第35話 マーリィ11 終末の獣
「グルゥオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
獣と化したアベルさまが吠えた。
瘴気に澱んだ大気が震え、その声に呼応するかのように廃都が鳴動する。
この声は無理やりひとの恐怖を呼び覚ます。
耳を塞いでも、心が凍てついていく。
並みの戦士なら、この吠え声だけで動くことすら叶わなくなるだろう。
「お願いアベルさま! 元に戻って!」
必死になって叫んだ。
だけどわたしの叫びは届かない。
「グルルルゥ……」
赤く染まった目が、わたしを捉える。
終末の獣が瓦礫を崩しながら襲い掛かってきた。
「グルゥアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
獣が強靭な鉤爪を振り上げる。
風が轟々と唸りをあげてその腕に巻きついた。
体から漏れ出す瘴気と一緒に叩きつけてくる。
「お願い、アベルさま!」
『マーリィ! 話は通じぬ! 回避するのじゃ!』
獣の動きは速い。
神剣の加護を全開にしたわたしですら、目で追いかけるのがやっとだ。
「……くっ、アベルさま……!」
その場から飛び退いた。
わたしの立っていた場所に、獣の爪が突き立てられる。
激しい音とともに、大地が裂けた。
「グゥガァアアアアアアアアアアアアア!!!!」
黒に染まった獣は、ただ破壊衝動に突き動かされるがままだ。
間髪入れずに飛び掛かってきた。
纏う闇を衝撃波として飛ばし、真正面から鉤爪を振ってくる。
「迎撃する!」
神剣を走らせた。
津波となって押し寄せる闇を斬り裂き、鉤爪を弾き返す。
剣を合わせるとはっきりわかる。
力も速さも、わたしより獣のほうが遥かに上だ。
「ぐぅぅ! 強い……!」
一撃一撃が絶大な威力を秘めた攻撃。
背後に飛んだ衝撃波が廃墟をさらに崩壊させ、地を掠めた爪は大きな傷跡となって大地を抉る。
直撃を受ければ致死。
そんな破滅的な攻撃が、視認すら難しい速度で何百と連続して飛んでくる。
綱渡りのような攻防だ。
だがわたしはそれらの攻撃をすべて捌ききり、獣の側面、その死角へと潜り込んだ。
「はぁあああああああ!」
神剣を振った。
剣の軌跡が流れるような弧を描く。
だがその攻撃は、獣が纏う瘴気に弾かれた。
「ちっ、届かない!」
斬りつけた瘴気が、黒炎となって襲ってきた。
その場から飛び退いて躱す。
獣との間に距離ができた。
仕切り直しだ。
『一撃でいい! マーリィよ! 妾をアベルに届かせよ!』
一撃。
そのたった一撃が届かない。
『さすれば必ず妾が、あやつの意識を掬い上げてみせる!』
終末の獣は圧倒的だ。
真の所有者として神剣に認められるに至ったわたしですら、その足下にも及ばない。
どうにかして一撃をくわえる。
でもどうすればいい。
なんとか懐に潜り込んで攻撃しても、生半可な威力だとさっきみたいに瘴気に剣を弾かれてしまう。
「グルルルゥ……」
獣が唸りをあげて、わたしを見ている。
赤く染まった瞳から、血の涙を流しながら……。
わたしにはその表情が、救いを求めているように見えた。
「……絶対に、なんとか、する!」
細かな攻撃なんて、仕掛けたところで意味がない。
それではあの分厚い瘴気を貫くことはできない。
全力の一撃だ。
全身全霊を乗せた剣を叩きこんで、アベルさまの心にアウロラさまを届ける!
「はぁあああああああああああああああああ!!」
大きく神剣を振りかぶる。
気勢をあげて飛び掛かった。
「グルゥ……」
「ッ、な!?」
獣の姿が一瞬ぶれた。
かと思うとその姿は霞のように消え去り、瞬時にしてわたしの真横に現れた。
「こ、こんな! いつのまに!?」
終末の獣が腕を上げた。
「グルゥゥゥ……」
獣が拳を握り締める。
固めた拳に、破壊的な力がみなぎっていく。
筋肉がはち切れんばかりに膨れてミシミシと軋み出し、拳に纏う瘴気が凝縮されていく。
『マ、マーリィ! 避けるのじゃ! マーリィ!』
アウロラさまが叫んでいる。
これは直撃を受けたらダメなやつだ。
躱さないといけない。
でも両手で神剣を振り上げ、思い切り飛び込んだ状態のわたしは、回避行動に移ることができない。
「グルゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
破壊の力が解き放たれた。
『ま、間に合わぬ! せめて妾の力を防御に……!』
巨大なハンマーのような拳が、わたしの腹部を捉えた。
衝撃が体内にねじ込まれ、爆発する。
臓腑を滅茶苦茶にかき回し、破壊していく。
「かはぁっ!」
たまらず大量の血反吐を吐いた。
衝撃はそれだけにとどまらない。
全身をバラバラに壊しかねない破滅の力が、体内で渦を巻いて背中に突き抜けていく。
背骨が粉砕された。
「ぐぅぅぅううううう……!!」
歯を食いしばって激痛に耐える。
吹き飛ばされたわたしの細い身体は、いくつもの廃墟を貫き、崩壊させて、ようやく止まった。
動けない。
手足が引き千切られたみたいに痛み、頭が朦朧とする。
