第36話 マーリィ12 邂逅

 深い、深い、意識の海。

 光すら届かない暗闇の底。

 僕はそこに、たったひとりで蹲っていた。


 いつからこうしているだろう。

 もうあまり覚えていない。

 なにかを考えようとしても、揺蕩う闇に意識が溶け出していく。


 僕はとても大切なものを、無くしてしまった気がする。

 でもそれが何だったのかすら、もう思い出せない。

 ただ胸にぽっかりと穴が空いている。

 例えようもない喪失感が、いまも僕の心を締め付けている。


「…………ル……! …………ベ……!」


 ここは暗くて寒い。

 手足がかじかんでしまって、うまく動かせない。

 冷たい意識の海底で、縮こまりながら必死に思い出そうとする。


 僕は大切ななにかを失った。

 なにを無くしたんだっけ?

 それはとても暖かいもので……、だけど思い出そうとすると靄のように消えてしまう。

 そしてあとには、哀しみばかりが残るだけ。


「……ベル! ……顔をあげ……ア……!」


 なんだろう?

 なにかが聞こえてきた気がする。


「……ベル! アベル! 妾じゃ! ようやくお主に……!」


 深海に光が差してくる。

 遥か頭上。

 水面から彼女が手を伸ばしていた。


「……、……ああ……!」


 記憶の蓋が開いた。

 思い出が洪水のように脳裏に押し寄せてくる。


 あそこにいた。

 やっと見つけた。

 僕がなくしてしまった、大切な宝物。


 ――アウロラ。


 必死になって腕を伸ばす。

 体が徐々に浮き上がっていく。


「アベル! ようやくお主に、また会えた……!」


 なんだか長い旅をしていた気がする。

 アウロラに向けて、震える手を伸ばした。

 彼女はその手を、しっかりと握りしめてくれた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「……はぁっ、……はぁっ、……ぅっ!」


