〈2〉御馳走様、先生
「上だけでいいよ。そこに座って」
指し示されたのは、机から下ろされた椅子。そこへ大人しく腰を下ろし、ジャケットとワイシャツを脱ぐことにした。
シャツを簡単に畳んでジャケットの上に放ったところで、目の前の冬子までが、ブラウスのボタンに手をかけていることに気が付いた。カッターをこちらに向けたまま、左手の指だけで器用なものだ。
「何をしているんだ」
声は震えていたと思う。
冬子はリボンを咥えたままで口角を吊り上げた。
「ういえいうんあお?」
脱いでいるんだよ、なんてことは見れば分かる。
「企みの中身を訊いたつもりなんだが」
「せっかちだね、先生も。プレゼントを開ける前に、中身を聞いちゃうタイプかしら」
「そもそも、包まれた贈り物を貰う機会がないな。そんなことをしてくれるのは、サンタ・クロースだけだったよ」
冬子はふうん、とだけ言うと、ついにブラウスを脱ぎ捨てた。
思っていたよりもずっと華奢な体に、白いブラジャーが溶け込むようだった。黒髪とのコントラストが相まって完成された肌は穢れなど何もないようで。自傷行為に及ぼうとしていたことさえ全て夢だったかのようだ。
このような女性は存在しないと思っていた。付き合った女性にも、エロスを感じることはあっても、そこに芸術めいた何かを見出したことはなかった。一枚脱げば雄と雌でしかいないのだ。原始からなる姿に情緒もへったくれもないのだと。
その認識は改めざるを得ないだろう。天使のような美しさ、などという歯の浮くような口説き文句も、今なら笑わずに頷けるような気さえする。
鞄からスマートフォンを取り出した冬子は、振り返り、唇をすぼませて唸った。
「難しい顔してる。私の下着姿じゃあご不満だったかな?」
「不満などないさ。あるとすれば、この状況そのものに対してだ」
「良かった。私、勝負下着なんてものとは無縁だからさ。今度、先生の好きな色を教えてよ。それを付けたげる」
「こちらとしては、今回限りであってほしいのだが」
「ちぇ。つまんないの」
にわかに、微かな薔薇の香りに包まれた。すぐに、頬にキスをされたのだと分かった。
驚きに剥いた目の前に、スマートフォンが翳される。そのディスプレイには二人の顔がはっきり映っていた。もちろん、その首筋から下の素肌が露わになっていることも。
冬子は唇を柔らかく押し当てたままインカメラで数枚の写真を撮ると、満足げに喉をころころ鳴らして、体を離した。
残り香が薄れていくのが切なくなって、身じろぎする。
「さて、脅迫させてもらうよ。私について他言しようものなら、この画像をバラ撒いて、先生を社会的に終わらせる」
「そんなことをしなくても、口外するつもりはないさ」
「だろうね」
鼻で笑いながら、冬子は開きっぱなしの鞄へとスマホを放り投げた。ナイッシュー、と小さくガッツポーズをしてから、足の上に跨ってくる。
首筋から胸板へと指が伝う。細い軌跡がじれったい熱さを孕む。
「私、こんなに恥ずかしい格好をしてるんだよ。それなのに、手の一つも伸ばしてくれないんだから。てっきりゲイか、クソが付く捻くれ者か、私のカラダに魅力がないのかと思ったよ」
指先でのの字を書きながら、拗ねたように見上げてくる。
「不満はないと、言ったはずだ」
強がりだった。奥歯を確かに合わせていないと、今にもタガが外れそうだ。
「先生は料理を褒める時に、不味くはない、と言うのかしら」
冬子は怒ったようにこちらの頬を手で挟み、額を寄せてきた。
「女の子はね、及第点なんかいらないんだよ。首席の座が欲しいんだ」
彼女の言っている意味が、理解できなかった。いや、理屈は解かる。こと一番を求める心理は男も女も変わらないだろう。そしてそれが、唯一無二であることを願っている。
しかし、前提がおかしい。それを求めるのは、自分が想いを寄せる相手ではないのだろうか。
まさか、と思いかけて、馬鹿馬鹿しい思考を振り払う。そんなもの、思い上がりでしかない。
それに、俺は。
「俺は――」
