込んだ。


「もしかして、先生のだから着けていたい、とか、言わせたいのかな」

「からかうな。そんな理由なら、初端ハナから新しい下着を買う必要もないだろう」

「ふふ、ごめんなさい。けれど、これを誰かに見られてしまったらと思うと、面白いでしょう」


 向けられた上目遣いに、ため息を突き返す。


「制服じゃ拙いと言ったり、下着を見られたら面白いと言ったり、どっちなんだ」

「さあ。どっちだろうね」


 狐のようだと思った。一見、猫のようにじゃれてくるのかと思って油断していると、たちまち足を掬われそうになる。

 制服をハンガーにかけ、消臭スプレーをまんべんなく吹きかけた冬子は、よし、と呟いた。


「この辺りだとクラスの子に鉢合わせしそうだから、イモ天まで足を伸ばそっか。付き合わせてしまうのだし、ガソリン代くらいは出すよ」

「子供が余計な気を遣うんじゃない」


 車のエンジンをかけながら窘めると、冬子がむう、と露骨に不満を表した。


「世が世なら、十四で元服なのに」

「君はいつの時代に生きているんだ」

「でも、体は大人だったでしょう」


 からかう吐息は、左右確認をするフリで誤魔化す。


「その服、同じものが三着あったが。他のものは着ないのか」

「これがしっくりくるんだよ。レザーだと袖も捲れにくいからね」


 腑に落ちた。断りを入れ、煙草に火を点けて窓を開ける。一口目が流れていくのを見るともなしに見ていると、不意に耳元で、


「もちろん、先生が他のを着てほしいなら。いいよ」


 アクセルを強めに踏んだ。どうしてこう、彼女は。

 かと思えば、助手席が大人しくなる。横目で窺うと、冬子はじっとこちらを見ていた。

 頭が痛い。


「……似合っている」


 伝えると、彼女はくすぐったそうに首を縮めた。どうやら、今回の乙女心クイズには正解したらしい。


「ねえ、曲とかかけないの」

「ほぼ通勤にしか使っていないからな。専ら天然アンビエントだ」


 半分嘘だった。休日に遠出をするときのお供には、クラシックの名盤をかけている。ただこうした手合いは、短い通勤時間で飛び飛びに聴くものじゃあない。そう思うとヴォーカリストたちの作品もじっくり聴かなければ失礼に当たる気がして。中々手を出せなくなっただけだ。


「じゃあ、私のアイフォン、繋げていいかな」


 既にカーナビをぺたぺたと弄っていた冬子が、無邪気にねだる。


「ああ。好きにしていい」


 無音よりは気が紛れるだろう。それに山形市から天童市までは、隣接しているとはいえ、二十分は車を走らせなければならない。音楽に耳を傾けるにも支障はない。


 ぽぴん、と軽快な機械音がした。ブルートゥースの接続が完了したようだ。いくつかの操作音が止むと、厳かながらも繊細な、ヴァイオリンの旋律が車内に膨らむ。

 今どき珍しいオーケストラバックの前奏に心が躍る。


「これは誰だ」

「さだまさし」


 驚いた。およそ十代の口からついて出るとは予想もしなかった答えにブレーキを忘れ、信号を黄から赤に変わるぎりぎりのタイミングですり抜ける。この先、高速道路を潜ったところによくネズミ取りが潜んでいるため、ひやりとした。


 一体どういうきっかけがあってのチョイスなのか興味が湧いたが、ここで質問攻めにしてはポリシーに反する。そんな風に会話を嫌がるものだから、姉などからは、自分が運転するドライブはすこぶる不評だった。


 だからだろう。歌に聴き惚れている冬子の横顔に、目を奪われてしまうのは。

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