オルチニン・ホリック

カバなか

オルチニン・ホリック

 足が冷たい。

 つま先をこすり合わせようとして、靴を履いていることに気づく。同時に、頭が痛く、吐き気もすることに気づいた。

 まぶしい。太陽がちょうど顔を照らしているらしい。ここはどこだ。心臓の鼓動にあわせてガンガンと鳴り響きはじめた頭では、なにもまともなことを考えられない。二日酔いだ。完全にワルヨイした次の日の状態だ。

「あー、気持ちわるい」

「……だいじょうぶですか?」

 ひとりごつと、どうやら自分に話しかけているらしい声が聞こえた。

「あまり大丈夫ではないようだ。水をくれないか」

 声の主が誰だかわからないが、水を頼んだ。はい、と答えて声の主が遠ざかっていく気配がする。目を開けると、朝日が自分を照らしているのがわかった。そして、自分が座っているのがどうやら公園のベンチだということも。

「……頭が痛い」

 さいきんの公園のベンチは、その上で寝られないようにするためか、いちいち座る場所を区切る肘掛がついている。横にすらなれないので、ちゃんと眠れないのは当たり前だ。心の中で公園行政を口汚く罵っていると、また頭痛がひどくなってきたので、よした。そもそも何故おれはこんなところで寝る羽目になったのか。

 ――まあ、おそらく深酒をしてべろべろに酩酊して前後不覚に陥ったからだろう。だが、なぜそんな深酒をするに至ったかは覚えていない。思い出そうとすると、頭痛が増す。

「お客さん、お水です」

 声をかけられて振り向く。ペットボトルの水が差し出された。

「ああ、ありがとう」

 受け取ってキャップをひねり、すこし含んだ。気持ち悪かったので口をゆすいでベンチの裏に吐き出す。すこしだけ口の中がさっぱりした。ベンチに座りなおすと、ため息が出た。

「こんなところで寝てて、無用心ですよ。サイフとか取られてませんよね」

 すこし嫌そうな顔がたずねてくる。まあ、朝っぱらから二日酔いの人間につき合わされれば機嫌も悪くなるだろう。こっちはそんな程度ではなく気分が悪いが。

「……サイフもあるし、ケイタイも無事のようだ。帽子もある」

「そりゃよかったですね」

 もういちどペットボトルの水を含み、こんどは飲んだ。そして改めてその顔を見上げる。

「ところで、おれをお客さんと呼ぶきみは誰だい」

「……覚えてませんか」

 あきれた顔で答える。ナマイキだな。

「なんで今ここにいるのかもわからんし、何かを思い出そうとすると頭が痛くてかなわん」

「……さっきまでお客さんがいたバーの店員ですよ」

 なるほど。おれはここに来る前、バーにいたらしい。家で大酒をしたあとで公園に来て寝るばかもいないだろうから、それは腑に落ちた。

「そうか。それは迷惑をかけたね。おれは普段、そんなにたくさん酒を飲むほうじゃないんだが」

 これは事実だ。おれは節度を守った飲酒が出来る程度には大人だ。

「それで、おれはどのくらい飲んだね?」

「はあ、まあ、あわせて10杯くらいですかね」

 バーの店員はますますあきれた表情で答える。

「なに。10杯? 相当だな。覚えていないが、よほどうれしいことがあったか、あるいは悲しいことがあったな、昨日のおれには」

「それ、たぶん後者だと思いますよ。お客さん」

「わかるのか」

「だって、うちの店で女性を口説こうとして振られてたじゃないですか」

「なんだって?」

 おれが女性に振られただって?

「そいつは信じがたいな、きみ。だいいちおれは、そんなこと覚えてないぞ」

「いや、なんでここにいるのかすら覚えてないんだったら、口説こうとしたことも忘れてるでしょうよ」

「そうじゃない。おれが女性に振られたことが信じられんと言ってるんだ」

「……ずいぶんな自信ですね」

 店員はいよいよあきれた顔をする。おれは言い募った。

「自慢じゃあないが、おれは一度も女性に振られた記憶はないぞ」

「いや、だからそれは、酒で記憶が飛んでるんじゃないですか」

「それは知らんが、ともかくおれの記憶では、おれは振られたことがないんだ。それが現実だ」

「現実の定義について考え直したほうがいいと思いますが……。なんにせよ、飲みすぎて公園で寝ていたのは事実でしょう」

「それはまあ、認めざるを得ないな」

「それで店を閉めて公園を通りかかった、バーの店員に発見された」

「それも、そうみたいだね。助かったよ」

 店員は水と一緒に買ってきたらしい缶コーヒーを飲みながら、おれに噛んで含めるように言い聞かせる。やはりナマイキな口調だ。助けられたのは、まあ事実なのでそれについては感謝する。しかし、おれが女性に振られたというのは、にわかには信じがたい。