「……ア、アベル……さま……」
無様に地を這いずるわたしに、終末の獣が歩み寄ってくる。
「……グルルル……!」
腹を蹴り上げられた。
「……がはぁ!」
吹き飛んだわたしは、大量の血を吐き出しながらも、なんとか立ち上がろうとする。
「ま、負けるもんか……!」
再び獣が歩み寄ってきた。
腰を屈めて、今度はわたしの左手首を掴む。
獣はそのまま乱暴に腕を振り回し、わたしを地面に叩きつけ始めた。
「あがぁっ! がふっ! ぅあ……!」
廃墟に、血の海に、何度も何度も叩きつける。
轟音が鳴り響くたびに、廃屋は崩れ落ち、大地が揺れた。
意識が飛びそうになる。
『やめろ! もうやめるのじゃ、アベル!』
終末の獣が、哭きながらわたしを叩きのめす。
赤い涙を流しながら、わたしを痛めつける。
痛い。
叩きつけられて、身体が内側から、外側から激しく痛む。
でもそんなものよりもずっと――
……心が痛い。
「……ゥオオオォォォォ……」
終末の獣は哭いていた。
掴まれた手から伝わってくる想い。
これは悲しみ。
ひとの形を失い、自我すらもなくしてなお、欠けた大切なものを追い求める嘆きの獣……。
「ぅあぁ!」
思い切り大地に叩きつけられた。
左腕が肘からぶちぶちと千切れて、ようやくわたしは解放された。
『なんと酷い……! 待っておれマーリィ! いま全力で傷を癒してやる!』
「ま、待って……」
千切れた腕から血が噴き出した。
それを眺めながら、ほっと安堵の息をはく。
左腕でよかった。
これならまだ、残った右腕で剣が振るえる。
「っ、かはっ……!」
吐瀉物を吐き散らすように、大量の血を吐いた。
内臓が痛む。
全身の骨がバラバラになったようだ。
いや、実際にもう粉砕されているんだろう。
「か、回復はいい……」
『なんじゃと!? なにを言いだすのじゃ!』
ふらふらと幽鬼のように揺らめきながら、それでもわたしは立ち上がった。
喉の奥から血の塊がせり上がってくる。
「ぐ、ぐふぅ!」
『ま、また血を吐いて! まずは壊れた臓器から修復する!』
「か、回復、は、いい……。それより、アウロ、ラさまは、力を、溜めていて……」
『なにを言っておる! このままでは死んでしまうぞ! ……いや、マーリィ。お主は……!?』
わたしとアウロラさまは、いま深く繋がっている。
意識を共有しているのだ。
どうやら気付いてくれたようだ。
『……お主。……ここで死ぬ気か……?』
首を横にふった。
別に進んで死のうなんて思っていない。
ただ死んでもいいと思っているだけだ。
命を賭さなければアベルさまを救えないというのなら、わたしに迷いはない。
幼いころの原風景。
路地裏から見上げた空を思い出す。
あそこからわたしを連れ出してくれたアベルさま。
わたしとアベルさまとアウロラさまと……。
3人で世界を旅した幸せな日々。
わたしはもう十分だ。
「回復、なんて、いらない……。すべての力を、剣にこめる……!」
アベルさまに救われた命を返すときがきた。
なら躊躇なんてしない。
『…………わかった』
アウロラさまが、わたしの意志を汲んでくれた。
「グルルル……」
唸る獣を見据える。
『妾を、構えよ』
右手に構えた神剣が光り輝く。
眩い光が暗く澱んだ瘴気を吹き飛ばしていく。
聖なる力が身体中を駆け巡り、感覚が研ぎ澄まされていく。
『……マーリィ。……ゆくぞ』
「……ん」
満ちた力を解き放った。
獣の懐に踏み込み、神剣を振る。
…………届け。
袈裟懸けに振った刃が、鉤爪に弾かれた。
これではだめだ。
まだまだ足りない。
剣を弾いた爪が、そのままわたしに襲い掛かる。
顔を引き裂かれた。
だがそれがどうした。
周囲の風景が消えた。
今度は横薙ぎに剣を振るい、獣を斬りつける。
…………届け。
薙いだ剣を、肘で撃ち落とされた。
獣の拳で肩を打ち抜かれる。
肉が抉れ、血が噴き出した。
そんな程度、問題にもならない。
白い世界に、ただわたしと獣だけがいる。
音が消えた。
輝く白い剣を突き出す。
…………届け。
切っ先が獣の身体を掠めた。
もう何も感じない。
届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け届け!!
ただ一心不乱に剣を振る。
心を占める願いはひとつだけ。
想いよ!
神剣にのせたこの想いよ!
わたしはアベルさまを救いたい!
そのためなら、なにを捧げたって構わない!
この想いよ!
アベルさまのもとに、――届け!
「グ、グルゥ……!?」
数百、数千の剣撃が終末の獣に降り注ぐ。
そのことごとくが弾かれ、撃ち落とされる。
「グルゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
だがその果てに……。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
――届いた。
研ぎ澄まされた最後の刃が、獣の纏う瘴気を切り裂いた。
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