第一章 イガキ

〈1〉それなら、お言葉に甘えて

 人生の歯車の噛み合わせがずれたとするのならば、それは一体いつのことだろう。ただひとつ、確かに言えることは、自身の選択に因るものなのだということだ。不満を垂れながら続けている仕事も、かつて愛してしまった女性も、自分が泣けなくなってしまったことも。そうした事実から逃避をしたくなって、人はしばしば、運命だとかいう言葉を口にする。


 高校教師の長谷堂はせどう栄助えいすけもその一人だった。放課後を告げるチャイムを合図に職員室を出た彼は、敷地の隅にある木造校舎の鍵を開け、真っ直ぐ二階の奥の教室へ向かう。昨夜の雨が堪えたか、また少し扉が重くなってきていた。

 かつて使われていたらしい机や椅子は押しやられ、黒板の前で、錆びついた教壇がひとり途方に暮れている。


 雑多なのか殺風景なのかよく判らない歴史の名残に溜め息をついて、教壇の引き出しからロウソクを取ると、まずは扉のスライド部分に蝋を塗った。いそいそと一仕事終えてから、窓際に置かれたステンレスのスタンド式灰皿に寄り添い、宝箱を開けるように蓋を外す。


 まるでここには似つかわしくない灰皿は、自分がこの吉字高校に赴任してきた時にはすでにあった。今はここを去っているが、同じく喫煙者で、新人の自分によく目をかけてくれていた先輩教師が教えてくれた、憩いの場所である。

 吸い殻や火の始末を自身で行う代わりに、校内禁煙というルールもここだけなら治外法権で構わないと、学校側が取り計らってくれたのだという。鍵も職員室から都度持ち出す必要があるため、不良生徒の溜まり場にされる心配も少ない。


 甘えさせてもらっている立場だが、初めて連れられたときは大笑いしたものだ。使われていない旧校舎といえど、城下町に建てられた学校の伝統を残すものとして取り壊されずにいる代物。俗にいう『財産』とやらにヤニを吹き散らしてもいいものなのか、と。

 もっとも、どうせ当時の教員だって吸う物吸っているヤツはいただろうし、伝統の保存などという七面倒くさいものを誰もやりたがらないのだから、喫煙の対価として押しつけようという魂胆も理解できる。まあ、ほどほどにやってやろうじゃあないか。


 煙草に火を点けようとして、はたと思いとどまる。少しの間悩んでから、校舎を出て車のダッシュボードからピースの青い丸缶を引っ張り出し、秘密基地へと戻った。

 何か特別なことがあったとき、それが良かれ悪しかれ、普段吸いのマルボロの代わりにピースを呑む。父が生前、発泡酒と生ビールを飲み分けていたのを、なんとなく真似してきた。


 別段そんなことをする必要はなかった。されど、とは言ってもたかだか数十円の違いだ。偽物だ劣化だと我慢するくらいなら、週あたりの本数を減らして生ビールを飲み続けた方がいいと思っていた。だがやってみるとなかなかどうして、落ち着くような、不思議な気分になる。


 とにかく、今日はそんな気分だった。


 極上の一口目を堪能し、窓の外で舞う桜の花弁を目で追う。もうすぐ四月も終わるというのに、ようやくだ。

 山形の桜は遅い。



 気が付けば教師生活も三年目に突入していた。新年度の体制も回りはじめ、晴れて担任の指名を免れていた自分は、今年度も国語担当としてのんびりと続けていくものと思っていた。

 しかし、三年生になるクラスを受け持っていた同僚の女性教師が突然、寿退職をするのだと言い出した。結婚は結構なことだが、退職はもう一年待てないものかと思ったが、どうやら妊娠しており、遅かれ早かれ産休に入ることになるという話だった。

 そこで、手の空いているこちらに担任代理のお鉢が回ってきたのだ。


 いかんせん声の小さい女だった。三日に一度声を交わせば良い方で、昼過ぎに引き継ぎが完了した際には、一応、心ばかりの『結婚おめでとうございます』を送ってやれる程度の仲だった。

 彼女が『ありがとう』と言った時の引きつったような笑顔は、自分がとんでもない時期に離職することを自覚してのものだろうか。


 授かり物だか何だか知らないが、求めなければ与えられることもないだろうに。


 こんなことを口にすれば、やれ性差別だの鬼畜だ外道だと罵られるに違いない。片腹痛いが、面倒を避けるに越したことはない。だから黙る。胸の奥に押し留める。口にすれば終わるのは自分。大人しくしていれば、社会人として生かしてもらえるのだ。沈黙は金。よく言ったものである。昨夜もありがたくATMと戯れさせていただいた。


