アマツヘグイ

雨愁軒経

プロローグ

 抹茶アイスの色はムシを加工して作るものだと、テレビの雑学番組で知ったあと、次に食べた一口目は、カップの底がふやけるまで動けなくなるくらいに、とろける舌触りだった。


 クラスの子に話すと、まるで私自身がムシであるかのような視線をくれた。

 どうして、と訊ねると、ムシを食べるなんて気持ち悪い。ってさ。

 でも知っていたんだよ、私。前の日の夜、母と買い物に行ったスーパーで、その子のお母さんと会ったから。買い物かごの中に四つの抹茶アイスが入っていたことも、テレビでやっていたからってうちの子にせがまれてねぇ、なんて話したことも。ちゃあんと。


 だから、私からすれば、その子の方が気持ち悪かった。お家では抹茶アイスを食べるのに、人に対しては気持ち悪いと軽蔑してみせるなんて。ばかみたい。

 他の子たちもそう。女の子同士が集まったときなんかは、やれ彼と手を繋いだとか、キスしたとか、あそこを見せてもらったとか。どのくらい大きかっただの、うちのアニキより大きいだの、そんな話を平気でするくせに。男の子の前では、彼らがどんなに可愛い下ネタを言ってくれても、手のひらくるり、ブーイングのにわか雨。


 別に、純粋カマトトぶるのは構わないし、他人は他人だから、私にはなんの関係もないのだけれど、ただ一つ、いざ彼を誘おうとすると勇気が出ない、なんて話を聞かされるのには困っていた。あれ、笑っても良かったのかしら。


 そんな小学生だったから、こうなることは、自然な流れだったと思うのだけれど。

 心の方は、すみっこのどこかで、これはイケナイことなんだって納得しているみたいで。

 だから時々、あの日の夢を見る。











 私の初体験は、五年生の春。子供会のキックベース大会の昼休みだった。

 運動が苦手だったし、いつも男の子に混ざって遊んでいた女の子の活躍を賛美するブルーシート・ミサに参加するのもだるかったから、昼食もそこそこに、私はその辺りをぶらつくことにした。


 校庭の隅にあるアスレチック周りも、体育館の方も、地面という地面の上は、どこもかしこも埋まっていて、逃げるように忍び込んだ校舎の中で、すすり泣く声を聞いた。


 階段を上って、そっと覗き込むと、クラスメイトの男の子が壁にもたれて、膝を抑えて座り込んでいた。棟は離れているけれど同じ官舎に住んでいて、サッカークラブのエースで、運動も勉強もできて、クラスでいちばん可愛い子と付き合っている子。

 うちの自衛隊の官舎はA棟からC棟まで、それぞれ別のチームとして参加しているから、今日、彼に何があったのかは分からない。


「どうしたの?」


 私が訊ねると、彼ははっと目を見開いて、すぐに顔を背けてしまった。

 その拍子に、指の隙間から、じゅくじゅくと赤い傷口が見えた。


「怪我、したの」

「うるさいなあ。あっち行けよ」

「見せて」


 しゃがみ込んで寄り添う。観念したらしい彼は、ようやく膝から手を離した。


「舐めときゃ治るって。父ちゃんたちが」


 だろうなあ、と思った。あの人たち、体育会系の気質だから。

 実際、見た目の割に出血量は少なかったから、いわゆる『我慢しろ、男の子だろう』とかいう謎の呪文を唱えられたに違いない。男の子でも人は人、小さくっても傷は傷、なのにね。


 けれど私は、多分、そんな冷たい大人たちよりも、もっと酷い人間だった。

 だって、彼の膝からつうっと零れた血が、まるで母の口紅をこっそり使って大失敗したときみたいに見えていて、笑いを堪えるので必死だったのだもの。


 だから、はじめはその、お詫びのつもりだった。傷口よりも赤くて、傷口よりも歪んだ眉間を見たとき、怒らせてしまったと思ったから。


「じゃあ、私が舐めてあげる」


 彼は、はあ!? と大きな声を上げた。その唇を、しいー、と塞ぐ。誰かに聞こえちゃうよ、と囁くと、彼はまたそっぽを向いた。


 ん、やっぱり。私は既に、これが『誰かに見られてはいけない行為』であることを理解していたんだと思う。


 ソフトクリームを掬うように、そっと舌で触れると、びくんと跳ねた膝が後ずさりしてしまった。動いたことでまた滲んできた血を、逃がさないように咥えこむ。

 あにはからんや、舐めるつもりが啜る形になってしまった。

 彼が黙ってしまう。

 今度こそ、怒らせてしまったかしら。おそるおそる窺うと、口に手を当てて、じっと声を押し殺している切ない顔があった。


 全身が打ち震えた。

 たしか、彼の彼女は……うろ憶えだけど、キスもまだだと言っていたっけ。


「血、止まったよ」


 私が微笑むと、彼は我に返ったように息を吸って、それから何も言わずに走って行ってしまった。びっこを引きながらも、何かから逃れるように。

 何か? ううん、私から。また、背筋がひくひくと鳴った。











 その日から私は、血の味の虜になった。とはいっても、ケガをした子がそうそう見つかるわけでもなし。ついに私は、図工の時間で使うからと母を騙し、カッターナイフを手に入れた。

 父の部屋のパソコンを使って、リストカットについて調べた。死なない方法を調べるために自殺の方法を検索している自分がおかしくって、途中、何度も笑ってしまった。


 実行の瞬間は、感動にむせび泣いた。我ながら肌触りのいい色白の腕に、そっと刃を沈めたときの背徳感。やっと会えたほかほかな血を口にする恍惚と、舌が傷口を捲るたびに走る、電流のような痛みの被虐。


 分かっている。私は狂っていた。

 だから、罰が当たったんだ。


 井戸端会議から帰ってきた母が、「冬子。大倉さんち、カッターなんて買ってないって言ってたんだけど」って、部屋に入ってきた。


 私の意識はスローモーションになった。ひきつった頬で歪んだ視界の中で、母が叫んでいるのが見えた。抜かったなあ。住んでいた部屋には襖しかなかったから、鍵付きの部屋なんてなかったのだもの。


 あの時、私はなんて言ったっけ。たしか、部屋に入るときはノックして、だったかな。


 はっきりと覚えているのは、何度も何度も首を横に振ってから、ようやく、汚物を見るような目で母が言った「かわいそうな子」という言葉だけ。











 まどろみから目が覚めた。

 少し遅れて、スマートフォンのアラームが鳴った。手探りで側面のサイドボタンを押し、黙らせる。

 ぼうっと天井に翳した腕には、あの日から刻んできた傷がある。できるだけ同じところを狙うようにしているから、そこまで酷い見た目ではないと思うけれど、夢を見た朝は、決まって気怠い。


「おはよう。『かわいそうな子』」


 誰にともなく、呟く。

 芋虫のようにお布団から這い出て、通学カバンから、昨夜のうちに買っておいたミネラルウォーターを貪るように呷る。体温が下がると、ヴォル〇ーック! なんて意味もなく叫んで笑えるくらいには落ち着いてきた。


 カーテンを開けて、窓を開ける。うんと伸びをして空気を吸い込むと、ほのかに桜の匂いがした。ベランダからじゃあ見えないのが、安アパートの辛いところ。


 キックベース大会の日と同じ、春うらら。

 私はため息をついて、クローゼット代わりの押し入れから、七つ道具――いや、実際は四つくらいなのだけれど――の入ったポーチを取り出して、カバンに詰め込んだ。


 ちょうど、夢も見てしまったことだし。


 今日は、秘密の場所へ行こうか。

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