 激痛に腹部を押さえる。

 死力を振り絞った一撃を、獣に叩き込んだ。


 とうに限界は超えている。

 わたしはその場にどさりと崩れ落ちた。


「…………ごぼっ」


 血反吐をはいた。

 もう何度目だろう。

 数えてないからわからない。


 でもきっと、これで最後だ。

 だってもう、わたしは死んでしまうから。


 千切れた左腕から血が流れだす。

 めちゃくちゃになった臓腑から、わたしの命がこぼれていく。

 目の前が掠れた。

 ぼやけだした視界のなかに、終末の獣が映った。


「……グルルルゥ……」


 動きを止めていた獣が、一歩足を踏み出した。

 獣には変わった様子がない。

 アウロラさまは、失敗したのだろうか。


「……助け、られ……なかった……」


 残念だ。

 心からアベルさまを救いたかった。

 でももう、身体がピクリとも動かない。


 わたしから、命が流れ出していく。

 身体が冷たくなっていく。

 倒れ伏したまま死にゆくわたしの傍に、終末の獣が立った。


「……グルゥ……」


 わたしにとどめを刺すつもりだろうか。

 でもそれでいい。

 このままゆっくりと死に至るよりも、最後にアベルさまの手に掛かって死ねるのなら、それは願ってもないことだ。


「……ア、ベル……さま……」


 最後の力を振り絞って、手を伸ばした。

 獣がわたしのその手を握る。


「…………え?」


 握った手が、ぐいっと引っ張られた。

 抱き寄せられる。


「……ぐるルゥ……。マーリぃ……」


 瘴気が消え去っていく。

 獣の身体を包み込んでいた闇がはれ、懐かしいあの姿に戻っていく。


「……マー、リィ。……ありが、とう」


 涙が溢れだした。

 顔を眺める。

 アベルさまは記憶のなかと同じように、優しく、儚げな表情でわたしに微笑みかけてくれた。




「……ああ、……アベル、さ、ま……」


 声が震える。

 涙が止まらない。

 よかった。

 わたしは成し遂げた。

 これで満足して死んでいける。


「……ありが、とう、マーリィ。きみ、が、アウロラを、届けて、くれたんだね」


 何度も頷いた。

 ひとの姿に戻ったアベルさまが、がんばったわたしを優しく抱いて、頭を撫でてくれる。

 神剣にそっと目を向けた。


「そこに、いたんだね、アウロラ……」

『……うむ! そうじゃ! そうじゃぞ、アベル! 妾はずっと、ここにいた!』


 アベルさまが、抱いていたわたしを寝かせた。

 その身に纏った白い胸当てを脱いでいく。

 横たわるわたしの背中をそっと支えて、胸当てを着せてくれる。


「僕にはもう……、きみの声は聞こえないけど……」


 寂しげな呟き。

 アベルさまは、今度は自身の胸元を飾っていた首飾りを外し、わたしの首にかけた。


「アベル……さま……」


 わたしはアベルさまの背中に手を回した。

 残った力で思い切り抱きしめる。


「ぐぅ……。さ、最後に、ふたりに会えて、よかった……」

『なんじゃ、アベル! 最後などと! これからも妾たちはずっと共にある!』


 アベルさまが苦しげに顔をしかめた。

 いやな感じがする。

 悪い予感に震えが止まらない。


「えっと、言葉にして……伝えたことは、なかったよね。……僕はね、アウロラ。ずっときみのことが、好きだったんだよ」


 アベルさまが、はにかんだ笑みを見せた。

 すべてを諦めたその笑顔に、胸が締め付けられる。


「やっと、言えたね……。グるぅ……」

『知っておった! そのようなこと、とうに知っておったわ!』


 アベルさまが、羽織っていた白い片マントをわたしにかけた。

 背負った白い剣を、寝かせたわたしのそばに置く。


 古龍の瞳。

 古龍の剣。

 古龍の胸当て。

 古龍の外套。


 あの日、裏切り者どもに奪われた、アウロラさまの断片たち。

 アベルさまは回収して回ったそれを、ひとつずつわたしに託していく。


「あ、ありガとう。僕を呼び起こシテくれて。……おかげデ、こうしてマーリぃの命ヲ救うことガできた」

「……アベル、さま。……だめ。行かないで……」


 アベルさまが託してくれた白い胸当てから、癒しの力が流れてくる。

 古龍の心臓から生じた途方もない魔力が、不死鳥の再生力に転換され、瞬く間にわたしの傷を癒していく。


「……でモやっぱりモウ、僕ハだめ、みたいだ」

『気をしかと持て! アベル! 魔王の闇などにのまれるでない!』


 瘴気が再びアベルさまを覆っていく。

 ようやく取り戻した大切なひとが、また魔王に奪い去られようとしている。


「あ、ああ……。アベル、さまが……」

「……ぐルぅ。……僕ハ殺し過ギた。もう魔王ノ呪いカラは逃れラレないみたい」


 アベルさまが自らの身体を抱いた。

 呻きながらわたしから離れていく。


 変化は唐突に訪れた。

 アベルさまの瞳が縦長に切れ、犬歯が長く伸び、四肢には強靭な鉤爪が生え備わっていく。


「……マーリィ、アうロラ。最後にお願いヲ聞いてもらってもイイかい?」


 獣と化したアベルさまの胸から闇が湧き出した。

 瞳が赤く染まり、血の涙を流していく。


「僕ヲ、殺シテクレ……!」


 アベルさまを漆黒に染め上げていく。


「グルゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」


 終末の獣が、哀しげに哭いた。




 再び獣と化したアベルさまが、赤い涙を流しながらわたしたちを見据えている。


 寝ているわけにはいかない。

 わたしはもう一度、立ち上がっていた。

 右手に神剣を、復元した左手には古龍の剣を握りしめている。


『……マーリィよ。……話がある』


 アウロラさまの言葉に耳を傾ける。


『おそらく魔王の呪いは、あの胸に宿った無限の闇に存在している。そこに、古龍の剣を突き立てよ!』

「……アベルさまを、殺す?」


 先ほど請われたアベルさまからの願い。

 自分を殺してほしい。

 だけど、わたしはそんな願いを聞き入れるつもりはさらさらない。


『……馬鹿をいうでない。妾があやつを殺すなどと、本気で思っておるのか?』


 ゆるゆると首を振った。


「……ただの冗談」


 わかっている。

 アウロラさまが、アベルさまを殺すはずがない。

 ならなにか考えがあってのことなのだろう。


『妾はいまから、儀式の準備に入る。ゆえにお主をサポートすることはかなわぬ。……できるか?』


 終末の獣の猛攻をかいくぐり、あの胸に古龍の剣を突き立てる。

 並大抵のことではない。

 しかも神剣のサポートなしで。

 もはや正気の沙汰ではないと言っても、過言ではないと思う。


「……できる。むしろ、余裕」


 だけどわたしは諦めたりしない。

 胸を張って、精一杯の強がりを見せた。


『ふふふ……。よう言うたの、マーリィ! それでこそ神剣の勇者じゃ!』

「……違う。わたしは、アベルさまの奴隷」


 軽口を叩きあう。

 ひとしきり笑いあってから、終末の獣を睨みつける。

 わたしは必ず魔王の呪いを断ち切ってみせる。

 アウロラさまと一緒に!


「グルゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」


 前触れもなく獣が飛び掛かってきた。

 凶悪な鉤爪を振りかざしてくる。


「……すぅ」


 軽く息を吸いこんだ。


「……いく!」


 獣と呼応するように、わたしも飛び出す。


 これが最後の戦いになる。

 すべてを出し切り、必ずアベルさまを救い出す!


「ゴゥアアアアアアアアアアアアアア!!」


 驚異的な速度で鉤爪が襲い掛かってきた。


 視認することすら至難なその攻撃。

 でもわたしには、アベルさまに託されたこの想いがある!

 古龍の瞳に力を灯した。

 視野が広がり、風景がゆっくりと流れ始める。


「……見える!」


 動体視力が飛躍的に高まり、反応速度が爆発的に向上する。


「グルゥオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」


 獣が猛烈な勢いで連続攻撃を仕掛けてきた。

 だがすべて見えている!


 古龍の外套に力を灯した。

 身体が、腕が、脚が、ふわっと軽くなる。

 一歩を踏み出すたびに、剣を一振りするたびに、わたしの動きが、驚異的な速さになっていく。


「たぁあああああああああああああああ!!!!」


 鉤爪、殴打、黒炎。

 終末の獣から繰り出される熾烈な攻撃を、左右の剣で斬り裂き、撃ち落とす。

 音すらも置き去りにして高速で動き回る。

 わたしの剣撃が、獣の連撃を超え始めた。


「てゃあああああああああああああああ!!!!」


 背後にまわり背中を斬りつけた。


「ゴァアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」


 苦し紛れに振り回された獣の足蹴りが、わたしの右脚を吹き飛ばした。

 歯を食いしばって、激痛を耐える。


「ぐぅぅぅ!!」


 古龍の胸当てに力を灯した。

 治癒の力が脚へと集まっていく。

 瞬時に再生したその右脚で大地を蹴って、獣の懐に飛び込んだ。


 獣がわたしを迎え撃つべく拳を放つ。

 けれども右手に持った神剣で、その殴打を思い切り弾く。

 獣がガラ空きになった懐を晒した。


「これで! ぜんぶ、終わらせるっ!!」


 古龍の剣に力を灯した。

 純白の刀身がまばゆく輝き、周辺一帯を白く染め上げていく。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

「グルゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」


 全身全霊をこめて、握った剣を突き出した。




 静寂が、あたりを包み込んでいる。

 渾身の力を出し尽くしたわたしは、その場に膝をついた。


 左手を天高く突き上げる。

 それと同時に、終末の獣が音もなく崩れ落ちた。


 分厚い雲の切れ間から、明るい日差しが差し込んでくる。

 一陣の風が吹き、瘴気を払っていく。


 わたしはすべてを成し遂げた。


 万物を斬り裂く古龍アウロラの剣。

 その白い切っ先が、倒れた獣の胸に突き立てられていた――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る