 しかし今日で引き継ぎも終わり。あのオメデタ女の顔を見ることもないだろう。ひとつの楔から解放された記念だ、やはり『平和ピース』を味わうのが相応しい。

 じっくりと肺に煙を溜めれば、ちりちりと焼けていく煙草とともに、鬱屈した記憶も灰になっていくようだ。ふうっと吐けば彼方に散っていく。


 正直なところ、少し、羨ましかった。担任という立場を棄てるほど愛した人間がいることが。卒業生も新入生も味わえなかった、桜に見届けられるという日を得たことが。


 自分はどうだ。そんな行動を起こす勇気さえない。職業教師だと言えば、同窓会でのウケはまあ良かった。だがそれだけだ。社会的には御立派でも、個が没落した牢獄に通い続けるルーチンにいる。テレビで見た予備校講師にあやかって方針を見直すことも考えたが、自分の人生の『今でしょ』の瞬間はとうに通り過ぎてしまった気がして、恥ずかしくなってやめた。


 瞼の裏にちらつく後ろ暗い感傷は、写真を燃やすように、一吸いで捨てた。少し窓を開けて完全に別れを告げると、どこからか吹奏楽部の演奏が聴こえてきた。

 ヴィヴァルディの『四季』より『春』。今ではポピュラーすぎて、地元住民を対象にしたコンサートで誰もが知っている曲をコンセプトにでも据えない限り、聴くことも少なくなった。

 練習曲として選んだか、今だからこそ一周回ってウケると思ったか。いずれにせよ、クラリネットとフルートが絶妙に足並みの揃わないピッチで歩いているようでは難しいだろう。


 灰皿の縁でテンポをカウントしているうちに、自然燃焼で随分と煙草が短くなってしまっていた。せっかくの贅沢が、勿体ない。

 今、音が外れたのはサックスだろうか。

 仕方なく缶の穴から新しい一本を取り出し、火を点ける。吹奏楽も悪くないが、自分のような敗北者が顔を出したところで悪影響がありそうだ。もう捨て去った世界だ。


 ひらひらと揺れるのは桜か、灰か、己の誇りか。それは舞っているのか、散っているのか。

 敷地の反対側から届いた、剣道部の気声で我に帰る。この声は奈緒なおのものだろう。

 頑張れ。微笑んで、煙草を咥える。


 明日から受け持つことになるクラスは元々、授業で関わってはいたが、その中でも、気心知れた顔がいるのは心強い。特に目立った問題児がいないようであることも、安心できた。

 もし、担任としてできることがあるとするならば。彼ら彼女らが自分のような牢獄に堕ちてしまわぬように、全力を――いや。どうせ一年しかないのだ。気負っても仕方がない。こちとら押しつけられたという大義名分もある。今のうちにミスを重ねておくくらいのつもりでいよう。


 最後の一吸いを堪能し、幾分か晴れやかになった心と、教室の窓を締める。

 灰皿の蓋を戻した時、ふと、どこかで扉の開く音がした。


 雪国である山形の木造校舎だけあって、積雪の歪みと湿気で経年劣化を加速させた分厚い扉は、体育準備室の鉄扉よりも重い。『喫煙室』の扉に蝋を塗ることを習慣化させたほどだ。

 二、三度力を入れ直してこじ開けたのだろう。石臼を引くような地鳴りは不気味だった。


 教職員の喫煙者は自分しか在籍していない。煙草を吸うにしろ自分に用があるにしろ、場所は二階の奥の教室だと周知されているのだから、誤って他の部屋に行くこともないし、扉には覗き窓も付いているのだ、わざわざ開ける必要もない。

 不良と噂される生徒の顔もいくつか浮かんだが、彼らにしては、頭のネジが外れたようなギャハハと耳に障る下卑た声がない。まして溜まり場にするならとうの昔にしているだろう。


 扉の音が止んでからは、実に静かだった。いつも通りの旧校舎である。

 正体の見当が付かない恐怖を抱きながら、『喫煙室』を出ることにした。幸いこちらの扉は、毎日の献身的な処置の甲斐あってか、重さはあっても音は殆どない。


 足音を忍ばせながら廊下に出ると、階段側の教室の扉が開け放たれていた。確か、文化祭などで使われた道具の中でも、階段を通れるものを仕舞っている部屋だ。つまるところ、二度と引き出しやしない一生の思い出とやらを押し込んだ、哀れなゴミ溜めである。

 おそるおそる扉の陰まで辿り着き、中の様子を窺うと、雷に打たれた。



 少女がいた。

 ノスタルジー漂う古い木造校舎で、桜舞い散る空を背景に佇む、愁いを帯びた長い髪。


 ここには雑多な物は数あれど、ステンレス灰皿のような異物は存在しない。何を模したのか理解に苦しむ着ぐるみも、すっかり黄ばみ、飾りの花もくしゃくしゃになっている『おめでとう』と書かれたプレートも、中身が行方不明になっている歪な形の薬玉も。すべてが制服の少女というシンボルを据えるだけで、見違えたように彩られていく。


 ゴミ溜めだったはずの部屋はいつの間にか、一つの箱庭ジオラマへと変身していた。


 彼女は薄墨うつぶし冬子とうこ。明日から受け持つクラスに在籍する生徒で、干物野郎の目線でいうなれば、高嶺の花という言葉が真っ先に浮かぶ。物静かで、顔立ちも美しく、成績も優秀。誰とでも分け隔てなく接することができ、浮いた話や黒い噂も立つ様子がない。