誰かを一番と想うことができる自信がない。喉まで出かかった言葉を飲みこむ。棘で助かった、喉元で引っかかってくれたのだから。
「綺麗だと思う、とても。このまま時が止まればいいと願うほどに」
瞳が遠のいた。
かと思うと、胸に埋めてくる。はらりと髪がほどけ、きめ細やかなうなじが覗いた。
「ずるいなあ。本当、ずるいや」
噛みしめるように呟いてから、
「優しいんだね、先生」
彼女はこちらの首に手を回し、ぶらさがるように後ろへもたれる。
随分と、軽かった。
「ねえ。先生は彼女とかいるの?」
「いいや。何故」
「私の胸、見ないように一生懸命なんだもの。先生になら、触られてもいいんだよ」
「君こそ、いつもこんなことをしているのか」
飄々とした態度に穏やかでいられなくなって、つい、口走ってしまう。
冬子の瞳がまた深くなり、やがて、長い溜め息とともに浮上してくる。
「クラスの子とかなら大半が経験済みだし、今日日珍しくはないでしょう。それに私、先生になら、って、言ったはずなのだけれど」
「……すまない」
「もう、少し意趣返しをしただけで、謝らないでよ」
彼女は一体、俺をどうしたいのだろう。
据え膳食わぬは、という言葉もあるが、仮にも教壇に立つ身が、未成年の、ましてや生徒に触れてもいいのだろうか。
己を呪いたくなる。いいのだろうか、などと考えただけでも教師失格だろう。
そんなこちらの胸中を見透かしたか、こちらの目を覗きこんでいた冬子は、怒ったような哀しんだような、くしゃくしゃの顔で笑った。
「本当に、優しいんだね」
何か言葉を返そうとして、できなかった。
「私の秘密、言わないでくれる?」
「言ったはずだ。君が自傷行為をしていようと、初めから言いふらすつもりはなかったよ」
「ああ、やっぱり。そう思ってたんだ」
眉を潜める。
「違うのか」
「違うよ。いや、合ってるのかな。ん、やっぱりちょっと違う。私が腕を切ろうとした理由であり、切ることで得ようとしたもの。それが私の秘密」
掲げて見せられたカッターを見て、内心、首を傾げた。
左腕に数条走った薄紅の傷痕が痛々しい。それを作る理由とはなんだ。心に何かを抱えているのだろうが。少なくとも学校ではそのような素振りも噂も見聞きしていないし、前任者の担任――個人的にはこちらの方がよっぽど神経を疑う女だ――も、すこぶる優秀な生徒として冬子の名を挙げていた。ともすれば、家庭環境だろうか。確か、彼女は地元新潟を離れて一人暮らしをしていると聞いている。
見当が付かない。ただ。
もし、もしだ。自分が身代わりになることで、彼女の衝動を押さえられるのなら。
「力になりたい」
真心からそう思った。
「それ、は」
たたらを踏んだ冬子は、油の切れた機械のように頭を振る。
「先生が満たしてくれるって解釈で、いいのかな」
「ああ。君が望むのなら」
生唾が彼女の喉を鳴らした。それに弾かれるように、水面にようやく上がれたのかと思うほどの大きな呼吸をして、カッターを取り落とした。
「本当に、ほんとうなの」
そう言うや否や、彼女は再び飛びかかってきた。
荒い息で、おどろになった髪を気にするでもなく、首元にひしと鼻を埋めてくる姿は、まるで愛し合っている最中にいるようで。
そっと、耳元に口を寄せてきた。
「我慢できない。ごめんなさい、先生」
捲し立てるように喘いでから、エタノールスプレーを持ち出し、ふと、いじらしい声で「利き手、どっち」と訊ねてきた。
右だと答えると、左の二の腕にスプレーを吹きかけられた。
安酒のような臭いが立ち上り、冬子の香りとぐちゃぐちゃに混ざり合って、甘ったるしく鼻に、口にと潜り込んでくる。
頭がくらくらしそうだ。
冬子が二の腕に噛みついた。甘噛みだった。痛みはない。何かを探るようにあにあにと場所をずらしながら、あるところまで来たとき、下あごを離した。
前歯だけを押しあてる状態から、彼女は、頭を横にスライドさせた。
「
思わず首を竦める。しかし、驚いただけで、そんなに痛みはなかったことに気が付いた。
「ごめんなさい、痛かった?」
「いいや。気にするな」
頭を撫でると、冬子は安心したように頬を緩め、傷口に舌を這わせた。