「そんな、わけのわからない状態に陥ってたんですから、思い出せないことについては、覚えている人間のいうことを信用してみるっていうのが常道じゃないですかね」

「いや、やはり……」

「あなたもだいぶ頑固ですね……。うちの店で女性を口説いてたんですよ。『きみのミソシルが飲みたい!』って言ってました」

「なんだって!?」

 それは、おれが常々女性を口説く際に使う決め文句じゃないか。それをこの店員が知っているということは――。

「……どうやら、おれが昨日、きみの店で女性を口説いていたのは事実のようだね」

「やっと納得しましたか」

「しかし、それが振られたという結果に繋がるかといえば……」

「お客さんが口説いてた女性が最後になんて言って出て行ったか、言ってあげましょうか?」

「いや、いい……」

 店員は容赦がない。おれはいよいよ気分が悪くなってきた。

「きもちわるい……」

「いや、あのセリフはそうとうキモかったですね」

「そうじゃない、おれの気分が悪いということだ……」

 店員はへらへらと笑いながら缶コーヒーを呷る。いやなやつだ。

 おれはまた水を飲んだ。空っぽの胃に水が落ちていく感覚があった。息をつくと、気持ち悪いのはだいぶマシになった。相変わらず頭は痛いが。

「それで、その後おれはどうしたんだ?」

 店員の話によると、おれは女性が出て行った後、そのままバーでウイスキーを何杯も飲んだ後、ミソシルを所望したらしい。そして、その店にミソシルがないと知ると、ミソシルが飲みたいんだと言って勘定を払って出て行った由。

「どんだけミソシルが好きなんですか。バーにミソシルなんてありませんよ」

「いや、酔うと飲みたくなるんだよ、おれは」

 飲んだ後の胃に優しい気がする。さらに、シジミのなんだったかの成分が、二日酔いに効くということも、ものの本で読んだことがある。ミソシルのことを考えていたら、空腹感に気づいた。水を最後まで飲んで、おれはペットボトルを手の中でつぶした。そして立ち上がる。日差しに目を細めて、店員に向き直った。

「ところできみ、これからひまかい。メシでも食わんか。おごるよ」

「え、いいんですか。これから帰って寝るだけですけど」

「ああ、迷惑をかけたしね。と言ってもこの時間、牛丼屋くらいしか開いてないだろうがな」

 隣に立つと、店員はおれを見上げなければならないほど背丈が低いことがわかった。

「じゃあ、ごちそうになります」

「ああ、行こうか。それにしてもきみ、背が低いな。成人してるのか」

「ええ、いちおうハタチは越えてますよ。っていうか、オジサンこそ背、高いですよね」

「180cmは越えている。ところできみ、オジサンっていう呼び方はどうなんだ」

「だってもう、お客さんじゃないから。オジサンでいいでしょ」

「なんてことだ。これでも、おれは女性にもてるんだぞ」

「昨日のことを知ってるから、いまいち信用できませんね」

「昨日は昨日だ。むかしはずいぶんもてたんだ。牛丼屋に行かなくとも、ミソシルを作ってくれる女性はいくらでもいた」

 嘆息したおれは帽子をふかくかぶり直して、もしかしたら娘といって通じるかもしれないほど若い店員の後をゆっくりと追った。

 もちろん、おれには娘も、それどころか嫁すらもいないが。

 先を行く店員が、ふと思いついたように振り返り、おれに笑いかけて言った。

「あ、私を口説こうと思っても無駄ですよ。ちゃんとカレシいますからね?」

「……いや、さすがに、この状況で牛丼屋に連れて行って、きみを口説こうとは思わんよ」

「それと、牛丼のミソシル、トンジルにしていいですか?」

「……好きにしなさい」


(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オルチニン・ホリック カバなか @kavanaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る