 そんな彼女が何故こんなところにいるのか、どうして息が詰まるほどに綺麗なのか。何かの答えを求めて、思わず手を伸ばした。


 自分が扉の影にいたことも忘れ、肩をぶつけてしまう。

 冬子はぎょっとしたように振り返った。


「ああいや。覗くつもりはなかったのですが」


 気付かれてしまっては仕方がない。バツが悪そうな追従笑いを浮かべて教室に入った。ここ数年で培った、我ながら反吐の出るような営業スマイルだ。

 後になって思えば、その一歩は、踏み出すべきではなかったのかもしれない。


 絵画の上から汚泥で塗りつぶし、台無しにしてしまったも同然なのだから。


「君は薄墨さん、ですよね」

「動かないで」


 言葉を遮るように突き出された右手には、カッターナイフが握られていた。

 反射的に諸手を上げながら、脳が全速力で現実を理解しようとしているのを感じていた。時が止まった精神世界をジェットコースターで突き抜けるような感覚は、かつて付き合っていた彼女から、生理が来ないと告げられた時以来である。


 はじめに、机の上が目に入った。冬子の傍らにある古びた机からは椅子が下ろされ、代わりにライターと、スプレーノズルがついた消毒用エタノールのボトル。それとガーゼや包帯の類が並べられていた。

 次に、彼女が背に隠している左腕が気に留まった。素肌こそ確認することはできないが、袖が捲り上げられていることだけは分かった。


 彼女が何をしようとしていたのか、嫌でも理解できてしまう。

 こんな時、どんな風に言葉をかければいいのか知らない。紡ぎあぐねていると、冬子が先に口を開いた。


「長谷堂先生、お一人ですか」


 震える首で頷く。


「これから誰かが来ることはありますか?」


 潔白を証明するように、努めてしっかりと首を振った。

 すると、どん詰まりの自分が滑稽なのか、冬子はふふ、と相好を崩した。


「随分と必死に首を振るんだね。嘘がバレた子供みたい」

「嘘ではありませんよ」

「比喩だよ、比喩。ああでも、子供扱いするのは、たとえが悪かったかな。ごめんね、先生」


 悪びれた様子もなく、舌を出してみせてから、彼女はこちらにカッターを向けたまま、さらに一歩詰め寄ってきた。

 どうやら、まだ許されたわけではないらしい。

 顎で教室の奥へ行くよう促され、入れ替わるように退路を塞がれる。


「その物騒なものを、下ろしてはくれませんか」

「お断りするよ。一応釘を刺しておくけれど、力づくで逃げ出したりすれば、先生に暴力を振るわれたと学校に報告するから」


 おそろしく光る瞳に、立ち眩みそうになる。


「安心してください、何もしませんから」

「それを決めるのは私。口約束なんてどうとでもなるし。見られてしまった以上、何もされないという確信を得るまで、解放するわけにはいかないんだよ」


 一瞬で水分を失った喉を、どうにか動かそうと足掻く。

 彼女の細く嫋やかな声音は、淡々と発されるだけで、こうも恐怖を纏うものなのか。

 一分一秒でも早く逃げ出したかった。同時に、教師として投げ出すわけにはいかないという正義感が脳裏をうろつき始めた。クラッチが噛まないまま、アクセルの空吹きだけしているようだ。嫌な臭いが鼻をつく。


 ふと、臭いの正体は空気中に混ざったエタノールなのだと思い当たった。

 机の上に並べられたものは何だったか。ライターはカッターの刃を炙るため。消毒用のエタノールは文字通り。そして、行為の後で手当てをするためだろうガーゼと包帯。


 つまり、これは自傷行為であって自殺ではないということ。

 冬子が明日以降も生きるつもりがありそうだと判明したことで、多少の気休めになった。現金なものだが、死なれないだけマシである。


「何か、私に何かできることはありませんか?」


 提案すると、冬子がわずかに目を見開き、底の色をすうっと深めた。

 吸い込まれそうな色香に、胃の辺りがざわつく。

 薄墨冬子という少女の瞳に、このような深淵を宿させてしまう過去があったということ。この手の闇はいけない。識っているだけに、寒気がする。


 追従笑いでは彼女に通用しないだろう。そっと、心の仮面を外す。


「何でもしよう」

「へえ」


 身を任せてみようと思った。彼女が渇望している何かを、知ってみたくなった。

 既に、仄暗い奔流に一歩踏み入れてしまったのだ。ままよ。


「何もしないと言ってみたり、何でもすると言ってみたり。どっちなのさ」

「揚げ足を取っても無駄だ」

「ふうん、じゃあ、もう一つの質問。なの?」

「さあな。それを決めるのは君だ」


 そういうイジワル言うんだ、と冬子は目を細くする。


「うん、それなら、お言葉に甘えて。何でもしてもらおうかな」


 お菓子を選ぶ子供のように、視線がくるりと彷徨った。彼女は愉しんでいるように見えた。

 果たして、その直感は当たってしまう。


「服を脱いで、先生」


 そう言って、冬子は下唇の裏を舌で撫でた。

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