出血していたことにも驚いた。昔テレビで吸血鬼を見た時、自分の腕を噛んでみたことがある。しかし痛いばかりで、せいぜい青あざができることはあっても、それこそ吸血鬼のような鋭い牙がない限り、皮膚を穿つことはないと思っていたのだ。
よもや、滑らせるだけで容易に切ることができるとは。
「っふ……ぁ、んっ……」
冬子は無心だった。骨の髄まで吸い出されるかと思うほど、丹念に舐め上げ、丁寧に傷口をこじ開け、唇を強く押し付けてしゃぶってくる。
これまで経験したどんな口づけよりも、濃厚だった。
息を吸うわずかな間にもたちまち零れ落ちそうになる血を、冬子は慌てて追いかけ、愛おしそうに舌で掬っていく。それからは瞬く暇さえ惜しむように求められた。
ふと、彼女の鼻腔から漏れる息の合間に、微かな嗚咽が混ざっているのを聞いた。
見れば、睫毛の端が濡れているのが分かった。
傷口から冬子の秘密が沁み込んでくるのを感じた。それと同時に安堵した。
彼女は文字通り吸血鬼――否、現実に即して言い換えるなら、吸血症とでも言うべきなのだろうか。ともかく、彼女は血を欲していた。そのための自傷行為。自分が身代わりになることで彼女を傷つけずにいられるのなら、きっと、力になれたのだろう。
「あっ」
吐息に掻き消えてしまいそうな小さな声がした。物欲しそうな冬子の視線の先には、すっかり出血の止まってしまった、赤い染みのような、ほんの小さな傷痕だけがあった。
「構わない」
囁く。しかし、彼女は淡く充血した目を伏せた。
「大丈夫です……うん、大丈夫。御馳走様、先生」
「御粗末様」
「ううん、そんなことない。とても、甘くて。コクのある感じで、美味しかった。先生は、普段どんなものを食べてるの」
「少なくとも、血でないことは確かだな」
「もう、もうっ、いじわる」
ぱたぱたとじゃれる手のひらを受け入れる。
「冗談だ。特に不摂生はしていないつもりだが、変わったものを食べているわけでもないな」
「食べたものって、体液の味に影響あるんだって。梅津さんたちが話してた」
「そういうものなのか」
意外な雑学に感心していると、何故だか冬子は複雑な表情を浮かべた。
「どうしてそんなことを知ってるんだー、みたいに、怒ったりしないんだ」
「今日日珍しくないと言ったのは君だろう」
「むう。分かっていても、いたいけな乙女として扱うのが紳士でしょう」
唸るしかなかった。子供扱いの方が厭われるものと思っていたからだ。これまで、乙女心とやらを持ち出されて、そこに何かしらの答えを返せた試しがない。
自分は永遠に、性格イケメンなどと呼ばれる雲上人には届かないのだろう。
「――おい、何をしている」
ベルトを外されていることに気付いて、天井から視線を下ろす。
「何って、お礼だけど」
なんでもないことのように、冬子はきょとんと目を瞬かせた。
手は止まることなくベルトを外しきり、ジッパーを下げる。「止めはしないんだね」などと茶化すような口ぶりに、下心がどきりと震える。
「そんなに怖がらなくていいよ」
彼女は、上唇に触れるだけの優しいキスをして、照れたように笑った。
「先生は、捧げてくれたんだ。私も、奉げたげる」
「大袈裟だな」
「大袈裟なんかじゃないよ。それとも、口でされるのは嫌いだったかな。血を舐めた後じゃあ、気味が悪いかしら」
「いや、そういう訳では……」
気にかかったのは、そこに彼女の心が存在するかということだった。こちらが『食事』をさせたからそれに応えるというのは、あまりに短絡的で、刹那的すぎる。
捧げることと、愛することはイコールではないのだ。しかし、思い返せば恥ずかしながら、自分も学生の頃には、刹那的な欲求を恋だ愛だと信じて疑わなかった。今でこそ赤面するほど青い果実だが、なけなしでも精一杯の財産だったのだ。
結局、冬子を引き剥がす言葉を持ち合わせておらず、この場は諦め、顔を埋める敬虔な表情に身を委ねることにした。
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